第4話 異世界ダイバー
「じゃあ、今から確かめてみようか」
金崎は、まるで缶コーヒーでも差し出すかのような軽さで言った。
けれど、その声の奥にあったものは、私にははっきりと伝わってきた。ただの冗談でも、お決まりのセリフでもない。今の言葉には、“一線を越える”覚悟を問う重みがあった。
「確かめるって……何を、どうやって……?」
問い返すと、金崎はゆっくりと立ち上がり、部屋の隅にある金属製のケースを開けた。ぎぃ、と鈍い音が部屋に響く。その中から彼が取り出したのは、手のひらより少し大きな、円形の装置だった。つや消しの黒いボディに、中心だけ淡く青く光っている。SF映画に出てくるような、異質な存在。
「これは、君自身の“未完成の異世界”にアクセスするための装置だよ」
静かな口調でそう告げると、金崎は装置をテーブルの上に置いた。私は息を詰めて見つめた。機械のくせに、まるで呼吸をしているみたいに見えた。
「未完成……?」
「異世界病ってのはね、自分の中に“もうひとつの世界”を作る病だ。現実が辛くて耐えきれなくなると、脳が自分を守るために、逃げ場を作るんだ。ファンタジーとか、ゲームとか、小説とか……君も想像したこと、あるでしょ? 自分だけの世界」
言葉に詰まった。
……ある。あるに決まってる。現実が壊れた日々の中で、私は何度も、想像した。もしも別の人生が送れたら。誰にも責められずに済む世界があったら――。
「大丈夫。今すぐ異世界病になるってわけじゃない。けど、君の中では、もうその“世界の設計図”が描かれ始めてる」
金崎は私の目をまっすぐに見た。
「だから、その未完成の世界を、今のうちに“見ておく”。それが、弟さんの異世界を理解する鍵になるかもしれない」
私は唾を飲み込んだ。目の前の装置が、なんだかとても遠くにあるように感じた。けれど、同時に強く引き寄せられているのも感じていた。
「……危険は、ないんですか?」
「まったくゼロではない。でも、初期症状の段階なら、意識は現実に戻ってこられる。俺がここにいる限り、大丈夫。信じるかどうかは、君次第だけど。それに、俺も君を追って、君の世界に入るからさ」
信じるかどうか――そんなこと、考えても仕方なかった。私はもう、ここまで来ている。何もせずに引き返せるわけがない。
「……やります。私の異世界、見てみたいです」
そう言った自分の声が、少しだけ震えていた。でも、その震えには、確かな意志が宿っていた。
金崎はうなずいた。
「じゃあ、始めよう」
その瞬間、装置の青い光が、少しだけ強く脈打った。
金崎は細いケーブルのようなものを数本取り出し、それを装置の側面から引き出すと、そっと私のこめかみに貼りつけた。冷たくて、ぴたりと張りつく感触。まるで生き物に触れられたような妙な違和感があった。
「これは脳波を読み取るセンサー。君の意識と装置を同期させて、内側にある世界を“再現”するためのものだよ。あくまで表層の領域だけどね。本来は、昏睡状態の患者に使う大型装置が別にある。これは簡易版。非合法で、市場には出てない」
そんなものをさらっと出してくる金崎に、やっぱりこの人はまともじゃない、と内心で思った。でも、その“まともじゃなさ”が今の私には必要だった。
「何か特別な準備って……ありますか?」
「うん。リラックスすることだよ。目を閉じて、あとは“流れに身を任せる”こと。強く逆らわなければ、ちゃんと戻ってこられる。脳が見せる風景に身を委ねるんだ。考えるな、感じろ、ってやつだね」
ふざけてるような調子に、緊張が少しだけ和らいだ気がした。
私はゆっくりと深呼吸をした。目を閉じる。暗闇の中に、青い光がぼんやりと浮かんでいた。機械の動作音が小さくなり、耳の奥で自分の心臓の音が響き始める。
体が、少しずつ沈んでいくような感覚。
現実と夢のあいだにある、あのふわふわとした境目に、私はゆっくりと溶けていった。
そのときだった。
青い光が、静かに点滅を始めた。光に呼応するように、耳の奥で小さな電子音が鳴る。それは規則的でありながらも、どこか心拍に似ていた。
私は目を閉じたまま、心の中で数を数えた。ひとつ、ふたつ――どこか遠くへ行くような感覚が、じわじわと背中から這い上がってくる。背筋が冷える。空気が変わった。室内の匂いも、音も、なにもかもが少しずつ遠ざかっていく。
「大丈夫。そのままでいいよ」
金崎の声が聞こえた。けれど、それはまるで水の中で誰かが話しているかのように、ぼやけて聞こえた。
指先が、浮いていく。足の裏が、地面を離れたような感覚。私は、どこかへ運ばれている――そんな錯覚に襲われた。
思考がゆっくりと溶けていく。心の輪郭が曖昧になる。現実と幻想、その境界が、滲んでいく。
目を閉じているはずなのに、光が見えた。あたたかくも冷たい、青白い光。遠くで誰かの声がする。懐かしいような、知らないような声。世界が反転し、感覚が裏返る。
――私はいま、どこにいるの?
そんな問いが、浮かんだときにはもう遅かった。
私の意識は、確かに“どこか別の場所”へ、滑り込もうとしていた。