「真実の値段(後編)」
全身を貫く風圧が、骨まで揺さぶる。
垂直の冷却管を落下しながら、篠原直哉は脳内で逃走ルートを計算していた。
——ここで死ねば、ユウカの想いも、妹の死も、すべてが無駄になる。
「ここで終われるかよ……!」
落下の最中、腰に装着していたワイヤーガンを発射。壁面のフックに引っかかると同時に、衝撃を殺しながらスイングするように別の通路へ滑り込む。
その瞬間、背後から閃光。
——追ってきた。シグマだ。
「逃げ切らせるか、篠原直哉ァァァッ!!」
爆裂するような叫びとともに、能力による重力歪曲が発生する。床が捻じ曲がり、壁が波打ち、空間そのものが異常をきたす。
だが、間一髪。
篠原は伊吹の遠隔誘導で非常ハッチに滑り込み、ハンディナノ爆弾を起爆。シャフトの連結部が崩れ、空間が完全に遮断される。
「……ふぅ……」
冷却層下部、隠された排気通路。かつて緊急保守用に設けられたというが、今では知る者も少ない。
『直哉! 今の爆圧でシグマの追跡は止まったはず。あと二ブロックで外に出られる!』
「了解……すぐ行く」
篠原は肩を押さえる。さっきの重力歪曲で骨が一部きしんだ。だが、まだ動ける。
彼は、外へと向かった。
真実を、この手で世界に届けるために。
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深夜、都内某所。伊吹の隠れ家。
「これが……ELYSIUMの全記録……!」
端末に表示されたのは、膨大な実験データ、被験体の死亡記録、資金の流れ、そして政治家や企業との癒着の証拠——。
すべてが整っていた。
「これだけあれば、十分すぎる……!」
伊吹は思わず立ち上がる。
しかし——ユウカの姿が、そこにはなかった。
「……ユウカは?」
篠原が問う。
伊吹は、わずかに唇を噛んでから答えた。
「……彼女は、今、搬送中の病院で昏睡状態。左肺損傷、出血多量、脳波に不安定な反応も出てる」
「そうか……」
篠原は沈黙した。
自分の判断が、彼女を追い詰めた。その責任は——自分が引き受ける。
そして、静かに問う。
「なあ、伊吹。この真実を……世界に出せばどうなる?」
伊吹は、目を伏せた。
「恐らく、内閣は崩壊。関係企業の株価は暴落、軍備計画は停止。政変、暗殺、報復、最悪は隣国からの武力介入。戦争の可能性だって、ゼロじゃない……」
「じゃあ、黙っていれば?」
「犠牲は続く。ユウカのような被験体は、また作られる。道具としてね」
静寂が訪れた。
そして——
「……なら、俺は……出さない」
篠原の言葉に、伊吹が顔を上げる。
「え?」
「これを公表すれば、戦争が起きるかもしれない。だが、これは……まだ爆弾にしておく。いつか本当に必要な時に、誰かが引き金を引くまで、保管する」
篠原は静かに、データを封印し、金属製の専用保管筒に収納した。
「これは……妹の墓標だ。ユウカの証明だ。俺の正義だ」
夜明けが近づいていた。
それから数日後——
ユウカは、回復途中のまま姿を消した。
最後に残されたのは、一通の手紙。
『ありがとう、篠原直哉。私が生きていたこと、誰かに知ってもらえただけで、十分だよ。私は、また別の戦場で生きる。でも、きっとまた会えるよ。あなたなら、道を選べる人だから』
小さな箱の中に、彼女の名札が入っていた。
——Yuka(被験体番号 #021)
篠原は、それをそっと閉じた。