第3話 弟
「弟が……中学二年の夏から、目を覚まさなくなったんです」
ようやく言葉が出た。これまで何度も説明してきたはずなのに、今回はどうしようもなく言いづらかった。喉の奥に絡まったままの感情を、無理やり引きずり出すようだった。
「もう、半年になります。いきなり倒れたとか、事故があったわけじゃなくて……朝、呼びに行ったら、眠ったまま起きなくて。救急車を呼んで、すぐ病院に連れていきました。でも……」
言葉が自然と止まる。
金崎は、ただ黙って聞いていた。余計な相槌も、気休めの言葉もなかった。でも、話す側としては、その沈黙がありがたかった。
「いろんな検査を受けさせました。脳にも体にも異常はないって言われて……けど、目を覚まさない。ずっと、静かに、眠ったままで……」
言いながら、自分の声が震えているのがわかった。
「最初は信じられなかった。医者も戸惑ってて……ストレスかもって言われて。けど、ストレスって何? って、こっちは思ってるのに、誰も明確には答えてくれなくて……」
誰にも責められてないのに、責められているような気がしていた。何か見落としていたんじゃないか、もっと早く気づいていたら――そんな後悔だけが、毎日頭の中を巡っていた。
金崎はしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「中学二年。半年間、昏睡状態。病院では異常なし。――なるほどね。多分、それ、“異世界病”だよ」
その言葉に、心臓が跳ねた。
「……やっぱり、本当にあるんですか? その……異世界病って」
そう口にしながら、自分でもどこまで信じているのかわからなかった。
最初にその言葉を目にしたのは、ネットの記事だった。『眠れる森の美女症候群』――そんなロマンチックな名前がつけられた、原因不明の昏睡状態に陥る病気。全国で患者が確認されていて、ニュースでも取り上げられていた。医学的な原因はわかっていない。ただ、ある日突然、眠ったまま起きなくなる。それだけ。
けれど、SNSではもっと違う話が広がっていた。共通して、そうなった人たちは強いストレスを抱えていたとか、現実から逃げ出したくなるような出来事に直面していたとか。まるで、心が限界を迎えて、自分だけの世界に避難したかのように。
そしてごくまれに、目を覚ました人たちが言うのだ。「自分は異世界を冒険していた」と。もちろん医学的な裏付けなんてない。ただ、そう証言する者が何人もいた。信じるか信じないかは人それぞれ。でもその奇妙な共通点が、“異世界病”という俗称を生んだ。
私はその話を、最初は冗談だと思っていた。けれど、弟の状態が何ヶ月も変わらないまま時間だけが過ぎていく中で、だんだんと“冗談じゃないのかもしれない”という気持ちに変わっていった。
私の問いに、金崎はごく自然な表情でうなずいた。
「あるよ。医学的にはまだ正式に分類されてないけど、現場ではかなり前から知られてる。いわば、“極端な現実逃避の果てに、本人の精神が作り上げた世界に引きこもる”って状態だ」
「引きこもる……世界に?」
「そう。最初は夢みたいなもんだよ。でもな、意識がその世界にどっぷり浸かって、次第に現実よりも“そっち”が本物になっていく。現実に戻る必要がないって、本人の中で認識が固まると、もう目を覚まさなくなる」
現実が“フェイク”になっていく。そう言われたとき、思わず息を呑んだ。まるで、自分に言われているような気がしたからだ。
「……それって、つまり」
「弟さんは、自分で作った異世界の中で“今も生きてる”ってこと。夢でも幻覚でもない、確かにそこにある“本人だけの世界”だ」
半年間、意識のない弟が、ただの眠りについているんじゃない。別の世界で、生きている――そう思った途端、胸の奥に熱いものが広がった。
「でも……どうして、そんなことが……」
「きっかけは様々だよ。家庭環境とか、人間関係とか。強烈なストレスに晒された子どもが、“逃げ場”として作るんだ。小説とかゲームに影響を受けてね。“異世界転生”とか、“ヒーローもの”とか、そういう設定を土台にして」
言葉が出なかった。
陽介は昔から、ファンタジーが好きだった。ゲームも、本も、そういうものばかり読んでいた。学校に行かなくなってからは、部屋にこもって、画面の中の冒険ばかり見ていた。私はそれを責めなかった。むしろ、そうやって気を紛らわせるしかないんだろうと思っていた。
でも、そうして逃げ込んだ先が、“本当の世界”になってしまったとしたら。
「半年なら、まだ戻れる可能性は高い。長期化すると難しくなるけど、今のうちなら、間に合うかもしれない」
金崎の声には、少しだけ真剣さが混じっていた。
「“まだ”って……戻れなくなるんですか?」
「異世界の中で数年が経つと、記憶の連続性が向こうに傾く。そうなると、現実を思い出すこと自体が“ノイズ”になってくる。現実そのものが“異物”になってしまうんだよ」
私は言葉を失った。
陽介が、現実を忘れていく? 私のことも、母のことも、全部――?
「でも、まだ半年。十分希望はある。問題は、“誰がそこへ入って、彼を引き戻せるか”ってことだ」
「……入るって、どうやって?」
問うと、金崎は少しだけ眉を上げ、にやりと笑った。
「それはあとで説明するよ。まずは、君がどこまで知りたいのか。それを、聞かせてほしい」
私は自分の手を見下ろした。膝の上で、いつの間にか爪が手のひらに食い込むほど強く握られていた。深呼吸を一つして、金崎の目をまっすぐに見た。
「知りたいです。何が起きてるのか。弟が、どんな世界で生きているのか……それを知りたい」
自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。もう、逃げる気はなかった。