第7話 冷たい記憶
ガタン――
鍋の蓋がわずかに揺れて、湯気がふわりと立ちのぼる。その音が、やけに大きく感じられた。
部屋の中は薄暗く、灯りはついていなかった。冷蔵庫のドアが半開きになっていて、そこから漏れるわずかな光だけが、台所の輪郭を浮かび上がらせている。時計の針が小さく鳴っていた。チク、タク、チク、タク。それすらも鼓動のように響いていた。
味噌汁の香りが鼻に届く。煮え立つ出汁の音を聞きながら、私は木のおたまを鍋に落とした。
この台所に、もうどれくらい一人で立っているだろう。最初は、母の代わりに何かしたくて、料理本を見ながら味噌汁を作った。うまくいかなかった日も、味が薄いと自分で思った日も、それでも誰かが褒めてくれるわけではなかった。
いつからか、それが“当たり前”になっていた。
おたまを引き上げ、器に味噌汁をよそう。湯気が立ち上るその瞬間だけが、家の中で唯一、あたたかいもののような気がしていた。
洗濯機の音が奥の部屋から聞こえてくる。母が仕事へ出る前に回していったものだ。夜勤明けで帰ってくるのは、朝になるだろう。
そして、父は――もう帰ってこない。
思い返せば、父が家を出て行った日は静かだった。喧嘩もなかったし、怒鳴り声もなかった。ただ、食卓の上に置かれた財布と鍵が、そのままになっていたのを覚えている。
私は知っていた。あの背中は、もう戻ってこないって。
でも何も言えなかった。問いかける勇気もなかった。止めたところで、何が変わるとも思えなかった。
ひとり分の味噌汁をテーブルに置く。食器の並ぶ音が、小さく反響した。
誰もいない。けれど、誰もいないことに、もう慣れてしまっていた。
私は席に着くでもなく、その場に立ち尽くしたまま、湯気の向こうをぼんやりと眺めていた。
どこで間違ったんだろう。
陽介が倒れてから、全部が少しずつずれていった。家族という形が音もなく崩れていった。誰かが壊れそうになるたびに、私は「自分がしっかりしなきゃ」と思った。泣かないようにした。感情を押し殺すようにした。壊れてしまえば、もう戻れない気がして。
でも、それは――
本当に、強さだったんだろうか。
何かを守れていたんだろうか。
私の手はずっと冷たかった。何をしても、誰に触れても、心の奥の方はずっと凍ったままだった。
「……はあ……」
吐き出した息に、自分の声が混じった。あまりに久しぶりで、どこか他人のもののように聞こえた。
そのときだった。
背後で、空気が微かに揺れた。
誰もいないはずの家で、確かに“何か”が動いた気配がした。音はなかったのに、心臓だけが一瞬、強く跳ねた。
私は、ゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは――私だった。
あのときの私。まだ中学生だった頃の、あの冬の頃の私。
ぶかぶかのジャージに、ぼさぼさの髪。制服を着る意味すら見失っていた時期。頬はこけ、唇の色も薄い。視線はどこにも向いていない。けれど、その無表情の奥には、あまりにも多くのものが詰め込まれていた。
私は息を呑んだ。
幻だと、最初は思った。
でも、そうじゃなかった。
その“私”は、輪郭が明確だった。
部屋の空気の中に、確かな重さを持って立っていた。
影が床に落ちていた。足音すら聞こえた気がした。
記憶の産物だとしても――それは、紛れもなく私だった。
あの頃、誰にも見せなかった顔。
感情を押し殺して、痛みも怒りも飲み込んで、ただ“耐える”ことだけに慣れていった頃の私。
口を開けば崩れてしまいそうで、黙り続けた。
泣けば止まらなくなりそうで、涙を凍らせた。
誰かに甘えれば、その人まで壊れてしまう気がして、何も言えなかった。
その全てを背負ったような顔をして、幻影の私は、ぽつりと呟いた。
「――もういいよ」
声は小さかった。でも、心の奥に深く届いた。
ひび割れた陶器を、指でなぞるような音だった。
優しいのに、切なくて、どこまでも痛かった。
その一言には、言葉にできなかったすべてが込められていた。
押し殺してきた涙。
言えなかった「助けて」。
耐えて、黙って、笑ったふりをして、それでも誰にも届かなかった気持ち。
そして――自分自身への、あまりにも静かな哀れみ。
私は、一歩も動けなかった。
足が床に縫いとめられたみたいだった。
目の前の“私”が、何もかもを見透かしているようで、逃げることも目を逸らすこともできなかった。
幻影の私は、ゆっくりと歩き出した。
こちらに向かって、静かに、確かに、歩いてくる。
一歩ずつ、一歩ずつ。
床を踏みしめるたびに、私の胸の奥に何かが軋んだ。
まるで鏡の中から、過去の自分が抜け出してきたようだった。
忘れたつもりでいた記憶。見ないふりをしてきた感情。その全てが、今ここに、形を持って現れていた。
私は、呼吸すら忘れていた。
“向き合う”時が来た。
そう、身体のどこかが理解していた。
そしてそれが、心の底から、怖かった。
でも、もう逃げられない。
目の前の“私”が、口を開いた。
そして――私の名前を、呼ぼうとしていた。