「裏切りの正義(前編)」
終末の雨が降っていた。
灰色に沈んだ空の下、ビル街の一角。都心の一等地にある高層オフィスの一室——かつては、信頼という名で守られていた場所——に、篠原直哉は立っていた。
「……本当なんですか。部長」
対面する男——公安部・特異犯罪対策室の室長にして、篠原の直属の上司だった男、冬月誠司は、何の表情も浮かべないままソファに座っていた。
机の上には、血痕のついた極秘資料。伊吹がS.E.I.D.の裏ルートから引っ張ってきたものだ。そこには、過去に葬られた強化実験のデータと、彼の妹・明日香の名前が記されていた。
「妹が……危険因子として処分対象だった。おれには一言も言わなかったのに……あなたは知ってたんですね」
沈黙。
それが肯定だと気づいた瞬間、篠原の拳が震えた。
「私は君を守りたかった」
冬月は低い声で言った。
「妹さんの件も、全部。だからこそ、S.E.I.D.に出向させた。真相を知れば君は——」
「黙ってることが守るってことになるんですか!?」
篠原の怒鳴り声が、会議室のガラスを震わせた。
「俺は、あの時からずっと……ずっと、妹を殺した何かを探してきたんだぞ……! なのに、あなたは……!」
冬月はゆっくりと立ち上がり、机に手を置いた。
「君には、理想がある。正義もある。だが、私は現実の中で決断してきた。能力者は——人類にとって異物なんだ」
その言葉に、篠原は凍りつく。
「……何、言ってるんです」
「君の妹も危険だった。暴走しかけていた。もし、あのまま放置すれば……東京は吹き飛んでいたかもしれない。だから我々は、事前に排除した。それが正義だ」
目の前の人物が、これまで支えてきた信頼の象徴だった男が、まるで他人のように見えた。
その瞬間——
背後のドアが破られる。
「直哉! そこから離れて!」
ユウカの声と共に、閃光弾が飛び込んできた。
視界が白に染まり、続けざまに銃声——床が砕け、ソファが跳ねる。
ユウカは、冬月に銃を向けていた。
「彼は、もうあなたの味方じゃない。上の命令で、今この瞬間、あなたを拘束するよう指示されてる」
篠原は呆然としたまま、冬月の足元に落ちた銃を見る。
それは、自分に向けられるはずだったもの。
「どうして……」
「彼にとって、君は理想に染まった危険因子になった。それだけだ」
ユウカの声には冷たさがあった。
「選んで。今ここで、彼に撃たれるか、私と来るか」
篠原は、迷わなかった。
過去の信頼も、友情も、今はもう幻想だった。
「……すまない、部長」
そう言って、ユウカの手を取った。
二人は、破られた窓からロープを伝って脱出した。
深夜のビル街。
雨は止まず、世界は沈黙していた。
ビルの屋上で、篠原は一人、無言で空を見上げていた。
「……自分の正義が、壊れていく音がする」
「じゃあ、新しいのを作ればいい」
ユウカが隣に立つ。
「守りたいって気持ちだけは、本物だったでしょ? それがあれば十分」
篠原は頷いた。
——誰が正義で、誰が悪なのか。
答えなんて、誰にもわからない。
でも、信じられるものは、まだ——残っている。