第1話 カネザキ相談所
雨が降っていた。空は一面の雲に覆われ、陽の光は地上に届いていない。霧のように細かい雨が街の空気をじっとりと湿らせ、アスファルトの路面を鈍く光らせている。私はフードを深く被り、肩をすくめながら足早に歩いた。風に乗って頬をかすめる水滴が、体の芯まで冷たさを染み込ませてくる。
背中に背負ったリュックは湿って重く、靴の中にも水が染みていた。少しでも気を抜けば、足が止まってしまいそうだった。だから、立ち止まる前に歩き続けるしかなかった。
駅から少し歩いた先、真新しい郊外の改札口を抜けると、時代に取り残されたような商店街が広がっていた。シャッターを下ろした店舗が多く、人通りもまばら。開いている店は数えるほどしかなく、軒先からは油の匂いが微かに漂ってくる。雨除けのビニールシートを被せたワゴンに、売れ残りのパンが雑然と並んでいた。ひとりの年配の女性が、背中を丸めてその前に立ち、黙々と品定めをしている。
こういう景色を見るたびに思う。人はそれぞれ、何かを抱えて生きているのだろう。だけど、それがどんなものなのかは、他人からは見えない。ただの通行人。通りすがり。私も、あの女性にとっては、きっとそうだ。
商店街を抜けると、道はさらに静かになった。道沿いには、どれも老朽化の進んだ雑居ビルが建ち並び、くすんだコンクリートの壁には黒ずみが浮いている。窓ガラスの割れた部屋もいくつかあり、そのまま放置されているのが見てとれた。湿気を帯びた風に、ポスターの端がゆらゆらと揺れている。色褪せ、剥がれかけたそれには、『テナント募集』『格安オフィス』といった、誰にも届かない文字ばかりが印刷されていた。
私は足を止め、カバンの中を探った。取り出した小さな紙切れが、濡れた指にぴたりと貼りつく。
――『どんな相談でも承ります』
それだけ。住所と電話番号の記載のみ。ポップさも、信頼感を与えるロゴもない。インクはところどころ滲み、紙質も安っぽい。ただの怪しい広告。普通なら、こんなものに縋ったりはしない。馬鹿げてる。そんなこと、自分でもわかってる。
それでも――私は、ここに来た。
藁にもすがるなんて言葉じゃ足りない。むしろ、私はもう沈みきった後で、唯一見えている藁だけを掴みに来たようなものだ。信じているわけじゃない。けれど、何もしなければ、私はきっと一生後悔する。そんな確信だけが、私の背中を押していた。
紙切れをポケットにしまい、私は視線を上げた。目的のビルは、ちょうど目の前にあった。
コンクリートの外壁は色を失い、ところどころにヒビが走っている。入り口のガラス扉には貼り紙がいくつも重なり、重ね貼りされたテープの跡で曇っていた。「クリーニング」「ペット可」「格安貸事務所」――そして、一番下の隅に小さく、「カネザキ相談所」とだけ印刷されたプレートが、斜めに貼りつけられていた。
これが、私の辿り着いた場所。
扉を押すと、ギィ……と鈍い音を立てて開いた。中は薄暗く、誰の気配もない。コンクリートの打ちっぱなしの壁には、薄く染みが浮いている。古い蛍光灯が天井でかすかに唸りを上げ、階段の奥へと続く薄暗い廊下を照らしていた。
エレベーターはない。狭い階段を見上げると、最上階までおよそ五階。誰が住んでいるのかも分からないフロアの扉が等間隔に並び、すべてが無言でこちらを見下ろしているようだった。
私は思わず、小さく唾を飲み込んだ。階段を登るという行為が、これほど重たく感じたのは久しぶりだった。
――この先に、何があるのか。
私は深呼吸し、足を踏み出す。雨音が背後で遠ざかっていき、代わりに、自分の靴音だけが、冷たい空間に響き始めた。
階段を一段一段上がるたび、胸の奥に沈んでいた不安が、じわじわと浮き上がってくる。緊張ではない。恐怖でもない。ただ、心の奥にずっと巣食っていた“諦め”が、今この瞬間にだけ少し揺らいでいた。
最上階にたどり着いたときには、うっすらと汗をかいていた。体は冷えているはずなのに、額にはじっとりとした熱がこもっていた。
フロアの奥にある一枚の扉。その前に立ち、私はゆっくりと目を細める。
扉には「カネザキ相談所」と手書きされたプレートが貼られていた。業者が作ったような整った看板ではない。マジックで書かれた文字は、どこか子どもの落書きのようで、頼りない。そう、全てが頼りなかった。
それでも――扉の向こうに、誰かがいるかもしれない。その誰かが、弟の病気を治す方法を知っているかもしれない。
私は一瞬、躊躇した。けれどそのためらいを打ち消すように、手を伸ばしてドアノブを握った。
思っていたよりも軽い音で、扉はすんなりと開いた。
中は、思っていた以上に……奇妙な空間だった。
六畳ほどの部屋に、壁一面に書棚が並んでいる。そのほとんどが古びた心理学の専門書や、哲学、宗教学、はてはオカルト関連の書籍まで、ジャンルを問わずぎっしりと詰まっていた。机の上にはパソコンと、見慣れない機械のパーツのようなものが無造作に置かれている。整っているようでいて、どこか散らかっている。不快ではないが、妙な違和感があった。
部屋の奥、机の向こう側に、一人の男が座っていた。
髪は寝癖のように跳ね、襟元の緩んだシャツに、よれたジャケット。だらしない印象を受けるのに、不思議と清潔感があった。男は私に気づくと、ゆっくりと立ち上がり、にやりと笑った。
「いらっしゃい、水嶋遥さん」
私は息をのんだ。
名乗っていない。予約もしていない。なのに、男は私の名前を知っていた。
「待ってたよ。話は全部、《《聞いているから》》」
その目は、私の奥を覗き込むように、じっとこちらを見ていた。