プロローグ
人は、本質的に楽な方へと流れる。
努力を讃える言葉は世の中にあふれているけれど、現実には、苦しみを避け、穏やかな日々に身を委ねる方がずっと簡単で、そして普通だ。
すべてを投げ出したくなる瞬間は、誰にでもある。
何もかもを忘れて、別の場所で、別の誰かとして生きられたら――そんな夢を、一度も見たことがない人なんて、きっといない。
理想の生き方とは何かと問われて、すぐに答えられる人間はいない。
けれど、“今ではないどこか”を想像することは誰にでもできる。
そこでは誰にも否定されず、好きな自分でいられて、現実の傷も痛みもない。
たとえそれが幻想だとわかっていても、心は勝手にそこへと手を伸ばしてしまう。
私も、そうだった。
テレビのニュースが、静かな部屋の中で淡々と流れていた。
窓の外はもう薄暗くなっていて、照明もつけていないリビングには、夕暮れの青い光だけが静かに満ちていた。
母はまだ仕事から帰ってこない。私は一人、食卓のテーブルに肘をつきながら、ぼんやりと画面を見ていた。
『……若年層を中心に、原因不明の昏睡状態が相次いで報告されています。医療関係者の間では、“眠れる森の美女症候群”とも呼ばれ……』
耳に届くその声に、私はゆっくりとリモコンを手に取り、音を下げた。
このニュースを聞くのは、もう何度目だろう。
どこか他人事のような口調で語られるその病に、私は、ひとりの“顔”を思い浮かべていた。
陽介――私の弟。
半年ほど前から、彼は目を覚まさない。
医学的な診断は曖昧で、心因性昏睡とだけ説明され、はっきりとした原因も治療法もない。
ただ静かに眠り続けている。まるで、自分からこの世界を閉じたかのように。
私はテーブルの上に置いたノートパソコンを開いた。
検索履歴には、「昏睡状態」「目を覚まさせる方法」「異常睡眠障害」などの文字がずらりと並んでいる。
似たような記事ばかりで、内容も希望もどれも大差ない。
それでも諦めきれずに、私はまた検索欄をクリックしようとして――ふと、ひとつの広告が目に留まった。
《どんな相談でも承ります。――カネザキ相談所》
怪しげなコピー。ネット広告にありがちな詐欺の匂い。
でも、そのページを開いた私は、思わずスクロールを止めた。
そこには、いくつもの“体験談”が並んでいた。
『昏睡していた娘が目を覚ましました』
『他ではできない“治療”があります』
『信じるしかなかった。でも、今は感謝しています』
読みながら、私はほんの少しだけ眉をひそめた。
どれも胡散臭くて、いかにも《《信じたい人》》に向けた言葉のように思えた。
けれど――それでも、スクロールする指を止めることはできなかった。
嘘かもしれない。希望を見せかけた広告かもしれない。
けれど、そのときの私は、他にすがれるものをもう何も持っていなかった。
だから私は、その名前を覚えた。
“カネザキ相談所”。
ほんの出来心のように見たそのページが、私にとっての“始まり”だった。