病葉梢 その1
「・・・・・・ん」
どこからともなく居間を駆け抜けた、季節外れのひんやりとして湿った風に、私はふっと目を覚ます。柱に掛けられた時計の針を見ると、時刻は丁度午前2時を回ったところだった。
娘の楓を実家に送り届けた私は、今夜は居間に布団を敷いて一夜の寝床にしている。昔、私の部屋だった離れは、今は楓の部屋になっているからだ。
常夜灯の照らす、薄ぼんやりとした居間の中、同じくぼんやりとした意識のまま、辺りを見渡すと、寝る前に閉めたと思っていた廊下側の障子に、わずかに隙間が空いていた。
「・・・・・・ルカ、来たの?」
気がつくと、その隙間から覗く暗闇に向けて、懐かしい名前をポツリと呟いていた。まだ、私が楓と同じ年頃の少女だったころ、共に青春を過ごした友の名を。居間を風が吹き抜けたとき、彼女が私に会いに来た。なんだかそんな気がしたのだ。
でも、呼び掛けに対する返事はない。障子の隙間からは、相変わらずひんやりとして湿った風が、不規則に吹き抜けてくるだけだ。
ーー当然か、だって私は貴女を裏切ってしまったのだから。
その結論にたどり着いて、私はひとつため息を吐く。
昔、少女だった私がこの村で過ごしていたころ、私にはたった一人友だけと呼べる存在がいた。それがルカだ。
年頃の子供など、ほとんどいないこの村で、彼女は私にとって唯一同年代の人間だった。人間関係の作り方を知らず、引っ込み思案で家に引きこもりがちだった私を、彼女はよく外に連れ出してくれた。
ーーねぇ、一緒に遊びに行こうよ。
いつも、そんな言葉と共に差し出される彼女の手が、あの頃の私にとってどれだけ大切なものだったろうか。その手を握り返す感覚を、今でも私は覚えている。
二人で手を繋いで、私たちは村中を駆け回った。村は子供の足でも決して広くはなかったけれど、彼女といれば、どこまでも無限に広がるような感覚すら覚えた。私と彼女は何をするにもどこへ行くにも、いつも二人一緒だった。
そんな私たちの生活にも、終わりの時がやってきた。私が、村の分校を卒業するのと同時に、都会の学校への進学を決めたからだ。
確かに、彼女との生活は楽しかった。彼女がいなければ、私はいつまでも独りぼっちで内向的な少女のままだったろう。彼女との交流で広がる世界は、私の心を外へと向けるきっかけになった。
けれど、外へ向かう私の心は、そのまま村の外まで飛び出して、それはいつしか都会への憧れへと変わっていった。あの頃の私は、まだ若く、未来への夢と希望が溢れた、向こう見ずで無知な少女だった。村を出ればもっと素晴らしい世界が広がっている。そう無条件で信じてしまえるほどに。
ーー行かないで。ここで、ずっと一緒にいようよ。
村を出ることを打ち明けたその日、腕にすがり付いてそう懇願する彼女の手を振りほどいて、彼女の下から私は去った。去り際に、後ろから私を呼ぶ声が聞こえたが、私は振り返らなかった。もし、彼女の顔を見てしまったら、折角外へと向かい始めた気持ちが揺らいで、昔の自分に戻ってしまうかもしれない。心の弱い私にはそれが怖かった。
恐怖に突き動かされるように、その後すぐに私は村を去った。彼女とは、それっきり顔を会わせていない。
都会の学校に進学してからも、何かの節目で里帰りをする機会はあった。けれど、村へと帰ってきても、まだそこにいるはずの彼女が、私の前に現れることは決してなかった。
それも当然のことだろう。私は自分の孤独を紛らわせるために、彼女の存在を利用したも同然なのだから。後ろめたさから、私が故郷に向かうことは次第に無くなり、10年前の祖母の死を境に、ついにそれは途絶えた。
それなのに、今になって私はまた、彼女のことを利用しようとしている。あのとき、彼女が私の孤独を埋めてくれたように、今度は彼女が楓の孤独を埋めてくれるに違いない。そんな確信めいた予感があった。
・・・・・・いや、違う。そうじゃない。
今、私がやろうとしていることは、かつての逆。利用しようとしているのは彼女ではない。それは娘の楓の方だ。あのとき、果たせなかった彼女との約束を、私は娘の楓に押し付けようとしているのだ。
どちらにせよ、私は、何てずるい人間なのだろう。反故にした彼女との約束も、娘の抱える問題も、本当であれば私自身が向き合わなければいけないことなのに、その解決を二人に押し付けてしまっている。
それでも、私にはこうすることしかできなかった。今の私には、他の選択肢を選ぶだけの余裕はない。
こんな有り様になってしまったのは、私が今までことごとく人生の選択肢を間違えてしまったからだ。いや、間違えたというよりも、与えられた選択肢を無視して進んだ結果、気づいたときには前に進むことも元に戻ることもできなくて、にっちもさっちもいかなくなった、というのが正しい表現だろうか。
そして、その始まりは、恐らく、彼女を捨てて村から出ることを選んでしまったところだろう。
彼女から逃げるように村を出た私は、憧れていた都会の学校へ進学した。
しかし、そこで思い知らされたのは、私が、どこまで行っても余所者だという事実だった。長閑で小規模な共同体で育ってきた私にとって、都会の喧騒は我が身を蝕む毒でしかなかった。見知らぬ町を見知らぬ人の群れが行き交い、情報やトレンドは秒刻みで更新される。その忙しなさに、私はついていけなかった。
憧れは憧れのままがもっとも美しい。そう気づいたときにはもう全てが手遅れだった。あらゆるものが奔流のように駆け巡る都会で、私の存在は、さながら大海の真ん中で揺られる一艘の小舟だった。
ーーこのままでは、いつか溺れ死んでしまう。
波のように打ち寄せる都会の恐怖に対して、私がとった解決策。それは自分を偽ることだった。昔はあまり使わなかった、方言を殊更に使って、都会にやってきた気の強い田舎娘というアイデンティティーで自己を塗り固めた。そして、そんな私の分かりやすいキャラクターを、周囲の人は愛してくれた。
それから、自分を偽るという痛みは、常に私に付きまとった。でも、そうでもしないと、あのときの私は保たなかったのだ。
いつしか、そんな偽りの自分に特別な愛を注いでくれる人ができた。恋愛、結婚、妊娠、出産ーーライフステージの変化は、とんとん拍子に進んだ。周囲から見れば、私の人生は順風満帆に見えたことだろう。本当のそれは、偽りという泥で塗り固められた泥舟だったというのに。
私の心は、ずっと都会には無かったのに、都会で生まれた様々なしがらみが、ますます私をそこへ縛り付けた。本当は、愛する夫に「ねぇ、貴方。都会を離れて、どこか長閑な田舎で暮らしましょうよ」と言いたかった。
けれど、彼が愛してくれたのは偽りの私だ。気が強くて都会の荒波にも負けない田舎娘。その偽りが露見したとき、果たして彼は今まで同じように私を愛してくれるのか。その不安が私の口を閉ざした。私にできることは、沈まないように、常に舟を直し続けることだけだった。
こんな無茶な生活、いつかは必ず破綻する。そんなことは分かっていた。それでも、いずれ来るそのときまで、私は舟を直し続けた。それから20年近く舟は沈まなかった。もしかしたらこのまま無事に生涯を終えられるのかもしれない。
楓が不登校になったのは、丁度、そんな慢心が私の心に生まれたときだった。
泥で固めた私の舟は、外からの波には強かったが、その代わり、積み荷の量を犠牲にしていた。最低限、家族のささやかな生活が守れたらそれでいい。そう考えて作った泥舟にとって「娘の不登校」という積み荷はあまりにも重すぎた。
ーーもう、耐えられない。
そう思ったとき、気がつくと私の足は、懐かしい故郷へと向かっていた。
私という泥舟は、もう沈むしかないにしても、そこに乗った楓のことは助けたい。そう考えたとき、真っ先に頭に思い浮かんだのが彼女の顔だった。
「・・・・・・ルカ」
もう一度、彼女の名前を口にする。私が過去に置き去りにしてきた彼女の名を。
時間はいつだって不可逆だ。少女だった私も、今では大人になり、母になった。人は時間に逆らえない。もう少女だったあの頃に、私はは二度と戻れない。
だから、私は代役を立てた。
梢に代わり、彼女に救われる楓を。
梢に代わり、彼女を救う楓を。
キャスティングを変えて、私は過去の再現をしようとしている。彼女が少女の私を外に連れ出してくれたように、今度は彼女が楓を悩みから解き放ってくれることに期待しているのだ。
そして、あわよくば、彼女と私の迎えた結末を楓は塗り替えてくれるかもしれない。そうなればもう何も言うことはない。
でも、それらは全て私の淡い願望。これから始まる物語がどのような結末を迎えるのか、私には分からない。
楓が救われるのか、彼女が救われるのか。
二人が共に救われるのか、誰も救われないのか。
ハッピーエンド、バッドエンド、ビターエンド。全ての可能性は未だ混沌の中にある。
それでも、私には二つだけ分かっていることがある。
一つは、彼女は必ず楓の前に現れて、新しい物語を始めるということ。
そして、もう一つは、私はもう、ここから始まる物語には決して関わることができないということ。
ここから始まるのは、少女達の物語。
物語の登場人物になるための資格は一つ、それは少女であるということ。ただそれだけだ。
今、その資格をもつ者は二人。一人は私の娘の楓。そしてもう一人は、永遠の少女である彼女だけだ。
彼女は次の物語が始まるときをずっと待っている。この世でただ一つ、時の吹き溜まったあの場所で。
今思えば、私が彼女に会えないのは当たり前の話だった。彼女と物語を紡げるのは同じ年頃の少女だけ。たとえ、私の呼び掛けに彼女が応えてくれていたとしても、物語の外にいる私には、もう彼女のことを知覚する術がないのだから。
ーーもう、寝ましょう。明日はすぐに帰らないといけないのだから。
二度と会うことができなくなった彼女のことを想うと、左胸の辺りがずきりと痛む。その痛みを紛らわせるために、私は布団に潜り込んだ。
それでも、先程までの物思いが頭の中を駆け巡り、中々寝付くことができない。寝よう寝ようと念じれば念じるほど、思いとは裏腹に意識は覚醒して、それを無理矢理閉じ込めるように、私は強く目を瞑る。
そのとき、一陣の風が居間を吹き抜けた。私の目を覚ました、ひんやりとして湿ったようなあの風だ。
ーーああ、そうか。
風が頬を撫でたその瞬間私は気づいた。先程、風が吹いたとき、彼女がやって来たような気がした、その理由に。
いつも、私を外に連れ出してくれた彼女の手。
最後の別れの日に、私が振り払った彼女の手。
ひんやりとして肌に吸い付くような彼女の手。
この風が運ぶ冷たさは、そんな彼女の手にそっくりなのだ。
そう思うと、なんだか風が吹く度に彼女が私のことを撫でながら「もう気にしてないよ」と言っているような気がした。
そんなことを幾度か繰り返すうちに、いつしか私は安らかな寝息を立てていた。