第11話 君の眠るそばで
重たい音を立てることなく、病室の扉はわずかに軋んで開いた。
淡い光に照らされた無機質な空間が、そこには広がっている。
遥は一歩、足を踏み入れた。
瞬間、外の空気が断ち切られたように、世界が静寂へと変わった。
エアコンの低い唸り。
点滴から滴る液体がわずかに奏でる音。
そして、電子モニターが刻むリズムが、部屋の支配者のように一定の間隔で鼓動を打つ。
それ以外のすべてが、凍りついていた。
季節も、時間も、日々の営みも、ここには存在しなかった。まるでこの部屋だけが、長い冬に閉ざされてしまったかのように。
遥はそっと扉を閉め、音を立てぬように歩みを進める。
その足音すら、どこか場違いに思えた。
陽介は、変わらずそこにいた。
白い枕に頭を乗せ、細くなった身体が静かに布団の下に横たわっている。
口元には呼吸器、腕には点滴の針。管の先のモニターが、まだ生きていることを示す唯一の証だった。
けれど――それは、遥が知っている“弟”の姿ではなかった。
遥の記憶の中の陽介は、もっと騒がしくて、もっと感情にあふれていて、もっと――生きていた。
弟の名前を呼べば、すぐに振り向いてきた。
拗ねたり、怒ったり、笑ったり、しつこくゲームの話をしてきたり。
うるさいなと内心思いながらも、その存在が日常の一部だった。
その陽介が、今はただ、沈黙の中に身を横たえている。
遥はベッドの脇まで近づき、そっと覗き込んだ。
上掛け布団の下で、胸がほんのかすかに上下している。
けれどそれが、あまりにも静かすぎて――まるで作られた動作のようにさえ思えてしまう。
「……陽介……」
誰にも届かない声を漏らし、遥は自分の手を見つめた。
この手が、彼に何をしてやれるというのだろう。
撫でることも、引き戻すこともできず、ただ目の前に立ち尽くすだけ。
まるでガラスの向こうにいるみたいだ、と遥は思った。
手を伸ばせば届きそうなのに、どうしても触れることができない。
その距離が、たまらなく悔しかった。
記憶の中の陽介と、今ここにいる陽介。
同じはずなのに、どこか別の人間のようにさえ感じる。
この静けさが、永遠に続いてしまうのだろうか――。
遥は、ベッドのそばにある簡易チェアに腰を下ろした。
そして、そっと手を膝に置いたまま、黙って弟の寝顔を見つめ続ける。
機械の電子音が、一定のリズムで空間を満たしていた。
冷たいエアコンの風が、微かに頬をかすめる。
どれほどの時間が経ったのか、わからない。
窓の外の明るさも、時計の針の位置も、もはや目に入らなかった。
ただ、陽介の静かな寝息と、微かに上下する胸元だけを頼りに――遥はそこに“生”の気配を感じ取ろうとしていた。
少しでも目を逸らしたら、弟が今にも消えてしまいそうで。
心のどこかで、ずっとその恐怖にしがみついていた。
気がつけば、遥は身じろぎもせず、じっと同じ姿勢のままだった。
何も言わず、何も触れず。
ただひたすらに、陽介の存在を確かめ続けていた。
目の前の命は確かに“在る”はずなのに、どこか遠くに感じる。
何度見つめても、それが現実だと実感するまでに、時間がかかった。
遥はゆっくりとジャケットのポケットに手を差し入れた。
指先が触れたのは、手のひらに収まるほどの小さな装置。冷たく、硬く、現実の質量を確かに持った機械だった。
――これが、陽介の世界へと繋がる唯一の鍵。
金崎に手渡されたとき、彼はこう言った。
「無理に戻ってくる必要はない。行って、話して、君自身が納得できるなら、それでいい」と。
でも、そんな悠長なことを言っていられるほど、遥の心には余裕がなかった。
――一刻も早く、あの子に会いたい。
――どうしてこんなことになったのか、直接聞きたい。
――そして……できるなら、連れ戻したい。
その一心で、ここまで来た。
けれど。
いざ装置を手にすると、震えが走った。
呼吸が浅くなる。
肺の奥が冷たいものに締めつけられるようで、酸素がうまく入ってこない。
このまま戻ってこられなかったら?
あの子が、私のことすら忘れていたら?
あり得る未来が、次々と脳裏をよぎる。
否定しようとしても、現実はいつだって想像の斜め上を行くのだ。
それを、遥は自分の異世界で痛いほど思い知らされた。
こんなふうに装置の前で躊躇うことになるなんて、思ってもみなかった。
それでも。
遥は、視線を上げた。
ベッドの上で静かに呼吸を続ける弟の姿――その胸の上下だけが、今は唯一の救いのように見えた。
このまま、何もせずに終わっていいはずがない。
遥は、深く息を吸い込んだ。
冷たい空気が肺の奥を満たし、わずかに震える手が静まっていく。
怖い。でも、行かなくちゃ。
あの子の手を、あの場所で掴んでやらなきゃ。
「……行くよ、陽介」
小さく呟き、陽介の頭に触れる。
そして、装置の中央にあるスイッチへと、そっと指をかける。
――世界が、わずかに揺れた。




