第8話 壊れた“私”へ
「……遥」
目の前の“私”が、私の名前を呼んだ。
その声には、怒りも悲しみもなかった。ただ、静かに――深く、私の中に染み込んでくるようだった。
「全部、思い出したでしょ? 始まりは、陽介だったよね」
私は小さくうなずいた。逃げようとしても、もう逃げられない。幻影の“私”が放つ言葉は、私の心の奥から生まれたものだから。
「……あのとき、私は……怖かった。陽介が倒れた日、全部が急に変わって。何が起きたのか分からなかった。だけど……助けたかった。ただ、それだけだった」
幻影は何も言わずに聞いていた。
「お母さんも必死だった。私は、支えなきゃって思った。誰かが冷静でいなきゃって……」
私は唇を噛んだ。
「でも、気づいてた。お父さんの様子が、少しずつ変わっていったこと。話すことが減って、目を合わせなくなって、家の中でもひとりでいる時間が増えて……」
思い返すたび、胸が締めつけられるようだった。
「たぶん……見ていられなかったんだと思う。陽介が、あんなふうになって。お母さんと私が、それでも毎日どうにか回そうとしてるのを見て、きっと、自分が何もできないってことに耐えられなかったんだ」
言葉にすると、どこか腑に落ちる気がした。
「私は、お父さんのこと、責めたこともあった。でも……今なら、少し分かる気がする。現実が、怖かったんだよね。私たちのそばにいることが、重かったんだと思う」
幻影が小さく頷いた。
「それでも、残された私は……誰にも何も言えなかった。言いたくなかった。泣いたら、崩れそうで。崩れたら、もう戻れない気がして……」
あの夜の静けさを思い出す。洗濯機の音、味噌汁の湯気、誰もいないテーブル。
「ずっと、我慢してたんだね」
幻影の“私”が言った。
「でも、それだけじゃない。君は――陽介のことも、だんだん変わっていったでしょ?」
私は、思わず顔を上げた。
「……分かってたの?」
「うん。君が一番隠したかった気持ちだもんね」
私は俯いた。喉の奥が、ひりつくように熱かった。
「最初は、助けたかった。本当に、そうだった。……でも、だんだん……“どうして起きないの?”って思うようになった」
目の奥が熱くなる。
「陽介が起きてくれれば、全部元に戻るって思ってた。でも、何ヶ月経っても、変わらなくて。私は、頑張ってるのに。お母さんも、あんなに……なのに、陽介だけが、ずっと……」
膝が震えていた。言葉を絞り出すように吐き出す。
「そのうち、憎くなってきたんだよ……。そんなふうに思っちゃいけないって分かってた。でも……」
幻影は、静かに私を見ていた。
「だから、ここを作ったんだね」
「……うん」
私は、うなずいた。
「もしも、陽介が元気で、お父さんもいて、お母さんも笑ってる世界があったら……って。そんなの、ただの妄想だって分かってる。でも、私は、それでも欲しかった。もう一度、あの頃に戻れるなら……って」
「ここは、そうやってできた世界」
幻影の“私”が言う。
「誰も傷つかない。誰も泣かない。誰もいなくならない。ここにいれば、それで済むんだよ」
私の手が、無意識に握られていた。
「もう帰らなくていい。あっちには、何もないよ。お父さんもいない、陽介は眠ったまま、お母さんは疲れ果ててる。そんな世界に戻って、また同じことを繰り返すの?」
幻影が一歩近づく。瞳はどこまでも静かだった。
「ここで一緒に生きよう。君が願った“もう一つの現実”で、ずっと――」
「――それで、いいのか?」
その声は、遠くからだった。
けれど、確かに聞こえた。
胸の奥に届くような、重みのある声だった。
私は、振り返った。
そこには誰もいなかった。でも、その声だけは、確かに私を呼んでいた。
「……金崎、さん……?」
幻影が眉をひそめた。
「無理に帰っても、また壊れるだけだよ。現実は何も変わらない。陽介は戻らない。お父さんも帰ってこない。だったら、ここで幸せになればいいじゃない」
私は、立ち尽くしていた。
心の中が、引き裂かれていた。
“願った世界”に生きるか。
それとも――
声が、もう一度響いた。
「遥。君は、それでいいのか?」
その声に、何かが揺れた。
胸の奥に沈んでいた泥のようなものが、少しだけ動いた気がした。
幻影の“私”が、私の前に立ちふさがるようにして言う。
「現実に戻ったところで、何があるの? 壊れた家、壊れた家族。疲れ果てたお母さんと、目を覚まさない弟。あっちに戻ったって、君はまた孤独になるだけだよ」
その言葉は、確かに私の中にある“真実”の一部だった。
でも――
「……それでも」
声が震える。
でも、私はそれを止めなかった。
「それでも、私は……ここにいたくない」
幻影の表情が動く。驚いたような、でもどこか悲しそうな顔。
「陽介は……まだ帰ってこないかもしれない。お父さんはもういないかもしれない。だけど……私がここに閉じこもっていたら、何も変わらない。私が逃げたら……きっと、全部、本当に終わってしまう」
私は拳を握りしめた。
「もう、誰も戻ってこないかもしれないけど。それでも、私は……あっちで、生きていたい」
幻影の“私”が、ゆっくりと目を伏せた。
「……そうなんだ」
少しだけ、微笑んだように見えた。
けれどその微笑みは、どこまでも切なかった。
「じゃあ、私はここに残るよ」
「え……?」
「君がいなくなったとき、私がここにいてあげる。君の一番弱かった部分。ここに閉じ込めた気持ち。それは、きっと消えない。消さなくていい。私が、持っておくから」
その言葉に、私は胸が締めつけられるようだった。
幻影の“私”は、一歩下がった。
「だから、行きなよ。私はここで、ずっと君を待ってる。もし、また壊れそうになったら、またここに来ればいいよ」
そして、彼女は静かに後ろを向いて、キッチンの奥へと歩いていった。
それが、まるで別れのように見えて、私は――
「……ありがとう」
自然と、その言葉が口から出ていた。
空間が、白く光に包まれていく。
あたたかいようで、どこか痛い光。
その中心に、誰かの姿が見えた。
「よく、ここまで来たね」
金崎だった。
いつものジャケット姿で、どこか安心するような、でも油断させないような目つきでこちらを見ていた。
「準備は、できた?」
私は、小さく、けれどしっかりとうなずいた。
その瞬間、風景がひとつ、音もなく崩れた。
私の心の世界が、静かに終わりを迎えていた。