「封印された任務(後編)」
夜が明けた。
冷たい朝日が差し込む中、篠原直哉は無言でファイルを確認していた。伊吹から託された《ELYSIUM》の記録——それは、ただの研究データではなかった。
「Sクラス能力者の創出と、兵器化のプロトコル」
その標題の下には、驚くべき文字が並んでいた。
第1適応者:ユウカ=K/生存
第2適応者:S・A/死亡
「……やっぱり、妹は……」
篠原は目を閉じた。そこにあるのは、現実を超えた科学的な狂気だった。倫理も命も無視し「能力」という名の力だけを求めた記録。妹がその実験体だったことを示す、残酷なログ。
だが、そこに記された第三適応者の項目で、篠原の視線が止まった。
第3適応候補:T・I/技術支援者→不適応→再構成中断
「……伊吹、お前も……?」
篠原は拳を握った。あいつもまた、巻き込まれていた。逃げ出すまでに、どれだけの地獄を見たのか。表情を変えずに話していたあの夜の背後に、どれほどの後悔があったのか。
そして。
そのとき、端末に不審なアクセスログが表示された。
アクセス元:S.E.I.D.局内第七階層——不明端末
篠原はすぐに反応する。
「追跡されてる……?」
場所は、第七階層・特殊保管室。そこには、S.E.I.D.が確保した「生存能力者」のうち、政府が危険視した者だけが、保管されていると言われていた。
だが、記録上は存在しないことになっている。
篠原は即座に移動を開始した。
伊吹の研究室を出て、最低限の装備だけを手に局内を駆ける。かつて公安で鍛えた体は、わずかな物音や気配にも敏感に反応する。
地下エレベーターのアクセスキーを手動で解除し、静かに降下。
第七階層に足を踏み入れたその瞬間——
“バチッ”
強烈な静電気のようなノイズが走る。
「っ……これは……」
周囲の照明が明滅し、空間が歪んで見える。電子機器に対する干渉、いや——
「能力干渉か……?」
警戒を強めながら進むと、通路の奥に、1人の少女が佇んでいた。
白い拘束服。長い黒髪。虚ろな目。
「君は……まさか……」
彼女は、確かに存在しないはずの能力者だった。
伊吹のログにも記されていなかった『第4の適応者』
少女がかすれた声でつぶやいた。
「コード……イノセント……」
その瞬間、篠原の意識は一瞬だけ、数秒先の未来へとズレた。
目の前の空間が歪み、脳が激しい眩暈を起こす。
彼女の能力は——意識の時間軸を周囲に感染させるタイプのものだった。
「……っ、まずい……!」
まともに接触すれば、脳神経系が破壊される。かつて《ELYSIUM》が失敗した理由のひとつが、まさにこの精神的耐性だった。
篠原は咄嗟にスタングレネードを床に投げ、視界を一瞬白く染める。
その隙に彼女との距離を取り、拘束装置の端末を操作。
「橘……あんた、これを、あえて残してたのか……?」
警報を鳴らすことで、彼女の活動は一時的に制御された。監視AIが起動し、拘束フィールドが再生成される。
しかし、問題はそれだけではない。
——この少女の存在が、《コード:ELYSIUM》が、まだ続いている証拠だった。
「S.E.I.D.の中に、まだ運用中のプロジェクトがある……誰が動かしてる?」
篠原の脳裏に浮かんだのは、たったひとつの名。
局長:榊圭吾
彼こそが、S.E.I.D.の表の顔を維持しながら、裏では計画を再始動させている——?
——今、すべてのピースが揃った。
明日香の死、ユウカの過去、伊吹の沈黙、この少女の存在。
そして、《コード:ELYSIUM》の第二段階のログ。
「……俺の戦いは、まだ始まってすらいなかったってことか」
篠原は深く息を吐き、再びデータを手に立ち上がった。
どこまで堕ちているのか。どこまで腐っているのか。
この国の正義という名の影の奥に。
そして思った。
——ユウカに、この真実を話すべきなのか。
彼女は、過去を断ち切るために戦っていた。
だが、それを覆すほどの闇が、今もなお進行中なのだ。
「……ユウカ」
その名を呟きながら、篠原は昇降機へと向かった。
地上には、待つ者がいる。
そして、真実を暴く覚悟を持った者たちが。