第6話 記憶の探究
「案内してくれ。君の奥へ」
金崎がそう言ったとき、私は自然と玄関へと視線を向けていた。
目の前にあるのは、いつも見ていたはずの、自宅の玄関だった。けれど、今はまるで、そこが世界と世界の境界線のように見える。私の中の“もっと深い場所”へ通じる、重く閉ざされた入り口。
私はゆっくりと歩き出した。金崎が一歩後ろをついてくる気配がした。
玄関の扉に手をかける。その冷たい感触に、心臓が一度、大きく跳ねた。
――開けてしまって、本当にいいの?
そう問いかけるように、扉は微かに震えていた。
でも、私は躊躇しなかった。ノブを回し、扉を開けて、足を踏み入れる。
♢♢♢
中にあったのは、あの日のリビングだった。
窓の外は、まるで世界が呼吸を止めたかのような灰色の空だった。日差しは一切なく、曇天の光が部屋の中に沈んだ色を落としていた。
その静けさを引き裂くように、玄関先で何かが崩れ落ちた音がした。
「陽介?」
最初に気づいたのは、何気ない気配の変化だった。玄関から帰ってくる音はいつもなら元気な声とともに響くのに、その日は違った。足音がなかった。代わりに聞こえたのは、鞄が床に落ちたような、鈍い音。
私はソファから立ち上がり、急いで玄関へ向かった。
そして、そこにいたのは――
「……え?」
靴を履いたまま、制服姿のまま、陽介がうつ伏せに倒れていた。
頬は土気色で、唇がうっすらと紫がかっている。手足はかすかに痙攣していたようにも見えたが、目は開いていなかった。まるで、ぬけがらのようだった。
「陽介!?」
私は駆け寄った。息を詰めて、肩を揺さぶろうと手を伸ばす。けれど、その手は虚空をすり抜けた。
記憶の中の情景――そう頭では理解しているはずなのに、心がそれを否定していた。私の指先は陽介に届かない。何も掴めない。目の前で倒れている弟が、遠い。
「ダメ、嘘……嘘でしょ……」
膝から崩れ落ちそうになるのを、どうにか堪えていた。恐怖というより、混乱だった。何が起きたのか分からない。どうすればいいのか分からない。ただ、頭の奥で警鐘のような音だけが鳴り響いていた。
そのときだった。
「救急車……誰か、救急車呼んで!」
母の声が、部屋の奥から響いた。悲鳴にも似たその叫びが、空気を切り裂いた。私は振り返る。廊下を走ってきた母が、陽介の姿を見て、動転したように電話を手に取った。手が震えていて、最初に押した番号をすぐに間違え、慌てて切ってまた押し直す。かけ直すたびに、指が滑り、ボタンを叩き直す音が部屋に響いた。
母の顔には、あんな表情を今まで一度も見たことがなかった。
歪んだ口元。見開いた目。かすれた声。いつもなら家族を支えてくれるあの人が、まるで別人のようだった。
私は、何もできなかった。
ただ、玄関に立ち尽くしていた。動けなかった。金縛りにあったように、身体が一歩も動かなかった。足の裏が冷たくて、心臓が暴れるように打っていた。
陽介が倒れている。そのことだけが現実で、あとは何も理解できなかった。
誰かが、代わりに判断してくれないかと願った。誰かが駆け寄ってくれて、「こうすればいい」と教えてくれたらいいのにと。なのに、誰もいなかった。
あの瞬間――世界は音を失い、私は、自分の無力さと向き合わされていた。
♢♢♢
場面が変わった。
目の前に現れたのは、病院の診察室だった。
無機質な白い壁。淡い緑色のカーテン。消毒液の匂いが鼻をつき、時計の針の音だけが部屋に響いていた。
けれどその時計は、今にも止まりそうなほど遅く見えた。まるでこの部屋だけが、時間から取り残されているかのようだった。
陽介は診察台の上に横たわっていた。点滴の管が細い腕に繋がれている。眠っている――それだけのようにも見える。でも、その呼吸があまりにも静かで、私はずっと不安で仕方なかった。
医者が口を開いた。
「……原因は分かりません」
淡々とした口調だった。まるで心を切り離したような、よく訓練された声。
「脳波には異常がなく、血液検査でも特別な所見は出ていません。MRIも、CTも正常です」
母が小さく息を飲んだ。
医者はそれに気づいているはずなのに、表情を一切変えずに続ける。
「眠っているだけのように見えますが、呼びかけや物理的な刺激に反応がありません。いわゆる“原因不明の昏睡状態”ですね。現時点での治療法も、明確な見通しもありません」
机の上に置かれた紙が、冷たい蛍光灯の光を反射していた。そこに書かれていたのは、医療用語と数値の羅列。何ひとつ、私には理解できなかった。
母の目から、ぽろりと涙が落ちた。音もなく、頬を伝って、膝の上の手に落ちた。
父は、何も言わなかった。片手で顔を覆い、うつむいたまま動かない。膝を広げて座ったその姿が、小さく見えた。
私は――
私は、ただ座っていた。
椅子に背を預けたまま、拳をぎゅっと握ることしかできなかった。
「なんで」とか「どうして」とか、そういう言葉すら出てこなかった。ただ、空白だった。頭が真っ白で、身体が重くて、声が出なかった。
母が泣いていても、父が黙っていても、私は何も言えなかった。
まるで、自分だけが置いていかれたような感覚。部屋の中に、自分の居場所だけがなかった。
誰かの役に立ちたかった。何か言えたらと思った。けれど、そのどれもできなかった。
私は、無力だった。
そして、そのことを初めて、強く自覚した。
けれど、それでも――
この記憶の底には、まだ終わっていない何かがある。
背後の空間が、また微かに揺れ始める。
遠くで、鍋の沸騰する音のような小さな気配が聞こえた。
次の記憶が、私を待っている。