「狙われた希望(前編)」
夜明け前の空は、どこか不気味に澄んでいた。
東京都心にある外郭研究区画。その地下に隠された伊吹の予備研究所は、臨界点を迎えていた。
「予備サーバーの転送完了。三重暗号化も済ませた。……篠原、あとはお前の金庫に送るだけだ」
伊吹は額の汗を拭いながら、端末に最後のコマンドを打ち込む。地下サーバーには、ユウカに関する実験記録と、コード:ELYSIUMの中枢データが格納されている。
「これで……もう誰にも消せない」
篠原は無言でうなずいた。
真実を保管する。それが、今できる最大限の抵抗だった。
しかし、平穏はすぐに破られる。
——施設全域に警報が鳴り響く。
「侵入者!? 早すぎるだろ、まだ位置は漏れてないはず……!」
「伊吹、隠れろ。敵は本気で潰しに来る。……例の増幅型、来るぞ」
《能力増幅型兵士》
S.E.I.D.が極秘に開発した、能力者の限界を超える戦闘専用個体。
身体強化、予知、防御フィールド、神経反射の高速化——複数の能力を融合させ、安定的に運用できるよう設計された怪物。
ユウカですら「勝てない」と評した、最強の戦闘兵。
爆音とともに、天井が吹き飛ぶ。
コンクリートの粉塵の中、ゆっくりと黒い人影が降り立つ。
無言の仮面、感情を持たぬ瞳。
その背中から放たれる圧は、生物としての本能を否応なく刺激する。
「……来たか」
篠原は銃を構え、わずかな間合いを計る。
だがその瞬間、増幅型の兵士が床を踏み割り、一瞬で間合いを詰めてきた。
——速い!
反応するよりも先に、鉄拳が篠原の腹をえぐる。
壁に叩きつけられ、息が止まりかけたその時——
銃声。
空中から飛び込む影。
金属音と爆裂音が交錯し、増幅型の兵士がわずかに体勢を崩す。
「遅れて悪かったわね。あんたたち、まだ生きてた?」
——ユウカだった。
血に濡れた戦闘服、裂けた袖から覗く傷。
それでも、その眼光には曇りひとつなかった。
「どうやってここまで——!」
「爆破騒ぎで偽装したのよ。ま、政府の通信にはちょっとした細工をしたけどね」
彼女は再び銃を構え、増幅型兵士との間合いを詰めていく。
その動きは、かつて見たものよりも研ぎ澄まされていた。
——未来が、視えている。
爆風、ナイフ、回避、足払い。まるで舞うような戦闘。
だが、増幅型はそれすらも上回る反応速度で応戦してくる。
「……このままじゃ持たない!」
篠原は体を引きずりながら叫ぶ。
「ユウカ、退け! あれはお前の命まで狙って——」
「だからこそ、ここで止める。私たちの希望は、これ以上消されないために!」
——彼女の銃口が、真正面から敵を射抜く。
だが同時に、反撃の一撃がユウカの脇腹を裂く。
「ぐっ……!」
彼女が倒れ込む直前、伊吹が端末を起動し、緊急遮断シールドを展開した。
増幅型兵士が無表情に壁を殴るが、強化合金のシールドは容易には破れない。
数分の猶予。だが、それは命を分ける時間。
「……ユウカ、意識は?」
篠原が駆け寄る。ユウカは浅くうなずいた。
「平気……じゃないけど、やることはやったわ」
彼女はUSBドライブを篠原に差し出す。
「バックアップ。……もう一つの希望」
彼女の手は冷たかった。
それでも——
その瞳には、生きる意志が宿っていた。