「ディープサイト(前編)」
S.E.I.D.第六技術研究棟——通称ブラックセル。
その地下深く、かつての実験データと抹消された存在たちが封印されていた。篠原直哉はその中央制御室にいた。伊吹の手引きで侵入し、コード《ELYSIUM》に関する残存ログを抽出していた。
「これが……強化適応体の実験ログか」
彼の目の前には、常軌を逸した映像が流れていた。
白い実験服の少女が、空間をずらしながら敵弾を避けている。
一見すれば未来視のようにも見えるが、そうではない。彼女は意識そのものを数秒先に飛ばし、視界を後追い再生しているのだ。
いわば、過去に戻って未来を選び直すような戦い方。
だが、その代償は——
「……脳が……持たない……!」
映像の最後には、彼女が叫び声を上げ、頭を抱えて崩れ落ちる姿があった。
彼女の名は、《ナナミ・クローン06》。
ユウカと同様、“Sクラス適応体”として作られた存在だった。
だが、彼女は失敗した。
能力の使用が限界を超えると、意識の帰還が間に合わず、今が認識できなくなる。結果、精神が時間軸の狭間に置き去りにされる。
「これが……《ディープサイト》」
伊吹が震える声で言った。
「ユウカは時間の屈折を感覚的に使える。でもこの子は、それを論理的に制御しようとした。結果、精神がズタズタにされたんだ……」
篠原は息を呑んだ。
「ユウカにも……これと同じことが?」
「違う。……だからこそ彼女は、唯一の成功例なんだ」
そのとき——
警報が鳴った。
【第6技術棟・封鎖区域にて能力反応を検知】
【コード名:ナナミ06 活動兆候確認】
「……まさか!?」
伊吹が蒼白になる。
「あの子、まだ……意識が残ってたの……!?」
モニターが切り替わり、監視カメラに映ったのは、白髪で虚ろな目をした少女だった。
瞳は焦点を結ばず、言葉もない。
だが、彼女の身体は正確に歩を進め、直哉たちの元へと向かっていた。
「能力が暴走してる。生存本能だけが、彼女を動かしてるんだ……!」
その時、別の端末から緊急通信が入る。
——《ユウカより通信。現在、研究棟付近に到着した》
「……っ、ユウカ!?」
音声が繋がる。
『直哉、そこから離れて。あの子、私と同じ歪みを抱えてる。普通の人間じゃ触れられない』
「ユウカ、お前……知ってたのか?」
『……私の妹だから』
息が止まりそうになった。
ユウカの声は、初めて揺れていた。
『……あの子は、私の細胞から造られた。でも私じゃない。だから、彼女には、私として死ぬことを強いられた……』
通信が途切れた瞬間——
天井が爆発し、ユウカが降りてきた。
白いコート、黒いグローブ。そして、かつて見せなかった悲しみの表情。
「ナナミ——」
その名を呼ぶと、少女の足が一瞬止まった。
ユウカがゆっくりと歩を進める。
「ごめん。あなたを救うことができなかった……でも、今度は——」
静かに、銃を構えた。
篠原は一歩、前に出た。
「待て、ユウカ……本当に、撃つしかないのか?」
「……直哉。彼女はもう今にいない。存在してるのは、歪んだ時間の記憶だけ。それでも……それでも、私は……!」
彼女の瞳が、震えていた。
それは戦士の目ではなかった。
姉の目だった。
少女ナナミは、わずかに微笑んだ。
その表情に、篠原は確かに人の意志を感じた。
次の瞬間、ナナミの能力が暴走を始める。
時間軸が崩れ、重力が乱れ、光が曲がる。
視界が巻き戻され、脳が飛ばされる感覚。
「っ……やめろ!」
ユウカが叫ぶ。
「——ナナミ、もう十分よ!」
篠原は、叫びながら走った。
意識が朦朧とする中、ナナミの元にたどり着き——
その肩に、そっと手を置いた。
「君は、もう……戦わなくていい」
ナナミの能力が、一瞬だけ止まった。
光が戻り、空間が静止した。
そして——
ナナミは、笑顔のまま、崩れ落ちた。
ユウカが、静かに膝をつき、彼女を抱きしめる。
「……ごめんね。ナナミ」
「ありがとう、直哉」