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★4 円城寺

 乳房にメスを入れる。柔らかな上質のフォアグラにナイフを刺すように。

 まずは大胸筋に沿って楕円を描くように外郭のラインを決め、表皮から内側に向けて徐々に切開していく。

 然るのち、開いた肉の間に剪刀を滑り込ませ、細心の注意を払いながら胸筋膜を剥離し、乳腺は余さず切除する。

 鮮度を保つためにも、作業は迅速に進めなければならない。

 何しろ乳房は二つあるのだ。


 頭の中でオペのシミュレーションをしているうちに、唇の端が吊り上がっていることに気付いた。迂闊だったと内省し、すぐに表情を作り直す。

 女は恍惚として花火に見入っていた。

 次第に花火の打ち上がるペースは速まり、ちっぽけな夏の風物詩も山場を迎えようとしている。女は歓声を上げながら、時折たわいないことで僕に話しかけ、一人で浮かれ騒いでいた。

 僕は差し障りなく女の相手をしながらも、近寄ってくる羽虫を追い払うことに余念がなかった。露出された谷間部分に、虫刺されの跡が残るかもしれないと憂慮してのことだ。切除するまでは、何としても美しいままの状態を保持しておきたかった。

 やがて最後の花火が夜空に消えて、辺りに静寂が訪れた。

「終わっちゃった……」

「うん」

「綺麗だったなあ……。なんかすごい得した気分。まさか今日花火が見れるとも思ってなかったし。来年もここで見れたら嬉しいなっ」

「そうだね」

 残念ながら、お前には来年どころか明日さえやってこない。

「部屋に戻ろう。いつまでもここにいると虫に刺されるよ」

 足早にリビングへ戻ろうとすると、背後から女が僕を呼びとめた。

「あれってなんの明かり? なんか青く光ってる」

 女が指差しているのは、テラスに隣接する側壁のドアだった。全面すりガラスになったドアは、中にあるブラックライトの灯りを受け、ぼんやりと青白く光っている。

「ブラックライトだよ。中に水槽なんかが置いてあるから」

「水槽? 熱帯魚とか?」

「……うん、まあね」

「ほんと? 熱帯魚みたーい」

 女がドアのほうに向かったので、咄嗟に腕を掴んで引きとめた。

「それより、チーズケーキでも食べない?」

「ち、チーズケーキ? 食べる食べる、チーズケーキ大好き」

 女はいきなり腕を掴まれたことに一瞬驚きの表情を見せたが、嬉々として身を翻した。

「あとで熱帯魚みせてもらっていい?」

「うん、いいよ」

 そんなもの、いやしないが。

「あ、さっきのドーベルマンはあの部屋にいないよね?」

「うん。もしかして、犬は苦手?」

「うーん、得意ではないかな……あはは」

「安心して。ハービーは地下の部屋に入れてある」

 今頃はさぞかし、女の肉を待ちわびていることだろう。乳房を取り除いた女の残り滓を。

 リビングに戻るなり、僕はキッチンへ向かった。冷蔵庫からチーズケーキを取り出し、ケーキを切るためのナイフを探していると、女がキッチンに入ってきた。

「なんか手伝う? あ、ケーキわたしが切ろっか?」

「大丈夫だよ、手伝うほどのことでもないから」

「うん、なんか一人でくつろいでるのも悪いなーと思って。うわ、冷蔵庫めちゃくちゃ大きい。うちにもこれくらいのが欲しいなー」

 女は冷蔵庫を開けようとした。

 僕は掌を叩きつけて、そのドアを閉めた。

「わ……」

 不意をつかれて思わず乱暴に振る舞ってしまったが、僕はすかさず笑みを作り、その場を取り繕った。

「いいから、いいから。ユリカちゃんは、あっちでくつろいでて」

「う、うん。わかった」

 女は釈然としない顔でキッチンを出ていった。

 冷蔵庫にあるものを見て、嘔吐でもされたら面倒きわまりない。

 それにしても、と僕は思う。無作為とはいえ油断ならない女だ。くだらない余興はさっさと済ませて、早いところオペに取り掛かろう。

 僕は切り分けたチーズケーキを皿の上に乗せ、リビングのテーブルに運んだ。

 女は何事もなかったような顔で、ワイングラスになみなみとマルゴーを注いでいる。

「お待たせ」

 僕は女の向かいに腰を下ろした。

「わー、美味しそう」

「食べて。けっこういけるよ。最近メディアに取り上げられて評判になってる店のものだから」

「いただきまーす」

 女は喜色満面の笑みを浮かべてフォークを手に取った。

 僕は女に付き合い、とくに食べたくもなかったケーキを口に運び、ワインで胃に流し込んだ。

 取るに足りない退屈な会話を交わしながら、不毛な時間が緩慢に流れていく。

 スヴェトラーノフのマンフレッド交響曲が、リビングの中を反響していた。

 抑制のきいた叙情的な旋律が、密やかな緊張感を紡ぎだしている。嵐の前の静けさを思わせる厳粛な演奏だ。静謐とした湖面に小さな波紋が広がり、やがてそれは荒れ狂う巨大なうねりへと変容する。

 そんな情景を思い浮かべながら、女の胸元に目をやった。

 女はフォークを口に運ぶたびに体を前に傾け、ラウンドネックの襟元がたるんでその奥が見えた。

 ああ、早く。

 早くアレを切り取ってしまいたい。


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