「妹の名前(前編)」
雨が降っていた。
冷たいしぶきが、ビルの谷間を濡らし、夜の東京を灰色に染めていた。視界は悪く、傘を差す者もまばらだ。だがその中で、一人の女が静かに歩いていた。
ユウカ——その手には銃、瞳には決意。彼女が向かうのは、次の標的。過去を消し去るための、最後のピース。
それは、「妹」の名前に繋がる真実。
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一方、S.E.I.D.本部。
篠原直哉はモニター越しに、ある男の記録を見つめていた。
【被験体監督官:天野宗一郎】
元・軍事技術顧問、現在は民間に移籍。だが裏で能力者の人体実験に関わっていた記録が、橘伊吹の解析によって明らかとなった。
「こいつが……ユウカが殺した研究者か」
ファイルに添付された記録には、彼女が銃を向けた瞬間の監視映像も含まれていた。部屋には銃声、悲鳴、そして倒れる天野の姿。
しかし——そこに映ったユウカの表情は、怒りでも狂気でもなかった。
それは、まるで……祈るような、哀しみだった。
「直哉……」
背後から声がかかる。伊吹が手にしていたのは、USB端末。
「これ、妹の最終記録ファイルだ。見たいなら……覚悟しろよ」
篠原は無言で受け取る。
ターミナルに挿入すると、ホログラムに一枚の画像が浮かび上がった。
少女がいた。まだ十歳にも満たない、あどけない笑顔。
名前:篠原 明日香
区分:S.E.I.D.認定能力候補者(未分類)
記録日:7年前。
——そして、その下にはこう記されていた。
死亡理由:能力発現時の神経ショックによる脳死(事故処理済)
「……ふざけるな」
篠原の拳が、机を叩いた。
だが伊吹は、静かに首を横に振る。
「事故処理じゃない。澪は、天野の実験によって能力覚醒を無理やり誘導された。その結果、精神が……壊された」
静寂。
篠原は息を呑み、もう一度、映像を見る。
そして気づく。
天野が倒れる直前、ユウカの口が動いていた。
——「明日香の名で、お前を裁く」
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その夜。
廃棄予定の旧研究施設。
ユウカはすでに侵入していた。自動警備を破り、かつて、自分たちが閉じ込められていた部屋へと向かう。
そこには残っていた。消されずに残された、最初期の研究資料。
ノート、音声記録、そして……写真。
「……明日香」
ユウカが手にした一枚の写真に、あの少女が写っていた。
檻の中、かすかに笑っていた。だがその目は、どこか虚ろだった。
そのとき、足音が響いた。
——篠原だった。
「見つけたぞ、ユウカ」
彼女は無言で振り返る。その瞳に、微かに動揺が走った。
「どうしてここに……」
「妹の記録を見た。お前が、あの研究者を殺した理由もな」
沈黙が落ちる。
「謝るつもりはない」
ユウカは淡々と告げる。
「でも、あんたに許しを求めるつもりもない。私は、自分の手でケリをつける。それだけ」
「……そうか」
篠原はポケットから、小さなロケットペンダントを取り出す。
中に収められていたのは、明日香の笑顔。
「俺は……こいつに、何もしてやれなかった」
その声に、ユウカが微かに眉を動かした。
「だから、今度は——お前を撃つかどうか、俺が決める」
互いに銃を向け合う。
ユウカの指が、わずかに動く。
篠原の手も、トリガーへとかかる。
だが——その瞬間、背後から閃光が走った。
施設の一角が爆発する。火花と煙。
「敵!? 誰が……!」
警報が鳴り響く。
ユウカは目を細める。
「……次が来たみたいね」
——謎の武装部隊が施設を強襲。
その手には、S.E.I.D.本部にもない最新鋭の火器と、能力者を無力化する干渉装置。
標的は、ユウカか。それとも——篠原も含めた、抹殺対象か。
激戦が始まる。