「記録にない兵士(前編)」
夜の湾岸地帯に、潮風が重く流れていた。
コンテナヤードの一角。管理棟から漏れる光が、まるで罠のように揺れている。
「動きがあった。ユウカと見られる女が、今夜このエリアに出現したとの報告だ」
S.E.I.D.内部連絡網の情報により、篠原は単独で現地へ向かっていた。
上層部には報告していない。今、機を逸すれば、彼女はまた霞のように姿を消す。
(ここで捕らえる。どんな手を使ってでも……)
管理棟に足を踏み入れた瞬間——
「——遅かったわね」
静かな、だが背後を突く声。
反射的に振り向く。そこには、黒のスーツに身を包んだ女、ユウカがいた。
銃を抜く間もなく、篠原は視界がブレた。
蹴り。壁へ叩きつけられた。
ユウカの動きは、まるで篠原の次の動作を完全に見越していたかのようだった。
「公安の犬ってのは、こんなに鈍いの?」
「……お前……どこで、そんな戦闘技術を」
吐き捨てるように言いながら、篠原は隙を見て反撃に出る。
——だが、それすらも予測されていた。
彼女の動きは、一瞬早い。
まるで、自分が次に何をするか、知っているかのように。
「数秒先の未来が見える……本当だったのか」
篠原は床に倒れ込みながら呟く。
しかし、ユウカは彼に銃を向けず、代わりにポケットから古びたペンダントを取り出した。
「これを、見てもまだ追うつもり?」
ペンダントの中には、一枚の写真。
そこには、実験施設の中で笑う一人の少女と、その傍らで手をつなぐユウカが写っていた。
「……この子……まさか」
「あなたの妹。篠原明日香。私の唯一の友達だった」
沈黙。時間が凍りついたような数秒。
篠原の瞳が見開かれる。
「嘘だ……明日香は……何も知らずに巻き込まれたって、報告では……」
「報告? 誰が作った? 誰が真実を握ってると思ってるの?」
ユウカの声には、怒りでも憎しみでもなく、虚無が滲んでいた。
「私たちは、あそこで道具として育てられた。感情も、未来も、名前すらも——選べなかった」
「……《Elysium》……」
「そう。プロジェクト名。研究所の名前。私たちの檻の名前でもある」
篠原は、立ち上がる。銃は抜かない。ただ、静かに言った。
「なら……なぜ今も戦ってる? なぜ殺す?」
「同胞が、次々に廃棄されていくからよ」
ユウカの表情が、初めて苦しげに歪んだ。
「あなたの妹もね。あの子は、失敗作の烙印を押され、薬で脳を焼かれた。その翌日に——笑いながら処分されたのよ」
言葉の暴力。それは、篠原の心を何度も撃ち抜いた。
「信じられないかもしれない。でも、あなたはまだ知らないだけ。あなたは選ばれた側だから」
「選ばれた側……?」
「私たちは、選ばれなかった側。捨てられるために生まれて、消されるために育てられた。あなたの政府がそう決めた」
ユウカは背を向けた。
「私は、敵として生きることを選んだ。正義なんて知らない。善悪も、私には意味がない。でも一つだけ、譲れないものがある」
彼女はペンダントをしまいながら、言った。
「誰にも、もう私の妹を殺させない」
その言葉の重さに、篠原は言葉を失った。
やがて、彼女の姿は暗闇に消えていく。
残された篠原は、ただ一人、荒い息を吐きながら立ち尽くしていた。
(明日香……お前は、何を見て、何を残した?)
そしてその問いの先には、まだ開かれぬ《Elysium》の真実が待っている。