「目撃者のいない殺人(前編)」
火薬の匂いがしないのに、そこは爆心地だった。
東京、赤坂のオフィスビル。その7階で発生した爆発事故——いや、殺人事件——の現場に、俺はいた。
篠原直哉。元公安、今は一時的に特異存在管理局《S.E.I.D.》に出向中の捜査官だ。
「……爆風だけでこの惨状か。火の気すらないとは、珍しいにもほどがある」
吹き飛ばされた壁、粉々になった会議机。だが、焼け焦げた形跡は皆無だった。現場に残るのは、ただ空気が歪んだような異様な残響と、中央に横たわる遺体——身体の内側から圧力で潰されたような損傷。
現場検証班の一人が、俺の隣で無言のまま立ち尽くしていた。そいつも言葉を失っている。そりゃそうだろう。こんな死に方、通常兵器では説明がつかない。
……説明できるとしたら、ただ一つ。
「能力者か……」
俺のつぶやきに、周囲の空気が少しだけ凍る。一般の刑事なら聞き流す言葉だが、ここにいるのは全員《S.E.I.D.》関係者だ。
「篠原さん、こちらに……」
部下の一人が手招きする。監視カメラの死角だった通路に設置された天井の隠しカメラ映像。そこには、かすかに——本当にかすかに——黒い影が横切っていた。
「……誰だ、これは?」
「映像のノイズが激しくて、判別は難しいですが、特徴的な装備です。サーマルマントと戦術ゴーグル、あと……左手にだけ装着された義手のようなものが見えます」
瞬間、頭の奥で記憶がざわついた。似たような装備の女がいた。かつて、公安時代の極秘ファイルで目にしたことがある。
「ユウカ……?」
名前を呟いた瞬間、全員がこちらを向く。
「その人物をご存知なんですか?」
問いかけに、俺は曖昧に首を振った。
「記憶に引っかかっただけだ。だが、この犯行手口……普通の人間には無理だ。Sクラス——それも、戦闘特化型だな」
Sクラス。それは《S.E.I.D.》が管理する能力者の中でも、最も危険とされる存在。一般市民はもちろん、警察や自衛隊すら知らされていない極秘のランクだ。
そして——その中でも、ユウカは記録に残らない兵士と呼ばれていた。
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その日の夜、帰宅途中の電車の中で、俺は自分の判断に迷っていた。
ユウカ。もしあれが本当に彼女なら——なぜ、今になって再び姿を現した?
(あの女は……確か、五年前に処分されたはずだ)
公式には《殉職》。だが、記録は曖昧だった。彼女の存在そのものが、最初から、なかったことにされていた。公安時代、ほんのわずかにかすっただけの存在。
あの時と同じ、爆発音のない殺人。
圧力だけで骨を砕き、肉体を内側から押し潰す能力。物理的には不可能、だが特異存在ならばありえる。
再び、ぞくりと背中を冷たい汗が這った。
ユウカが生きていて、何かを狙っているとしたら——この事件は、まだ始まりに過ぎない。
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翌日、捜査本部に新たな情報が届いた。
「三件目の被害者が出ました。現場は都内の高層マンション。パターンは前回と同じ。密室での死亡、死因は爆風による内部損傷」
「またか……」
まるで誰にも見られることなく、音もなく、爆発だけが起こる——そんな殺人。
「監視カメラには?」
「例のごとく、直前に一時的な電磁干渉があり、5秒間の記録が消えています」
電磁干渉。それは、ユウカがかつて使っていた戦術装備に搭載された《ジャマー機能》と一致する。周囲の電子機器を一時的にダウンさせる特殊ノイズだ。
──状況証拠は揃ってきた。だが、決定的な証拠はない。
そして、俺の頭にはもうひとつ、厄介な考えが浮かんでいた。
(なぜ彼女は殺している?)
ユウカはかつて、作戦遂行のために人を殺したことはあっても、無差別に民間人を襲うような人物ではなかった。
今の行動は任務なのか。それとも復讐なのか。
──その答えを確かめるには、彼女自身に会うしかない。
「本部に申請します。《現場介入》を。俺が彼女を追います」
その言葉を口にした瞬間、すでに後戻りはできなかった。
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夜。東京郊外。
廃工場に、微かに揺れる人影。篠原は、完全武装の状態で息を潜めていた。
——いた。
闇の奥に、ひときわ冷たい気配。
長い黒髪。冷えた金属の光沢を持つ義手。夜風に翻るマント。その瞳だけが、夜より深い色をしていた。
「……久しぶりね、篠原直哉」
数年ぶりに聞く声。まるで機械のような冷たさと、どこか微かな哀しみを含んだ響き。
篠原は構えた銃を、すぐには下ろせなかった。
「……なぜ、殺している。ユウカ」
「あなたはまだ、すべてを知らない」
その言葉とともに、空気が一瞬で張り詰めた。まるで——爆発の直前のような、静寂。
「今の私は兵士じゃない。……記録に残らない存在よ」
次の瞬間、閃光と衝撃が世界を塗り替えた——