病葉楓 その1
「……楓はなんも心配せんでええんよ」
山間の荒れた路面を車が走る不規則な振動に身を委ねていると、運転席でハンドルを握る母が、思い出したようにそう呟いた。家を出てから数時間、一言も言葉を発っさなかった母の口から唐突にこぼれた言葉に、半ば微睡みかけていた私の意識が覚醒する。
助手席に座る私が横目で窺うと、母はこちらに目を向けることもなく、前を向いて運転に集中しているようだった。
私たちの乗る車が今走っているのは四国の山間部だ。谷川に沿うように通された道は、川の蛇行に沿って曲がりくねり、そのほとんどが軽自動車同士ですら対向が困難な単線道路程度の幅しかない。対向車がやって来たら、時おり思い出したように路肩に設けられた待避所まで車を後退させるか、逆に相手に後退してもらうしかない。万が一、接触事故でも起こそうものなら、コントロールを失った車体はよくて山肌に衝突、最悪、ガードレールを破って谷底へ真っ逆さまだ。
そんな危険な場所だから、母が運転に集中しているのは、決しておかしなことはない。ないのだが、その分、先ほどの唐突な母の言葉に、私は違和感を覚えた。山道に入る前に、話しかけるタイミングなんていくらでもあったはずなのに、何故今なのだろうかと。
私は母に、そのことを問いただすために口を開いた。
「どうしたの急に」
「あそこは人も環境もええからね、楓もすぐによくなるからね」
「へぇ、どんなところなの」
「本当にええところやからね」
私からの問いかけに対して、答えになっていないような言葉を母が返す。話しかけておきながら、なんだかこちらを無視して自己完結しているような母の言葉に、私は少しむっとした。
……いいところっていっても、病気がすぐによくなる保証なんて、一体どこにあるんだろう。私はもう、丸一年も学校に通えてないのに。
※※※※※
私が、まともに学校に通えなくなったのは、今からおよそ1年前、高校1年生の二学期が始まってすぐのことだった。でも、その原因の元を辿れば中学時代、高校入試のときにまで遡ることになる。
生来、内向的で本の虫だった私だが、中学校時代にはまだ、少しは「友人」と呼べる子達がいた。その子達とは、三年生の夏頃までは仲良く過ごしていたのだが、夏休みが開け、学年全体が入試ムードになった頃から、少しずつ歯車が狂い始めた。
元から本が好きで、参考書などを読むことも苦でなかった私は、所属していた文芸部の活動が終わって受験勉強に専念し始めた途端、自分でも驚くほどの早さで学力が向上したのだ。それこそ、一緒にいた友達をおいてけぼりにするほどの早さで。志望校を決める直前の面談で、担任から当初よりも高いランクの高校を薦められた私は、それを断ることができなかった。
結果、私だけが自分の実力より少し背伸びした進学校に合格し、友達とは離ればなれになってしまった。合格がわかったとき、友達は皆、祝福の言葉をくれたが、合格した喜びよりも、皆と離ればなれになる寂しさが勝っていた私は、曖昧な笑みを浮かべて頷くことしかできなかった。
そこからはもう、お察しの通りだ。
友達がいない状態で、一から人間関係を作らなければいけない高校生活に馴染めなかった私は、段々と集団から無視されるようになった。無視はいつしか疎外に変わり、疎外が排除へと変わるのに、それほど時間はかからなかった。
そして、その孤独に耐えられるほど、私の心は強くはなかった。
夏休みが開ける9月1日、登校の準備を整えて玄関に立った私は、ドアを開けようと手を伸ばした瞬間に強い違和感に襲われた。それは、自分がそれまで心の中で抑えていた「何か」が、突然溢れだしたような感覚だった。心から溢れた「何か」は私の中を駆け巡り、ついには私の外へと出ようとし始めた。自分という存在の輪郭が失われていくようなその感覚に、足元が覚束なくなった私は、気がつくとその場に倒れていた。
救急車で病院に運ばれるも、身体にこれといって異常はなく、色々な科をたらい回しにされ、最後にたどり着いたのが精神科、そこで私に下された診断は、重度の鬱と適応障害だった。
それからずっと、私の心は空っぽのままだ。
※※※※
こんな有り様を一年も続けた私だから、今さら、ちょっとやそっとのことで、元の自分に戻ることができないことぐらい、自分が一番よくわかっている。
一方で、母が私のことを気遣ってくれていることもそれと同じくらいよくわかっている。今回、四国行きを母が決めた理由も、環境を変えれば心にもいい変化が起こるかもしれないという、主治医からのアドバイスに母が応えた結果だった。手を変え品を変え、私のことを助けようとしてくれている母に対して、感謝の念を覚えないほど、私だって落ちぶれてはいない。
いい加減な応対をする母への苛立ちと、今までの母の献身への感謝。相反して渦巻く二つの思いを留めておけるほど、今の私の心に余裕はなかった。
半ば、思考を放棄するように、母から目をそらすと、私は車窓から外の景色へと意識を向ける。そこには山紫水明と形容するに相応しい、豊かな自然が広がっている。山々の木々は所々で色を変えながら生い茂り、夏の日を浴びた葉の青はいよいよ鮮やかだ。眼下を流れる渓流は、翡翠のような緑がかった青を湛え、所々で川床の岩にぶつかって、うねり白波立つ姿からは、流れの清冽さが伝わってくるようだ。
しかし、その美しさへの感動も、今の私の心に刺さることはない。走る車に合わせて、車外の風景が後ろに流れて消えていくように、傷ついた心の隙間から流れ出ていく。
苛立ち。
感謝。
感動。
私の心にできたひび割れは、いかなる思いもそこに留まることを許さない。
本当に、この心が元通りになる日が来るのかな。
そんなことをぼんやりと考えながら、車を襲う不規則な揺れの中、私は再び微睡んでいく。
「……楓はなんも心配せんでええんよ」
薄れゆく意識の中、私は先ほどと同じ言葉で、しかし、先程よりも力強く響く母の声を聞いた気がした。
ホラーパートは結構先になるかもしれない(白目)