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<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

国を追い出された執事とお嬢さまの二人は、他のところへ行くことにしました。

作者: 陸奥こはる

「お、お嬢様……」

「どうかしたのかしら?」


 執事のヴァルジャンは、ズレそうになった自らの眼鏡をかけ直した。

 着替えが終わったお嬢様――アルマの服装が変だったからだ。

 ピンクと紫のシマシマ模様のタイツを穿き、変なキャラの絵が描いてある上着を羽織っていた。


 アルマはそれなりに容姿が整っているが、だとしても、小さな女の子が好むような着合わせはさすがに無理がある。

 16歳にもなろう公爵令嬢だとは到底思えない格好だ。


「このヴァルジャン……とても悲しみでございます」

「な、なんでよ」

「お嬢様、その服はご自分で用意されたのでしょう?」

「……どうして分かったのかしら?」

「そんなファッションセンス皆無の服を、侍女が用意するとは思え――」


 ――パァン!

 手のひらの痕がつくほどの威力で、アルマがヴァルジャンの頬をぶった。


「どうしてそんなヒドいことを言うの⁉」

「い、いえ別に酷い事を言おうとしたワケでは……」

「言ったじゃない! ファッションセンス皆無って!」

「申し訳ございません……」


 ヴァルジャンはゆっくりと頭を下げる。

 確かに、些か気分を悪くしそうな事を言ってしまった。

 自覚はあった。

 だから謝った……のだがアルマはぷぅと頬を膨らませた。


「重ねてお詫び申し上げます」


 追撃で謝ると、なぜかアルマは更に面白くないような表情となった。

 どうしてさらに不機嫌になるのだろうか……?

 ヴァルジャンが困惑すると、それを見たアルマが溜め息を吐いた。


「……ねぇヴァルジャン、前国王と相対した時の惚れ惚れする力強さは一体どこへと消えたのかしら。私はあの時のあなたのような堂々と真っすぐ立つ男が好きよ」

「ええっと……その……突然何を?」

「あなたにもっとシャキっとして欲しいの」

「は、はぁ……」


 発言の意図が読めずにヴァルジャンが空返事をしたところ、アルマの機嫌がもっと悪くなり、頬を膨らませてカエルのような表情になってしまった。


「――出てお行きなさい!」


 突然の退室命令に、ヴァルジャンは引きつった笑みを浮かべる。


「な、なぜ……」

「――出なさいったら出なさい! 私は今から着替えます! この服はダサイのでしょう! ならば着替えます! それとも私の下着姿を見たいのですか!?」

「別に見たいとは思いませんが……」

「……見るにも値しないですって? どうやら本当に殺されたいようね」


 アルマは壁に飾ってある細剣を乱暴に手にすると、勢いに任せて鞘から引き抜いた。

 これ以上怒らせると大変なことになりそうなので、ヴァルジャンは急いで退室しようとして――扉が勝手に開いた。

 客人がやって来たようだ。


 予定には無い突然の来訪であったが、屋敷の中まで入って来たのだから侍女が通したということになる。

 一体誰だろうか?

 ヴァルジャンが怪訝に顔をあげると、そこには憲兵と暫定的に新国王となった元大臣の男がいた。

 事前連絡が無くとも通さざるをえない立場の人だ。


「ひっ(とら)えい」


 新国王は憲兵にそんな命令を下した。

 ヴァルジャンとアルマは状況が呑み込めずに目を丸くしたが、それもお構いなしにあっという間に捕縛される。


「話が見えないのですが――」

「な、なにをするのよ! 放して――」


 二人が抗議の声を上げると、新国王は言った。


「――おぬしら二人の裁判が開かれる事となった。罪状は前国王殺しなり!」


 ヴァルジャンとアルマは揃ってあんぐりと口を開いた。

 前国王殺し――確かに事実だ。

 しかし、それには事情と経緯というものがある。


 この国では数年ほど前から圧政が敷かれ始めていたのだが、それに納得がいかなかったアルマが義憤に駆られ、ヴァルジャンもそんな主を支え二人で秘密裏に動いた。

 そして、前国王が正常な判断が出来なくなっていたことを知り、異形の化け物となっていた姿をも見てしまった。


 もはや殺す他には無いと悟り命を奪った。


 その途中で、ヴァルジャンは敬愛していた実の父アルドーも手にかけた。

 前国王の状態を隠匿した張本人であり、そのうえで立ちはだかったからだ。


 これらは有力者の中でも一部の者だけが知る秘密となった。

 その衝撃的な事実が考慮され、内々に二人を罪に問わず、歴史の裏側に置くという話にも落ち着いた。

 混乱をもたらさない為に民には病死したと伝え、何もかも闇に葬られるハズであり、この決定には目の前の新国王も関わった。


 だというのにどうして……。


 じゃらじゃらと鳴る手錠の音に口を歪ませながら、ヴァルジャンはあの戦いのことを振り返る。





「……尊敬していました。自らの父親であること以上に一人の男として、そして目標とすべき”執事”のあるべき姿として」


 唯一の肉親である父アルドーの腹に空いた風穴が、もう幾ばくかでその命の火が潰えると示していた。

 ヴァルジャンの頬を伝わる涙が地面に落ちて静かに跳ねた。


「……どうして泣いている。そんな顔をされては、私もあの世で自慢話一つすることが出来ない。立派に育った自分の子に、最後は見事に倒れされたのだと胸を張れなくなる。……お前はやるべきことをやっただけだ。顔を上げろ。男の子だろう。父親の死など笑って超えていけ」


 アルドーも執事であった。

 国王の執事だった。

 本来ならば、異形の化け物へと変わった主をどうにかするべき立場だ。

 しかし、積み重ねた時間によって出来た情に負けてしまったようで、人知れず化け物となった国王を隠し守る盾として君臨した。


 アルドーは決して自らを正当化しなかった。

 あと数分と持たずして迎えるであろう死も、当然に与えられる責め苦であるかのように受け入れている。

 これが、誤った選択をした自覚と罪の意識があるからこその潔さよさなのだと、ヴァルジャンは察していた。

 父親であるからこそ、尊敬していたからこそ、その背中を追い続けて来たからこそ誰よりもアルドーという男を理解出来た。


 まもなくしてアルドーは息を引き取った。

 安らかで穏やかな死に顔であった。

 互いに世界にたった4人しかいない”特級”魔術士のうちの1人でもあり、それゆえに戦えば引き分けは無く、どちらかが命を落とすのは避けられなかった結末だ。


 ヴァルジャンは涙を拭うと、アルドーに言われた通りに、その死を踏み越え己の使命を全うする事を心の中で誓い眼前にあった階段を駆けた。

 ここで立ち止まる時間は無いのだ。


 この先で。

 この階段を昇った先で――お嬢様が一人で戦っている。

 華奢な体躯に見合わぬ鉄よりも硬いその意思でただ一人戦っている。


 ヴァルジャンは行かなければならない。

 執事として、お嬢様の傍に寄り添う者でなければならない。

 支える者でなければならない。

 主が求める剣とならねばならないのだ。


 駆けあがった階段の先に大きな扉が見えた。

 ヴァルジャンは勢いに任せて思い切り蹴飛ばして扉を開けた。

 広間には少女が一人。

 手にした細剣の切っ先を怨敵に向け、ボロボロで肩で息をする姿になりながらも、確かな意思を宿した瞳で眼前の化け物を射抜くアルマがいた。


「……あら。遅くてよ」

「申し訳ございません」

「主人がこんなにボロボロになってから来るなんて、それでもこのティアハーン公爵家が次女アルマ・ティアハーンの専属執事かしら?」

「返す言葉もございません」

「まぁいいわ。……それで、父親との決別は終わったのかしら?」


 ヴァルジャンは力強く頷いた。


「はい。確かにこの手で。自らの手で。全てを終わらせて来ました」

「……辛かったでしょう」

「決めた事ですから」

「……随分と良い顔をするようになったわ。ところで、私そろそろ疲れて来ているのだけど」

「左様でございましたか。随分と遅れましたことを、改めて陳謝致します。それではお下がり下さいませ。ここから先は、アルマ・ティアハーンが専属執事のこのヴァルジャンにお任せあれ。……一撃で片をつけてご覧に入れましょう」

「言うじゃない。普段から今ぐらい強気だと頼りがいがあって私も安心が出来てよ?」

「……善処致します」


 ヴァルジャンは苦笑しつつ腰のホルスターから自動式拳銃を取り出すと、その銃口を怪物と成り果てた国王へ向けた。


「――魔術式を展開。番號【(いち)】」


 宙に陣が浮かぶ。

 これは単純で、そして、とても簡易な威力増幅型の魔術だ。

 アルドーとの激闘で魔力のほとんどを使い果たしてしまっていたから、もはやこのような単純な魔術式しかヴァルジャンには使えなかった。


「……この一発に、ありったけを」


 ヴァルジャンは搾り出した魔力を絶え間なく注いだ。

 無理やりに魔力を引き出した。

 だが、無理をしたせいで制御に使う分の魔力が僅かに足らなくなった。

 魔術式が悲鳴を上げ陣にヒビが入る。


「ぐっ……」


 ――一あともう少しだと言うのに。

 ヴァルジャンは苦々しく眉根を寄せる。

 そして、魔術式が壊れる寸前、


「……全くだらしのない執事ね。ほら、私のもお使いなさいな」

「お嬢様は魔力が――」

「――いいからお使いなさい。無いよりマシでしょう。これは命令よ」

「……は、はい」


 銃を握るヴァルジャンの指にアルマが自らの指を重ねて来た。

 アルマは魔力量が少ない先天性魔力欠乏症という病を患っており、僅かながらにはあるのだが本当に微々たるものである。

 しかし、そのほんの僅かな魔力は役目をきちんと果たした。

 壊れかけていたヴァルジャンの陣が元の形へと戻った。


 化け物が咆哮を上げる。

 ズシン、ズシン、とこちらに近づいてくる。

 執事とお嬢様は一度だけゆっくりと瞬きをすると、まっすぐに前を向き――


「「――くたばれ! 王よ!」」


 弾丸は放たれ一筋の青紫の光が走った。

 その光はこの時この瞬間において、世界でもっとも力強くそして美しかった。

 後に残ったのは……国王であった存在の灰だけだ。





 過去を振り返り終わったヴァルジャンは頭を抱えていた。

 アルマと揃って同じ牢屋の中に入れられ、裁判の日程という名の続報が来るまで待てと言われたのは良いが……。

 苛立ちを隠そうとしない主と狭い空間に一緒、というのはどうにも居心地が悪い。


「ねぇヴァルジャン」

「なんでしょうか、お嬢様」

「どうして……このような事態になっているのかしらねぇ?」

「さぁ、私にも分かり兼ねております」

「確か国王殺しの件は不問のハズ……よね?」

「そのように私も話を聞いております」

「じゃあどうして⁉」

「ですから、それは分かり兼ねます」

「……あなたの”魔術”で、この牢屋をぶち壊せないかしら?」


 ヴァルジャンはため息を吐いて太腿のホルスターを叩いた。

 そこには銃が入っていなかった。

 連行される時に取り上げられていたからだ。


「”魔術”は発動体ありきです。私の発動体は銃であり、それが無ければ”魔術”は使えません」

「そんな……」


 アルマが肩を落としたが、そんな様子を見せられてもヴァルジャンにはどうする事も出来なかった。


「今はどうしようもありません」


 そう言うほかには無かった。





 看守がやって来たのは、出された夕食を食べ終えたアルマが「このご飯美味しくなかったわ」と愚痴を言っていた時だった。

 面会に来た人物がいると看守は言った。


「誰かしら……」

「あまり良い予感はしませんが……」


 二人が顔を見合わせていると、身なりが良く見事なヒゲを蓄える初老の男性がやって来た。

 アルマの父親であるティアハーン公爵だった。


「お、お父様……?」

「ティアハーン公爵……」


 ティアハーン公爵はぎゅっと目を瞑ると涙を浮かべた。


「……前国王は病死ではなく殺されたそうだな。そして、その犯人がお前たちだと」


 ティアハーン公爵は事情と経緯を知らない側の人間であった。

 今後広く周知されるであろう裁判と、その内容はさすがに知るところになったようだが……。


「なんという事を……」


 ティアハーン公爵はひとしきり泣くとヴァルジャンを睨みつけた。


「ヴァルジャン、私がお前をアルマにつけたのはあの”アルドー”の息子であるからだったのだぞ。お前を手に入れるのにもどれだけの苦労をしたと思って……」


 アルドーが国王の執事であったので、その一人息子のヴァルジャンは非常に貴族からの人気が高かった。

 執事としてこれ以上ない教育を受け、魔術も父親同様に世界に名だたる腕前だ、と。

 しかし、だからこそ。

 事情も経緯も知らないティアハーン公爵が困惑するのも無理は無かった。


「どうしてアルマを止めなかった? 主が道を踏み外しそうな時には諭し道を正しく戻してやるのが執事たるお前の責務。一番可愛かったアルマを、跳ね馬のようなアルマを、必ずや立派な淑女に育ててくれるものだと思っていた。だと言うのに、お前はそれをせず、あまつさえには自分自身の父親でもあるアルドーも殺したそうだな。なぜ……」


 ヴァルジャンはしばし沈黙を続けたが、やがて口を開いた。


「それが”正しい選択”であったと思ったからです。お嬢様は民を思い政治を憂い”正しい選択”をなさいました。ですから、助力致しました。父アルドーをこの手にかけた事についても、それが自らがすべき事であると判断したがゆえです」


 結果的にこのようになってはしまったが、ヴァルジャンは自らの選択を間違っていたとは思っていない。

 だから迷いなく断言することが出来た。

 そして、これを聞いた隣のアルマが眼を細め、潤んだ瞳でヴァルジャンの横顔を見つめて来た。


「……私にはもう分からぬ。だが、これだけは言わねばならぬ。お前たちは我が家名を汚した。アルマ、お前との縁も切らねばならぬ。お前はもう我が一族のものではない。フォンティーヌやマイヤ達にもそう伝えよう」


 公爵家として一同でアルマを追い出す、とティアハーン公爵は言った。

 こうなると自動的に執事もクビになるが……会話の流れ的にある程度の予想が出来ていたこともあり、ヴァルジャンは特に驚かなかった。


 アルマはどうだろうか?

 そこまでは考えていなかったかも知れない。


 ヴァルジャンはちらりと横目に様子を窺った。

 すると、アルマはため息混じりに「分かりました。お父様」とだけ述べるに留まり、仕方が無いとでも言いたげに気丈さを見せた。


 これはヴァルジャンの知らぬ事ではあるが――アルマは執事としても男性としても、ヴァルジャンの事を強く好んでいたりする。

 いつも憎まれ口を叩き平手打ちもたまにして来るが、それは安心と信頼を委ねている証拠でもあった。


 ティアハーン公爵の突きつけた現実を取り乱さずに受け入れたのは、ヴァルジャンの他は何も要らないと言えてしまうほどに想いを寄せているからである。

 家族との縁が切れたとしても、ヴァルジャンが傍に居てくれるのなら、それだけでアルマは良かったのだ。


「……意外と動じないのですね、お嬢様」

「そうかしら? とっても悲しいわ」


 そんな風には見えませんが、とヴァルジャンは肩を竦めた。

 ヴァルジャンの眼に映るアルマはいつも自由奔放で、それでいてまっすぐな芯の強い女の子だ。

 今もまさにそうである。

 そうしたアルマの強さ真っすぐさが、他ならぬ自分の存在があってのものだということは……分からなかった。

 女心に疎い執事には難題過ぎた。





 夜も更け、そろそろ寝る頃合いになって、ふとした拍子に言い争いが起きた。

 原因は牢屋内に一つのみのトイレだった。

 仮に目を瞑っても音が聞こえてしまう状態であり、それが気に入らないとアルマが言い出したのだ。

 内股になってもじもじとしながら、鼻息を荒くして突っかかって来た。


「私がお花を摘む時は絶対に見ないように! 音も聞いたら駄目よ!」


 アルマは鬼の形相でそう言うと、ヴァルジャンの頭部を簡易ベッドのシーツでぐるぐる巻きにして来た。

 これでは息が出来なくなる。


「私を殺す気ですか⁉」

「私だって恥ずかしさで死ぬかも知れないの! いいから黙ってぐるぐる巻きにされていなさいな! ほら!」

「ぬごごっ……」

「少しの間我慢してくれれば、それで良いのよ。お願いよ……お願い」

「ふごふご(何を言っているんですか?) ふごごごごっごご(シーツでぐるぐる巻きで、よく聞こえないのですが)」


「ヴァルジャンが何を言っているのか、私には分かるわ。『良く聞こえない』って言っているのよね。こんなぐるぐる巻きにされたら、それ以外の言葉が出て来ようも無いもの。……聞こえていないでしょうから言うけれど、私はあなたの事が好きなの。好きな男に見られるのはもっての他だし、音も絶対に聞かれたくないのよ」


「ふごんご、ごんごっご(ですから、なんと言っているんですか?)」

「きちんと後で外せるように、ちょうちょ結びにして、と……。お互いさまよ。ヴァルジャンの時は私もシーツぐるぐる巻きにするから……」


 アルマはお互いさまになるようにすると言うが、ヴァルジャンは執事になるにあたり、体の調子を操る訓練を積んでいた。

 どのような時にも業務を遂行出来るようにだ。

 要するに、長期間トイレに行かなくても大丈夫なのである。


 のちにその事実に気づいたアルマが、「不公平よ!」と怒り出し平手打ちを食らわせて来たが……その目尻に溜まった涙を見て、ヴァルジャンはなんとも言えずに口を歪ませた。





「ねぇ、ヴァルジャン」

「どうなさいましたか、お嬢様」

「……私たちが初めて会った時の事を覚えているかしら?」

「突然なぜそのような事を?」

「だって、思い出話以外に楽しそうな話も無さそうですもの」


 牢屋の中で出来る話など少ない。

 現在進行形の話となると裁判についてぐらいだが……それはあまり明るい話題ではなく、気が滅入るだけだ。

 アルマの提案にも一理はある。


「そうですねぇ……」

「覚えているのかいないのか、ハッキリして」

「覚えていますとも。キッカケは皇太子殿下が亡くなられた事でした」


 もともと、ヴァルジャンは皇太子の執事になる予定であり、というか短期間ではあるが実際にやっていた。

 皇太子の執事として召し抱えられ、仕事に励んでいた。

 だが、ヴァルジャンが執事になった時に皇太子は既に重い病を抱えていて、それが原因となってすぐに亡くなってしまったのだ。


 前国王には他にも子息がおり、その中の誰かにヴァルジャンをあてがうことも考慮されたが、他の子たちはまだ幼すぎた。

 乳母は必要でも執事はまだ必要ではなかった。


 そこでひとまず一時待機という話になったのだが……ここで割って入って来たのが、ティアハーン公爵であった。

 他の子息が育つまで手持無沙汰にさせておくには勿体ない人材として、ぜひうちの子の執事にと熱烈な誘いを仕掛けて来たのだ。


『時が経てば、国王の子息たちに他に相応しき優秀な執事も出て来る事でしょうから、ヴァルジャンをぜひ我がティアハーン家に』


 そう捲し立てたのである。

 最終的に前国王とアルドーの両名が了承し、ヴァルジャンはティアハーン公爵の娘の執事となった。

 ヴァルジャン16歳、アルマ8歳という年齢であった。

 8年ほど前の事だ。


「……とんでもない子だと、そう思いましたね」


 ヴァルジャンは苦笑する。

 アルマは聞かん坊であり、どのような言い方をしても右から左に聞き流し、約束をしてもすぐに破る子であった。

 困り果てたヴァルジャンを見てニヤリと笑っていた。


「……そんなに私って酷かったかしら?」

「それはもう。私は本当に本当に大変だったのですからね」


 ティアハーン公爵から「まったく言う事を聞かん娘なのだ」と事前に伝えられてはいたので、ある程度覚悟はしていたが、その予想を軽く飛び越えて行く悪童がアルマだった。


 書斎でアルマの予定を組んでいたヴァルジャンの襟首に、ムカデをいきなり入れて来た。

 庭園を歩いていたら、二階から水瓶を放り投げられた事があった。

 侍女の下着を無理やりポケットに突っ込んで来て、「侍女の下着をヴァルジャンが盗んだ!」と騒がれた時もあった。


 ティアハーン公爵の他の子女は、それはもう淑女然とした大人しく賢い子であったのに、アルマだけはまるで違っていた。

 屋敷の中で他の子女を見る度に、なぜこのような違いが産まれたのだろうかと、そう思った事は一度や二度ではない。


 けれども、ヴァルジャンはアルマを見捨て「自分には無理です」と辞職を願い出る事はしなかった。

 悪童であるその一方で、正義感にも溢れた女の子であったからだ。


 街中でイジメられている男の子を見れば、ヴァルジャンに「どうにかして」と言えば良いのに、それはせず自らが飛び出してイジメッ子を殴りに行った。

 悪い事をした大人を見れば、「あれは駄目な大人よ」と憤慨する事もあった。

 それを見てヴァルジャンは思った。

 この”正しい心”を育み、そして、守る事こそが己の使命である、と。


 アルマが何か間違えてしまった時、なぜそれが間違いなのかを、きちんと理解して貰えるまでヴァルジャンは真剣に語り続けた。

 逆に正しい事をした時は必ず笑顔でそれを褒め、その行動がいかに美しきかを伝えた。


「私はヴァルジャンが来てから毎日が結構楽しかったけれど……ね?」


「確かにお嬢様は楽しそうでした。……例えば貴族の息女交流会の時です。他の息女さまのケーキより自分のが小さいと喚いて、私に別のケーキを買わせに行かせましたよね? そして、戻って来た私の顔面に『買って来るのが遅い』とケーキをぶつけ笑っておられました。……そもそもの話ですが、最初のケーキは実際はほんの僅かにですがお嬢様のが一番大きかったのです。お嬢様も自分のが一番大きいとわかっていたハズです。大きさ測っていたところをちゃんと見ていましたからね私は」


「そうね。そんな事もあったわ。あの時、私は自分のケーキが一番じゃないとウソをついたことを謝りたくなくて、照れ隠しであなたの顔面にケーキぶつけたのよ。投げてしまった後に「あっ……」とは思ったわ。日頃悪戯も多くしていたから、そろそろヴァルジャンも激怒するのかなって。でもそうしたら、ヴァルジャン、あなた『なぜ……』とか真顔で言いながら眼鏡拭き出だして『お嬢様、私が何かなさいましたか』なんて、いつも通りの調子なんですもの。それでなんだか笑ってしまったのよ。あぁ、ヴァルジャンはそういう人なんだって」


「今から謝っても良いのですよ?」

「嫌ね。と言うか、今のエピソードは私があなたに安心を覚えたという心の変化が主軸でしてよ」


 ヴァルジャンは眉を八の字にした。

 成長するに従って、アルマは徐々に悪童の気を制御出来るようになっていった。

 きちんと反省も出来るようにも育っていた。

 しかしながら、なぜかヴァルジャンに対してだけはいつもこうなのだ。


「安心して頂いたのは嬉しいのですが、それは横に置いてどうしてお嬢様は私に謝るのを嫌がるのですか?」

「主導権は私が握るわ」

「一体何の主導権ですか……?」

「自分の頭で考えて」


 ヴァルジャンはアルマの言う主導権とは何かについてを考え始めた。

 答えは出なかった。





 ヴァルジャンとアルマの二人が妙な慌ただしさに気づいたのは、数日後の深夜のことだった。

 走るような足音が響いてきた。

 何かあったのだろうか?

 足音は段々とこちらに近づき、そのうちにヴァルジャン達の牢屋の前に現れたのは、額に玉のような汗を浮かべた新国王であった。


「……これはこれは新国王様ではありませんか。一体何の御用でしょうか? 裁判の前に罪人がどのような心境になっているのか、顔でも拝んで学ぼうという趣でして?」


 アルマが嫌味ったらしく告げるが、新国王の耳には届いていないようで、牢屋の鍵を外すのに集中していた。

 予想外の展開に二人が虚を突かれ目を丸くすると、牢の扉を開けた新国王が膝をついて言った。


「た、頼む。助けてくれ」


 様子がおかしい。

 一体どうしたのですかとヴァルジャンは訊いた。


「前国王の遺灰が突如として動き出し、近くの人間の体に入って行ったのだ。するとなんという事だ。そやつが急に化け物へと変わったではないか。憲兵や宮廷魔術士を動員しておるが、どうすれば良いのか手をこまねいておる。お主らは化け物となった前国王を倒したのだろう? 力を貸してくれ」


 新国王はヴァルジャンの手に銃を握らせた。

 使い慣れた魔術の”発動体”の銃だ。


「……お主たちを裁判にかけようとしたのは謝る。だが仕方のない事であった。前国王の第二子、第三子の背後におる者たちが派閥争いと権力闘争をしておったのだが、あろう事かそやつらの中でも前国王の事情を知る一部の者が結託し皇太子兄弟にウソを吹き込んだ。


『前国王は病気ではありましたが、それが死の原因ではありません。病気で弱った所を狙われ、殺されたのです』とな。


 子息たちはまだ子どもだ。ゆえに、すぐに感情を剥き出しにする。どちらも『犯人をひっ捕らえて処分を下せ』と言い出した。

 幼くとも前国王の子であるからして、その血に伴う権力がある。二人同時となれば尚更だ。暫定的に統治の為に国王となったハリボテのワシでは逆らえぬ」


 新国王は二人を裁判にかけるとした事情を説明した。

 複雑な事情が絡み合って新国王が掌返しをしたことを理解し、ヴァルジャンは「そういう事でしたか」と沈痛な面持ちになった。

 理解も納得も出来た。

 しかし――アルマがどうにも面白くない表情をしている。


「……話は分かりました。ヴァルジャンと私が行くのは構いません。罪のない人々が犠牲になるのは放っては置けませんので。ですが、その起きた問題を解決したとしても、私たちには一切の得がありません。いずれにしろ裁かれるのではないですか?」

「それは……」

「どのような刑になるのかは分かりませんが、私としては死刑の類になる事だけは避けたいのが本音です。……そこで取引はいかがでしょうか」


 アルマが妙な事を言い出した。

 何か覚悟を決めたような鋭い表情でもあり、こういった時のアルマをコントロールする事は不可能に近いことをヴァルジャンは知っていた。


「と、取引とはなんだ?」


「……今回の件を成したのならば、私とヴァルジャンを国外追放処分にてお願い出来ますでしょうか。これはこれで重い罪ですが、死刑よりはずっと上等です。とにもかくにも処罰したという実績さえあれば、結託した派閥の人たちの体裁も保てますでしょう?

 国王殺しを無かった事にするのは、振り上げた拳の降ろし先が見つからなくなるのですから無理でしょうけれど……。

 いずれにしろ、腐ってもあなたは現在の国王なのですか、ハリボテとはいえこれぐらいの根回しは可能では? それっぽい作り話くらい作れるでしょう」


「わ、分かった。約束しよう。国外追放処分になるようにしよう。刑に関しては裁判官とも相談してはおったが、まだ決めかねておったからな」

「そのお言葉お忘れなきように。……ヴァルジャン行きましょう」


 アルマは凛とした鋭い口調で話を纏めると、先に一歩を踏み出した。

 ヴァルジャンは後を追いながら、国外追放処分とはお嬢様も思い切った提案をするものだ、と思った。


 もう少し交渉を粘れば、汚名を払拭しティアハーン家への復家も出来たかも知れないのに……。


 ヴァルジャンは知らない。

 アルマは自分とヴァルジャンの二人が死なない未来ならばなんでも良いと考えており、相手がすぐに呑める妥協した条件で早々に話を決めたのはそれ以外がどうでも良いからだ、ということを。





「……あの時に灰にしたのですがね」

「どうするのヴァルジャン。この手の相手については私よりあなたの方が良く知っているでしょう。魔術も得意なのだから」

「別に私は化け物の専門家というわけでは無いのですが……まぁお任せ下さい。あの時と違い魔力も十分あります。今回は少し特殊なのを使います。範囲が狭いのが難点ですが、キッチリ消滅させられます」


 ヴァルジャンは銃口を化け物に向け、陣を展開した。

 銃口に魔力が溜まっていく。

 綺麗な紫色が濃くなり光を当てた宝石のように輝いた。


「――魔術式を展開。番號【(はち)】」


 放たれた弾丸は化け物に着弾すると同時に球体へと変わり増殖し始め、それはやがて化け物を全て覆い尽くし――きゅぽんと無に消えた。


「……私その魔術初めて見たのだけれど」

「滅多に使いませんから。【捌】番は」

「前国王の時もそれを使えば良かったのではなくて?」

「これかなり魔力を使うんです。あの時はだいぶ消耗していましたから」

「ふぅん……」

「とにかく、これで本当に終わりでしょう。塵一つ無く消え失せました。存在を丸ごと異空間に飛ばしましたので」

「なら良かったわ」


 実にアッサリとした終わりであったが、それもそのハズだ。

 前国王を倒した時ヴァルジャンは満身創痍であったが、その原因のほとんどは父アルドーとの戦いの激しさによるものだ。

 それが無かったのであれば、楽に終わっていたのは想像に難くない。

 ヴァルジャンは”特級”魔術士である。

 事実上の最強と呼ばれるに相応しい実力と称号を備えた執事だ。





 さてそれから。

 日々はまた過ぎて裁判の日が訪れ、ヴァルジャンとアルマは二人揃って出廷し、瞼を閉じて判決を待った。

 ――カンカン。

 木槌が鳴り裁判官が罪状を読み上げた。


「前国王殺しの罪により、有罪は確定である。だがしかし……前国王は病に苦しんでおり、たまたま居合わせた(・・・・・・・・・)二人に、苦しむ自身の安寧を求め、殺害を懇願(・・・・・)したとされる。これは前国王の意を汲む行動であり、決して軽んじられる事ではない。だが、理由はどうあれ殺害は事実。


 加えて、それを阻もうとしたヴァルジャンにとっての実父たるアルドー前国王専属執事とも揉め、結果的に殺傷沙汰となった出来事も起きた。

 情状酌量はあるものの、こうした流れも鑑みれば無罪とはいかぬと言うのが満場の一致である。

 よって――アルマ・ティアハーン及びヴァルジャン・フィースエンド両名を国外追放処分とす」


「異議無し」

「異議無し」

「異議無し」


 新国王の密約は何らの支障もなく確かに果たされた。

 新たなストーリーも作られたようだ。


「裁判が終わったわね。……これでもう私たちはこの国にいる事は出来なくなったわ」

「そうなってしまいましたね。思い出も色々とある国でしたが……」

「思い出は後ろにあって振り返るもの。向かうべき場所ではなくてよ」


 アルマのこの前向きさは、ヴァルジャンにとって誇らしかった。

 鬱屈しない姿勢は、執事として望んだ”こう育って欲しい”を体現したものであるからだ。


 手短に準備を済ませ二人は国外へと出た。

 去り際にティアハーン家にも寄ってはみたが、今回の裏事情がティアハーン公爵にも知らされなかったこともあり、冷めた対応をされた。

 ストーリーは書き換えられたが、それでも国王殺しの汚名は付いたままだ。

 公爵の目に映る二人は大問題を起こした大罪人のままであり、手切れ金を使用人経由で渡され、直接会うことも叶わなかった。

 荷物も勝手に纏めろとのことだ。


 ともあれ。

 こうしてヴァルジャンは”元”執事のただの青年となった。

 アルマも”元”公爵令嬢となり一人の女の子となった。


 二人とも、自分自身の肩書の変化についてはその自覚を持ったが、相手への意識の変化は無い。

 アルマはヴァルジャンを”意中の男性”として見ているし、ヴァルジャンはアルマを”お嬢様”として見ている


「……と、ところで」


 馬車が国境を越えたところで、ふいにアルマが俯いた。


「どうされましたか?」

「私はもうティアハーン家の令嬢ではないわ」

「そうですね。勘当されましたし」

「もう満足のいくお給金をヴァルジャンに払えなくなるの。手切れ金もいつまで持つか……」

「……そうですね」

「……」


 ヴァルジャンの預かり知らぬアルマの心境は複雑だった。

 お嬢様では無くなった自分の傍にヴァルジャンがいてくれるのか、それが不安であったのだ。

 今まで自分の傍に居てくれたのは”執事”だから。

 でも、ヴァルジャンを傍に置くのであれば、”執事”として雇うためのお金が必要だ。

 手切れ金などすぐに尽きる。

 それが無くなれば……アルマはヴァルジャンの反応が怖くて、今にも泣きだしそうだった。


「……お嬢様の言う通りに、お給金が無ければ私を執事として雇うことは叶いません。実は高いんです私は」

「……知っているわ」


 少しずつアルマの顔色が悪くなっていった。

 青ざめている。

 まるで捨てられた直後の子犬のようなアルマに、ヴァルジャンは少し調子が狂ってしまった。


 お金の大切さを説こうと思っての発言でしかなく、給金が無くとも離れる気は無いのだが、アルマはヴァルジャンが離れることを極端に恐れている。

 世間知らずなお嬢様をそのまま放り投げられるほど、ヴァルジャンは冷たい男では無いのだが。


「で、ですが、私への給金云々の前に、お嬢様の今後の生活費の方が問題でしょう。仰る通りに手切れ金もいつかは尽きます。魔力が無く初歩の魔術も使えないのですから、お嬢様にそういった系統の仕事は出来ません。では普通の仕事が出来るかと言うと……まぁ平気でムカデとか掴みますし、出来そうと言えば出来そうですが、それでも慣れるまでにも時間が掛かるでしょう。初期状態が世間知らずですから」


「……そ、そのような言い方は面白くないわ」


「面白く無い……ですか? 困りましたね。私はお嬢様の為に普通の生活にも慣れるようにとお支えするつもりだったのですが。それが面白くないとなると、私はお嬢様の傍にはいない方が良いという事になります」

「…………え? 私の傍にいてくれるの? で、でも何度も言うけれど、ヴァルジャンへのお給金を私はいつまでもは払えない」

「別にお給金は要りませんよ」

「ほ、本当に……?」

「どうしてそこまで疑り深いのですか。やはり離れた方がよろしいのですか?」


「や、やー! それはやーなの……」

「急に子どもみたいになって。……いずれにしろ、お嬢様の生活費を工面する必要がありますね」

「……ぜ、贅沢をするつもりはないから」


 アルマはちらちらと上目遣いにヴァルジャンの様子を窺うと、


「……ありがとう」


 ぽつりとそう言った。

 頬をほんのりと朱色に染めたのは、その言葉を伝えるのを恥ずかしがった結果なのか、それとも令嬢という肩書が無くなったとてヴァルジャンが付いて来てくれる事への喜びか?

 いや、理由はどれか一つではなく……きっと全部だ。


「……”ありがとう”ですか。お嬢様から初めて言われました」


 アルマの心境など知らぬヴァルジャンは、突然の”ありがとう”にただただ驚いた。

 槍でも振ってくるのではないか?

 そう思ったが、それを言うと機嫌を損ねそうな気がしたので、恐らく気まぐれだろうと結論づけて忘れることにした。





 揺れる馬車の中だと言うのに、手紙を書き綴るヴァルジャンの筆跡には一切のブレが無い。

 執事として積み重ねた経験と技術がなせる技である。


「……何を書いているの? お手紙?」

「はい」

「誰に?」

「少し遠くの国になるのですが、頼れそうな友がおります。お嬢様と出会う以前から交友があり、昨日今日知った仲では無いので信頼が出来ます」


「私と会う前から……と言う事は8年以上前から?」

「はい。初めて会ったのは私が5歳くらいの時だったでしょうか。考えても見ると、足がけ20年の付き合いになります。何か用事でも無いと会う事もない相手ですが、付き合いの年数だけで言えばお嬢様の倍以上の相手ですね。……お互いまだ子どもでした。あの頃」


「幼馴染ということかしら?」

「はい。それで向こうも執事の仕事をしていますよ。かつて父の縁で知り合った相手です。父と仲の良かった他国の執事の家系の者です。私と似たような家庭環境だった相手と言えば分かりやすいですかね」


「そうなのね。なら、久しぶりに会えてヴァルジャンも嬉しいのでは? 私も失礼のないようにしないと」

「そこまで気にされなくても良いですよ。……さて、書き終わりましたので送りますか」


 ヴァルジャンは手紙に封をつけるとぱっと投げ、銃を構えて引き金を引いた。


「――魔術式を展開。番號【(さん)】」


 宙に浮かぶ陣を通過した弾丸が触れると同時に、手紙は一瞬のうちに消えた。

 使ったのは、指定した座標へ転移させる魔術だった。

 容量が小さく送れる物も限られるが消費魔力が非常に少ないこの魔術は、お手軽な連絡手段として魔術士たちから重宝される術の一つだ。


 ちなみに、ヴァルジャンが扱う魔術の番號は拾番まであるが、これは魔術士が一つの発動体で使える魔術が十であるからである。

 発動体を通して自身が制御し扱える範囲の魔術から、好むものや良く使うもの選んで、十までの好きな番号を割り振って詰めて使うのだ。


「良いお返事が来ると良いわね」

「どうでしょうか。筆不精なヤツですから。どうしても返事を出さなければいけない連絡以外は、折り返しの筆を取りたがりません。今回のも『へぇ来るんだ』で止まって、返事は寄越さないと思います。そんなことよりお嬢様……」

「うん? 何かしら」

「……馬車に積んでいる箱なんですが、何が入っているんですか?」


 ヴァルジャンが指さしたのは、ティアハーン家を出るにあたりアルマが一つだけ持って来た箱であった。

 箱には「おきに」との注意書きがしており、何だか嫌な予感がする。


「……変なものを持って来てはないですよね?」

「……へ、変なものって何よ。変なものなんて何も入ってないわ」

「それでは中を見ても?」


 ヴァルジャンが問うと、アルマは一瞬だけビクッとしたものの、ゆっくりと頷いた。


「み、見たければ、好きにすれば良いわ。普通のものしか入れてないから。どうせ全部なんて見れないでしょうし」


 お許しが出たのでヴァルジャンは箱を開ける。

 中に入っていたのは――アルマが過去に自分で選んだ買った、ファッションセンスが皆無な衣類の数々だった。

 なるほど、確かにこれはお気に入りの品だ。

 ヴァルジャンは納得しつつも、しかし同時にため息も出た。


「何よ……」

「……こんなものを」


 うさ耳のついている着ぐるみ型の服をつまんで持ち上げ、ヴァルジャンはもう一度ため息を吐いた。


「……はぁ」

「か、カワイイでしょ。うさちゃん。……気に入ってるんだから。それ着ると良く眠れるの」


 アルマはぷいっと横を向いた。

 以前までなら、カァァァっとなって平手打ちの一つでもして来たものだが、さすがにそれはやり過ぎかも知れないと思えるようになったらしい。

 成長しているようだ。


「……」

「や、やめなさい。その哀れむ感じは」


 貴金属であったり珍しい書物であったり、何かしらお金になりそうな物にすれば良いのに、どうしてこのようなものを持って来るのか?

 ヴァルジャンには理解が出来なかったが……しかし、一方でこれはこれでアルマらしくはある。

 そう考えると妙に暖かい気持ちになった。


「……うん?」


 微笑みながら着ぐるみを箱に戻そうとして、そこでヴァルジャンは箱の隅に赤い何かを見つける。

 良く見ると紐だ。

 赤い紐がちょこんと出ている。

 下に隠すようにして何かを突っ込んでいるらしく、その一部が出てしまっている。

 一体なんだろうか? 

 気になったのでするすると引っ張りだしてみると、それは煽情的な形の下着であった。


「――っ」


 ヴァルジャンは慌ててアルマを見た。

 アルマは口を尖らせ横を向いており、こちらには気付いていなかった。

 ホッとしつつ、ヴァルジャンはそっと物音を立てないように下着を元の位置に戻した。


 アルマも一応は年頃だ。

 こういうものにも興味があるのかも知れない。

 しかし、そうだとしてもこれは後でこっそり処分しなければならない、とヴァルジャンは決意する。


「……早く箱の蓋戻しなさいな」

「はい。ただいま」

「……? 急に素直になるのね?」

「いつも素直ですよ、このヴァルジャンは」

「そ、そう……?」


 あってはならない。

 お嬢様が破廉恥になるようなことがあっては、ならないのである。

 何事にも快活で興味を抱く子ではあるが、それが変な方向に向かうのを阻止するべきは執事の役目だ。





 体調が悪い――それが到着時のアルマの状態だった。

 三週間ほどが経過して目的の国に入り、ヴァルジャンの友が居るという屋敷の前に馬車が止まった時、頬がこけていた。

 元にはなってしまうが公爵令嬢であったので、馬車での長期移動は初めてでは無い。

 むしろ慣れていると言って良い。

 しかし、その慣れというのは造りが良く揺れない専属の馬車と、言わずとも常に乗車人の体調を心配する御者があってこそのものだった。


 今回使用した馬車は普通のものだ。

 造りは簡易で座り心地も悪く、細かに乗車人の容体を窺う御者も当然いなかった。


 悪童と呼ばれただけあって体力には自信があったアルマだが、それだけでは乗り越えられず、時おりヴァルジャンが背中をさすってくれなければどこかで吐いていた。


「……疲れたわ。馬車ってこんなに疲れるものだったかしら」


 口を抑えながらアルマが馬車から降りると、ヴァルジャンが御者にお金を払っているのを目撃した。

 アルマは慌てた。


「ま、待ちなさい。私が払うから」

「え……? いやいいですよ」


 ティアハーン家にいた頃であれば、仮にこうした馬車を使ったとしても、請求は後で家に寄越してくれと言うだけだが今は違った。

 つまり、ヴァルジャンは自腹を切ろうとしている。

 それがとても申し訳なくて、アルマはまだ手つかずの手切れ金から払いたかった。

 二人分を出したかった。


 ヴァルジャンからすれば、これもあくまで生活費の工面の範疇なのかも知れないが……それに甘んじていては、いずれは愛想を尽かされてしまうかも知れない。

 その不安がアルマを駆り立てた。

 すると、ヴァルジャンは困ったような顔をしつつも「それでは」と、ある提案を出して来た。


「お気持ちはありがたいことなので、半分ほどお支払い頂きましょうか。自分自身の分だけ」


 どうやら……変に心配せずとも見限られたりはしなさそうだ。

 それが分かったらホッとしてしまって、急にヴァルジャンのことを直視出来なくなった。

 顔を朱に染めて横を向く。

 公爵令嬢という肩書が外れると共に、なんだか最近好意のタガも外れ気味になりつつあった。


 この想いがいつか届く時が――いや、そんな受け身はらしくない。

 必ずや届けるし首を縦に振らせる。

 何せ自分は我儘でじゃじゃ馬で有名だったのだから、主導権を握るくらい造作もないのだと、アルマは鼻息を荒くしていた。





 アルマが急に元気になり支払いを始めたのを見ながら、ヴァルジャンはなんとも複雑な気持ちになっていた。

 手切れ金はアルマにとっての最期の生命線であるから、執事としては出来れば目減りさせたく無かった。

 しかし、自分で支払うという価値観と行動はこれから大事になるのも事実だ。

 それを本人から申し出て来た。

 それも喜々として。

 ならば無理に断るのもどうかと思い、ひとまず自分の分だけ払って貰うことを提案した。


 市井の習慣の理解が少し早い気はするが、アルマは少しずつ一般人の行動を考えるようになっているのかも知れず、それは良い兆候である。

 ただ、ヴァルジャンは少し寂しくも思っていた。

 この調子だと、アルマは恐らく想像するよりも早く普通の生活に慣れる。

 その時が来たら――


『――ヴァルジャン。あなたはもう必要は無くてよ』


 仮にそんな言葉を出されたとしたらと考えると、悲しくもなった。

 いつまで自分を必要としてくれるのだろうか?

 それは、ヴァルジャンが初めて心中に抱いた、アルマが自分をどう見ているのだろうかという問いでもあった。


「……いや、それはその時が来たら考えるべきことであって、今はまだ」


 ヴァルジャンは首を横に振って雑念を振り払った。

 それからアルマの箱を馬車から降ろし、屋敷のドアノッカーを叩いた。


「……どちら様?」


 些か低く落ち着いたその女の声は、ヴァルジャンにとっては懐かしい声だった。


「私ですよ。ヴァルジャンです。……その声ユキでしょう。私の葉書はご覧に?」

「……ふぅん。本当に来るとは」


 扉が開いて中から出て来たのは、長い黒髪が映える女だ。

 180cmあるヴァルジャンより少し背が低いかなと言ったくらいの、女としてはかなりの長身の部類で、手足も長くとてもスタイルが良い。


 ただ、そうしたスラっとした美しさの中に、どこか粗暴さも内包しているような印象も強い女性だ。

 けだるげな表情でガムを噛んでいる。


「……え? 女?」


 扉から出て来た人物にアルマが大きく目を見開いていたが、ヴァルジャンはそれに気が付かなかった。


「……手紙は一応見たよ。入りな。”元”執事と”元”お嬢様」


 ユキは二人を一瞥した後に噛んでいたガムを膨らませる。

 風船のような大きさにまでなったガムは、そのうち膨張に耐え切れなくなり弾けた。





 玄関から出て来た人物を見て、その時アルマは動揺してしまった。

 ヴァルジャンの幼馴染が女性だとは思っていなかったのだ。

 何かの見間違いかと思った。

 しかし、燕尾服を着ているところや、ヴァルジャンの口ぶりから察するに”幼馴染の友”であるのは疑いようもない。


 主導権を握るのは簡単だと思っていたからこそ、妙に親し気な異性の出現に、雷に打たれたような衝撃が背筋を走る。

 茫然と立ち尽くすしか出来なかった。





「”元”執事に”元”お嬢様ですか。中々に手厳しいですね、ユキは」

「事実でしょ。本当の事を言ってなんか悪い? まーなんでもいいから中入りなよ」

「はは……中に入りたいのは山々ですが、まずこの重い荷物をどうにかしたいので」


 ヴァルジャンは、アルマのお気に入りの服が入った箱を見た。

 すると、ユキは自らの太腿を軽く叩いた。

 そこにはホルスターがあり銃が収まっている。

 発動体だ。


「そういえば、そういう魔術が得意でしたね」

「体動かすのが好きだからね。――魔術的を展開。番号【四】」


 ユキは片手で箱をひょいと持ち上げた。

 体の中に陣が発生する、自らの身体能力を向上させるタイプの魔術を行使しているのが分かる。


「手紙で大体の事は把握してる。家に使ってない空き部屋あるからしばらくはそこ使いなよ。案内する。家の鍵も後でやる。今日は私たまたま休みだけど、いつもは仕事でいないからさ。住み込みじゃなくて通いだから夜になれば戻って来るけど、それまでの間出掛ける時に鍵を気にするのも嫌だろ?」

「……助かります」


「お前が助けを求めるのは珍しい。本当に困っているんだろうから少しぐらいなら力になるさ。幼馴染だし」

「……何か困り事が出来たら、なんなりと言って下さい。私に出来る範囲で力を貸します」


「ふぅん。じゃあ早速だけど今夜ちょっと付き合って貰うよ。大丈夫?」

「急ですね……まぁ大丈夫ですが」


 ヴァルジャンは屋敷の中に入っていったユキの後を追おうとして――


「連れのお嬢様もちゃんと連れて来いよ?」


 ――そう言われて振り返った。

 すると、そこには心ここにあらずな顔で立ち尽くしているアルマがいた。


「……お嬢様?」

「……」


 ヴァルジャンはアルマの眼前で掌を上下に動かした。

 しかし反応が無い。

 一体どうしたのだろうか?

 肩を掴んで少し揺らすと、アルマはようやくそこでハッと意識を取り戻してくれた。


「……あ、あれ」

「今少し意識飛んでいましたよ、お嬢様」

「……」

「お疲れなのかも知れませんね。ひとまず中に入って休みましょう」

「そういえば、私の箱は……?」

「ユキが持って行きました」

「あれ結構重いのだけど……」

「まぁ3級ですけどユキも魔術士ですから」


 ですけど、等という言い方をヴァルジャンはしたが、ユキの年齢で3級というのは魔術士として凄いと言える。

 普通の人間が真面目に鍛錬と知識理解を積み上げ、そうして40か50も近くなった頃にようやく到達出来るのが3級だった。

 それを何の変哲も無いかのように言えるのは、その上に続く2級1級を超えた頂点として存在する”特級”であるからこそである。


「……執事って魔術使える人多いわよね」

「絶対条件ではないですけど、必要条件のような感じではありますから」


 執事が魔術士であったり、または職務と並行して目指しているというケースは非常に多い。

 その肩書で自らを売り込む事が出来るからだ。

 通常の職務に加えて、『主の”護衛”や”魔術の個人レッスン”等も出来ます』と言える強みがある。


「魔術……あの女も使えて……ヴァルジャンも使えて……二人には共通点があって……私はない……魔術……使えない」


 ぼそぼそと何かを呟くアルマの表情には影が差していた。

 だが、鈍感な執事は気づかなかった。

 ただ、なんだか苛立っていそうだというのは察したので、機嫌をとるべく話題を変えることにした……のだが、原因も分からないのに解決しようとしても良い結果など産まれないものだ。


 ヴァルジャンは不用意な発言をし、見事にアルマの地雷を踏み抜いた。


「そうだお嬢様、ユキにお茶を入れて貰いましょう。ユキはがさつに見えますが実はとても女性らしくお茶を入れるのが上手なんです。飲むと安心感を得られると言いますか、なんと言えば良いのか、とかく穏やかな気持ちになれるお茶ですよ。ここはユキの家ですから他の人もいません。ゆっくり出来ます。三週にも渡る長い馬車旅で、お嬢様も心身共にお疲れでしたでしょう。大丈夫です。長旅は誰でも疲れるものです。私も疲れております。ですから、まずは一息――」


 ――メコッ!

 足の甲に激痛が走り、ヴァルジャンは膝をついた。

 アルマに踵で踏みつけられたのだ。


「おっ……おおっ……お嬢……様っ?」

「……疲れている? そうなのね。私と一緒にいた三週間は、ヴァルジャンにとって疲れる毎日だったのね。そして、その疲れは他に誰もいないあの女の家であの女が入れるお茶を飲むと癒せるのね。粗暴そうな見た目に反してとても女性らしい一面もあるあの女が入れたお茶で」

 

 底冷えするような目つきでアルマから見られ、ヴァルジャンの頭の中は戸惑いで埋め尽くされた。

 国外追放処分となってから、暴力的な面は息を潜めたかのように見えていたのに、どうしてそれが復活してしまったのか?

 わけが分からなかった。





 机の上には三人分の紅茶が並んでいる。

 良い香りが周囲にも広がっており、本来ならば精神的に落ち着けそうな空気だ。

 しかし、どうにも重苦しい雰囲気が場を支配している。


「……なぁ私何かしたか? 何もしていないと思うんだが」


 ユキがヴァルジャンに耳打ちをして来た。

 問いの理由は誰の目にも明らかで、先ほどからアルマが半眼でじとっとユキを睨みつけているからだろう。


「めちゃくちゃ私のこと睨んでね?」

「です……ね」


 怪訝そうに頷きながら、ヴァルジャンは思考した。

 なぜアルマはユキを睨むようにして見ているのだろうか?

 間違いなく初対面であり、嫌いになるほどの接触は無いにも関わらずどうしてなのか。


 そういえば、先ほど急に足を踏みつけて来たりもした。

 何か様子がおかしい……。

 しかし、いくら頭をひねっても答えにたどり着けなかったので、きっとアルマは単に虫の居所が悪かったのだろうとヴァルジャンは結論づけた。


「まぁ……たまにこうなりますから」


 良く分からないが機嫌が悪くなることは以前からあるにはあったので、恐らく今回もそんな感じなのだろうと思った。


「気難しい子なワケだ?」

「気難しいって程でもないですけどね。いつもは良い子ですよ」

「……ふぅん」


 と、そんな風に二人でこそこそ話していると、アルマが口を開いた。


「随分と仲がよろしいのですね。まぁお綺麗な方ですし、ヴァルジャンも鼻の下を伸ばしたいのでしょう」


 ずずず、と紅茶をすすりながら、アルマは半眼のままユキを睨み続けている。


「なにを急に……。失礼の無いようにしたい、みたいなことを仰っておられませんでしたか?」

「私は別にユキさんにどうこう言っているわけではありません。あなたに言っています。ヴァルジャン」

「えぇ……」


 さらに雰囲気が悪くなりそうだったが、二人のやり取りを観察するように見やっていたユキが口を開いたことで、状況が一転した。


「……仲が良いと言うよりも、幼馴染だから取り繕うにも本性なんてバレてるしで、だから大して気を使わないのはあるよ。でもそれだけ。直接会う事(・・・・・)はあんまり無い(・・)からね。仲が良いともまた少し違う(・・)

「あぁそれは確かに。親の付き合い等で顔を合わせる機会の多かった子ども時代ならともかく、今は数年に一度会うか会わないかくらいですよね。ユキは筆不精ですから、連絡を出しても返して来ないのが当たり前ですし」


「そそ。最初にお互いが顔を合わせたのが子どもの頃ってだけ。実際に接した付き合いの長さで言えば、お嬢様との方が長い(・・・・・・・・・)んじゃない?」

「それも確かにその通りです。実際に接した時間はお嬢様との方が圧倒的に長いですね」


 ヴァルジャンは何も考えずにユキに追従したが、これこそがアルマの機嫌を良くする正解であった。


「紅茶おいしゅうございました。……鼻腔をすっと通る清涼感溢れる香気。これは中南の高地原産の茶葉の特徴ね。けれども、そのわりには渋すぎない舌触り。使った茶葉のサイズはファニングスかしら。飲み手を選ばず、香りを楽しませる淹れ方ね。とても上手よ」


 アルマが頬を緩ませ饒舌にそう語り、ヴァルジャンとユキは面食らったように瞬きを繰り返した。


「え……? あ、あぁ喜んでくれたようなら何よりだよ。にしても分かりやすい。そんでお前は鈍すぎだ」


 ユキに肘で小突かれたヴァルジャンだったが、”鈍すぎ”の意味が分からずただただ首を傾げた。





 夜の帳が下りた頃。

 うさ耳の着ぐるみ姿ですぅすぅと寝息を立てるアルマの額をヴァルジャンは一撫でする。

 何も考えずにただ休むだけの睡眠は久しぶりだからか、良く眠っていて可愛らしい。


 元気そうに見えたが、それでもまだアルマは16歳の女の子である。

 国外追放から気が休まる時はあまり無く、やはり疲れていたのだ。


「……それでは少し出かけて来ますね」


 眠っているアルマに聞こえているわけもないが、出かける旨を伝えた。

 ユキの用事を今から済ませに行く。


 なるべく物音を立てないようにゆっくりと歩きながら、ヴァルジャンは『その前に』とこっそりお嬢様の箱から、煽情的な形のあの下着を拝借した。

 これを捨てなければいけないものであり、出かけるついでに処分するのだ。


「これはお嬢様には必要のないものですから……」


 すすすっと部屋から出て、ユキと会う前にゴミ捨て場を探した。

 しかし……中々見つからない。

 暗がりなせいもあって、ゴミ箱の発見がどうにも難しかった。


「……中々来ないと思ったら、お前何やってんだ」


 背後から声がしたのでヴァルジャンがバッと振り返ると、そこには噛んでいるガムをぷぅと膨らませるユキがいた。


「早く手伝い――」


 そこまで言いかけたユキが、ヴァルジャンの手にしていたものを見てぎょっとして後ずざり、同時に膨れたガムがパンと弾けた。


「お、お前なんちゅう下着を握ってるんだ!」

「ち、ちちち、違うんです。これは違うんです。ご、誤解です。私は無実です」

「私はそんな下着持ってねーし……まさかあの子の……」

「確かにこれはお嬢様のなんですが、深いわけがございまして――」

「――こっち来るな変態!」





 中々ヴァルジャンが来ないと思ったユキは様子を見に行った。

 すると、えっちな下着を手にしているところを目撃してしまった。

 驚くと同時に呆れてしまった。

 誤解を解こうとしどろもどろなヴァルジャンの説明を全て聞き終え、事情は理解しつつ思わずため息を吐く。


「はぁ……なるほどな」

「そういうワケなので、私が変態になったとかそういうワケではありません。お嬢様がこんな下着を持っていてはいけないという執事心が私を突き動かしたのです」

「傍から見たら完全に変態だけどな。見た目がそこそこ紳士なだけに、なおのこと気持ち悪い」


「……」

「黙るな変な空気になるだろ。……あとその下着は戻して来いよ」

「えっ」


「言いたいことは分かったがそれはあの子のものだ。お前がどうこうして良いワケも無い。……どうにかしたいと思うのなら、あの子が自ら『これは必要ない』と思うように誘導しろ。でないと、無くなった事に気づいてまた買うだけだと思うぞ」


 無くなった事に気がつけば恐らくまた買うような性格をしている、とユキはこの短時間に看破していた。


「ユキの言う通りかも知れませんが……」

「言う通り”かも”じゃなくて絶対そうなる。お前も”元”であっても執事なら、それが気に入らないのならば、そういう考えを起こさせないように教え導くべきだ」

「……耳が痛い。にしても、お嬢様はどうしてあんなものを」

「自分の頭で考えろ」


 あのお嬢様はこの眼鏡執事に首ったけであるから、そういう関係にいずれなりたいと思っているに違い無い。

 その時を考えて頑張って用意したのだろう。

 ユキには手に取るようにそれが分かったが、あえてヴァルジャンに教えなかった。


 意地悪をしようと思ってのことではなく、アルマの気持ちを考えての配慮だ。

 好意を勝手に伝えられて引っ掻き回されるほど嫌なものは無い。

 周りが動いてくれる事を期待する子もいるにはいるが、あのお嬢様がその類ではないのは明白である。

 だから過度な干渉をする気は無かった。


「……こんな夜中に勝手に下着を持ち出した挙句、握りしめてウロつく変態眼鏡のどこが良いんだか」


 ユキは鼻で笑ってそう言ったが、それはそのまま過去の自分自身に跳ね返って来る言葉でもある。

 昔の話にはなるが、ユキはヴァルジャンに思慕を抱いていた事があった。

 時間が経つに連れ、自分の立ち位置が”幼馴染”で”友達”でしかない事を知って身を引く事を選んだが……。


 ユキはかつての自分を思い出して苦笑した。


「……なにを笑っているんですか?」

「なんでもない」

「そうですか? まぁいいです。いずれにしろユキの言う事はもっともです。こういった物に興味を持たないように導けなかった私の失態です。……仕方がありません」


 下着を戻しに行ったヴァルジャンの背中を見て、ユキはふとある事に気がついた。

 かつて思いを寄せた男の背中が、その頃とは随分と違って見えているのだ。

 昔は大きくたくましく感じていたが、今はそうではなく、なよなよと頼りなさげな優柔不断な友達のそれでしか無かった。


「……まぁ頑張りなよ」


 ユキのその呟きは、今この場にはいないアルマに向けたものである。

 少しの事で嫉妬して傍から見ても大好きが抑えきれていない、あの”元”お嬢様に対しての、小さなエールだ。


 頬を引っ掻きながら、ユキは口中にあるガムをもう一度膨らませる。

 ユキはガムが好きである。

 甘くてすぐに膨らんで、けれどもちょっとした事ですぐに弾けてしまうその在り方が、上手くは言えないけれど好きだった。


 膨らんだガムは、ほんの少しだけ甘い香りを漂わせながらも弾けて飛んだ。

 ユキが過去にヴァルジャンへ抱いていた思いの残り香も、ガムと一緒に弾けて飛んだ。

 口の中に残ったのは僅かな甘さの余韻だけだ。





 夜の街に出ると、周囲は静かで人通りも昼に比べれば少なかった。

 酒に酔った人物かこの時間帯にする仕事をしている人がチラホラ見える程度だ。


「それで、こんな時間に私に手伝って欲しい事とは?」

「まぁちょっと。頼りにしてるよ。”特級”魔術士」

「その言い方……もしかして戦う系ですか?」


 過去にも何度か似たような頼まれ方をしたことがあったので、その内容と傾向がヴァルジャンにはすぐに分かった。


「もしかしなくてもそれ系だ。……”特級”のお前がいてくれて気が楽になる。相手に1級か2級がいるかも知れないからさ」

「1級でも相手にはならないので戦うのは別に良いんですけど、こんな深夜にですか。暗殺か何かですか? 主からの命令ですか?」

「いや、命じられたワケじゃなくて私の独断だ。目的は脅威の事前排除。……私の主はまだ小さくてな。貴族学校の初等科に通っている」

「……命でも狙われてるんですか?」


「それに近いな。説明は苦手なんだが……その、主の通う学校の子たちを一斉に誘拐して身代金を要求しようって企てている連中がいるんだ。野良の魔術士もだいぶ集めたらしくて、街の警邏隊もビビって動かない。だから私が潰してやろうって思ってるって話だ。主が安心安全に学校に通えるように」

「なるほど。……ちなみにもともと一人でやるつもりでした?」


「そりゃ勿論」

「無理でしょう。1級が出て来たらユキでは勝てませんよ? 2級なら相性が良ければなんとかなるかもしれませんが」

「……無理そうなら一旦逃げる気してた」

「あなたと言う人は……」

「死にたくはないからな。それより」


 ユキは眉を潜ませながらガムを膨らませると、数秒の間を置いてから言った。


「……手紙にアルドーおじさんを殺したとあったが、それ本当か?」

「……本当ですよ」

「仕方のない事情だったのも書いてあったし、理解はしたつもりだが、それでも死んだとなると少し寂しいな。……子どもの時に遊んで貰ったからな」

「……暴走した国王を止められず、多くの人々の生命と生活を巻き込んでしまったのです。それは命を持ってしか償えない大罪であると私は沙汰を下しました。だから殺しました。……子であるこの私がこの手で」


 眼鏡を掛け直すヴァルジャンの眼光はいつになく鋭かった。


「……嫌なことを思い出させたな。悪かった」

「……気にされなくても大丈夫ですよ。もう心の中で折り合いはつけていますから」


 そうは言いながらも、ヴァルジャンの心中には割り切れない気持ちがくすぶる時もあった。

 だが、選んだのは自分自身である。

 敬愛し目標としていた父親ではなく、常に自身が傍らで見守り続けて来たお嬢様――アルマの描く”正しさ”に共感し、その一助となることを選んだ。


 間違っていたとは思わない。

 だから、悲しさや寂しさは感じても後悔だけはしていなかった。

 




 その後すぐに辿り着いたのは、街はずれの廃工場だ。

 明かりが点っており、周辺には数十名もの人影があり、全員が発動体を身に着けているのも見えた。

 一人残らず魔術士だ。


「いっぱいいますね。……うん?」


 廃工場の屋根の上から魔術士の群を眺め、頭目とおぼしき男を見つけたヴァルジャンは眼を細めた。


「どうした? 何か気になることでもあったか?」

「あの男を見てください」


 ヴァルジャンが男を指さすと、ユキが片眉を持ち上げて驚いた。


「なんだあいつ……」

「似ています。……私が倒した化け物と」


 その男は、ヴァルジャンが以前に倒した前国王や、あるいはその次に倒した化け物と酷似していた。


「見るからに化け物だが……周りが全く気にしていない。何かおかしいぞ」

 

 ユキの言う通りに、周囲の人間は誰一人として化け物を気にしていなかった。

 それどころか指示を受けて動いている。

 原因はすぐに分かった。

 あの化け物が魔術を周囲の人間に掛けているのだ。

 周囲の魔術士の額に小さな陣が浮かんでおり、そこから何らかの精神干渉系の魔術の行使をしているのが推測出来た。


「魔術を使いますか……」


 ヴァルジャンが以前に倒した化け物は”魔術”を使ってはいなかったし、そのような素振りも見せては来なかった。

 困惑を感じる。

 だが、今は考えても分からないことよりも、この集団をどうにかするのが先決だ。


 仮に眼前の化け物が何かしらの特異な存在であったとしても、どうにでも出来る自信がヴァルジャンにはあった。

 ”特級”魔術士という、名実ともに最強に君臨する一柱である自負がある。


「……ひとまず全員地に伏して貰いますか」


 ヴァルジャンは発動体の銃の引き金に指をかけた。


「――魔術式を展開」


 周囲一帯を覆うような大きな一つの陣が出現すると、それは一気に下降した。


「番號【()】」


 番號【肆】は集団戦闘の時にヴァルジャンが頻繁に使う魔術であり、効果は――陣に触れた範囲の任意の物体に任意に加圧をかけられる――である。

 一見単純に見えるこの魔術は、その実とても難解な構造理解と制御を要求される代物で、”特級”に至った実力を持つヴァルジャンだからこそ扱える魔術だ。


 異空間への接続魔術も含め、魔術の中でも最も複雑とされる空間に作用する複雑な魔術を得意としたヴァルジャンは、界隈ではこう呼ばれてもいた。

 次元の狭間に住まう者(・・・・・・・・・・)、と。


「――っ」

「――ぁ」


 ヴァルジャンは生物のみを対象に加圧をかけ、周囲の無機物に何らの被害を出すことも無く制圧を完了させた。

 周囲の魔術士全員を喋る事すら許さずに圧し潰したが、加減はしており命までは奪わずに済ませた。


「……さすが”特級”。相変わらずやばい魔術使ってんな。それ私には制御はおろか発動すら無理だ」

 

 ひゅう、とユキが口笛を吹いて目を丸くする。


「空間作用系は1級の人たちでも扱えず、私を”特級”たらしめている魔術の一つですから、簡単に誰にでも使えたら困りますよ。……ともあれ、全員抑えつけましたので警邏隊を呼んで来て下さい。この状態なら、恐れるに足らないとして引け腰も改めるでしょう」

「この化け物はどうする? 警邏隊が見たら驚きそうだ」

「……警邏隊が来るまでの間に私が始末をつけます。安心していいです。塵一つ残さず消しますから」


 化け物は他の魔術士たちと同じように【肆】による圧力には耐え切れず、身動き一つ取れなくなっていた。

 だが、なんだか妙な雰囲気をヴァルジャンは感じていた。

 嫌な予感がする。


「……分かった。呼びに行ってくる」


 と、ユキが踵を返したと同時だった。

 化け物が加圧に抗い僅かずつに指を動かし、魔術の発動体に触れたのが見えた。


「――ユキッ!」

「――ふえっ⁉」


 ヴァルジャンはユキの腕を引っ張り抱きとめた。

 密着した二人の脇を通った一筋の光は、当たれば一瞬で洗脳を施す精神干渉系の魔術だった。

 ヴァルジャンは危機感を抱いた。

 変なことをされる前に、すぐに始末をつける必要がある。


「……」

「えっと……え? ヴァ、ヴァルジャン……?」


 状況が分かっておらず顔を赤らめるユキを抱きしめたまま、ヴァルジャンは魔術を行使する。


「――魔術式を展開」


 陣を展開すると同時に、銃口に紫色の光が溜まり徐々に濃くなる。

 まだ発動している状態の【肆】との多動展開にはなるが、魔力量にはまだまだ余裕があり、制御に支障をきたすほどの疲労も無い。


「番號【捌】」


 放った弾丸が化け物に到達すると同時に紫色の球体が増殖を始め、対象を全て覆い尽くし――きゅぽん――と消える寸前。

 化け物の口が動いた。


『コレデ……二度目。邪魔ヲスルナ……今ハ引イテ……ヤル……ソノ顔……覚エタ』


 二度目、という言葉にヴァルジャンの顔が険しくなる。

 まさか以前に戦ったあの化け物と同一の個体だとでも言うのだろうか?

 確かに異空間に飛ばしたハズなのだが……。


 謎は深まるが、この化け物も今は引くと言うのだから、ともかくこちら側の魔術の行使による損傷か影響は間違いなくある。

 しばらくは再会も無さそうだ。


「……何かあったのか? 今魔術使ったよな?」


 腕の中のユキが怪訝に眉根を寄せていたので、ヴァルジャンは今起きた事を手短に説明した。


「……というワケなんです」

「なるほど……」


 緊張感が解かれ場の空気も柔らかくなったところで、ユキが「ところで」と切り出した。


「どうしま――」

「――いつまで抱きしめてんだ?」


 ヴァルジャンは慌てて手を離した。


「いえその、危なかったなと思いまして」


 他意は無く単に心配していたというのがヴァルジャンの本音であり、ユキも理解してくれたのか、「そうか」と言った。

 ヴァルジャンは胸を撫でおろすが――しかし、次の瞬間にユキが取った行動に目を丸くするハメになった。





 ヴァルジャンに抱擁された瞬間にふいに嗅いでしまった匂いを、ユキは無意識のうちにガムに例えていた。

 噛み過ぎて味の無くなったガムのような匂いだと思った。

 もう食べたいとは思わない。

 そういう匂いだ。


 しかしながら、ガムと言うのは不思議なもので、空気を入れてまた膨らませてみると匂いと味が残っている場合がある。

 ヴァルジャンが自分から離れる間際に、味も匂いもしなくなっていたガムが少し膨れるのを感じた。

 守ってくれたと知った途端に仄かに甘いフレーバーが漂った。


 ユキはこれがいけない兆候であることをすぐに察した。

 慌てて首を横に振る。

 だが、どんどん彩りを取り戻す味と匂いに負け、次第に抑えられなくなっていた。


「……ヴァルジャン」


 ユキはヴァルジャンの唇に自分の唇をそっと押し当てた。

 不思議な気分だ。

 満たされるような感覚と同時に罪悪感も抱いた。

 けれども止められなかった。


「……なんだその顔は」


 染まったユキの頬の色は、無垢な少女の桜色ではなくて大人の紅色だった。


「えっ……? えっ?」


 困惑するヴァルジャンの表情が、今のユキにはとても愛おしく感じられていた。





 突然のキスにヴァルジャンは混乱の極致にあった。

 だが、それとは別にすべきことはやらなければならないので、押さえつけたままの集団を警邏隊に引き渡した。

 一応これで全てが終わった。


 息を吐いて落ち着きを取り戻したヴァルジャンは、それからすぐにキスの真意をユキに問おうと試みた。

 しかし、ユキは何事もなかったかのように欠伸をして、「寝る」と言って寝室へと向かった。


 すっかりいつも通りで、動揺した様子も無い。

 もしかすると悪戯か何かだったのかも知れない、とヴァルジャンは思った。


「恐らく……考えるだけ無駄なのでしょう。あまりこういったおふざけはしないタイプだと思っていましたが、年月が経てば人の性格も多少は変わるものですから、ユキもそういうことなのかも知れません」


 ヴァルジャンは頬を掻きつつ、アルマが眠る部屋へと戻った。


「……ヴぁるジャん……」


 部屋に入ってすぐに寝言で名前を呼ばれた。

 どんな夢を見ているのだろうか?

 ヴァルジャンは耳を傾けた。


「私の気持ち……ちゃんと分からないと……叩くんだからね……」


 まるで犬の調教でもしているかのような口ぶりで、ヴァルジャンは苦笑してしまった。

 夢の中の自分は首輪でもつけられているのかも知れない。


「……傍……離れちゃ……やーよ」


 不意打ち気味に発された甘えるようなアルマの呟きに、反射的にヴァルジャンの頬が緩む。

 普段から我儘で時折暴力も振るう困ったお嬢様ではあるが、それでもこうして可愛い一面も持っていて、どうにも不思議な魅力がある。


「……お嬢様が私を必要として下さる限り、お傍におりますよ」





 早朝に目が覚めたアルマが周囲を見回すと、壁際に座って寝息を立てているヴァルジャンがいた。


「そんなところで寝て――」


 ――そこまで言いかけて、アルマは自分が初めてヴァルジャンの寝顔を見たことに気がついた。

 ティアハーンの家にいた時から、自分が目覚める前に起きて自分が休んだ後に休み始めるのがヴァルジャンだった。


「……ふふ」


 アルマは物音を立てないようにベッドから降りると、ヴァルジャンの寝顔をまじまじと眺めた。

 貴重なワンシーンなので、目に焼き付けておこうと思った。


「……」


 無防備なヴァルジャンを見ていたアルマは、出会ってから今に至るまでの道のりを何の気なしに思い出していた。


 先天性魔力欠乏症を患っていた事もあって、物心がつく前からティアハーン家においては他の子女よりも一段下という扱いを受けていた。

 貴族が魔術を扱えなくても生活上や実務上には何らの問題は無く、魔術を習熟した者はそう多くはないが、嗜みや教養として幾らかは扱えるものがほとんどだったからだ。


 皆が一様に嗜むその教養に触れる事すら出来ない――それも病気ゆえに永遠に――と言うのは、軽蔑される要因であった。

 父親の公爵だけは可愛い娘の一人だと公言してくれていたが、それ以外の人物の目は冷ややかだ。

 侍女も姉妹も母も親戚も、皆がアルマを”駄目な子”という目で見て来る。


 子どもは敏感であり、まだ小さかったアルマもそうした周囲の自分への評価を感じ取っていた。

 自分を見て欲しくて、駄目な子なんかじゃないよと伝えようとしたこともあったが、しかし誰も真面目に話なんて聞いてくれない。

 唯一可愛がってくれた公爵も忙しく、会う頻度もそう多くは無く縋ることも出来なかった。


 毎日が鬱屈した。

 だから何度も”悪戯”を行った。

 そうすれば、自分を見て貰えると思った。


 しかし、得られたのは”悪童”という蔑称のみだった。

 公爵がヴァルジャンを連れて来たのはそんなある日のことである。


『よろしくお願いしますね』


 ヴァルジャンは初対面の時からニコニコと笑っており、それがなんだか気に入らなかった。

 自分が大変な毎日を送っているからこそ、屈託のない笑顔にひどくムシャクシャした。

 だから”悪戯”してやることに決めた。

 今までの執事や使用人たちは全員が耐え切れず去っていったから、ちょっとイジめてやればコイツもすぐに音を上げて辞める――アルマはそう思った。

 

 しかし、意外にもその予想は外れる。

 どのような悪戯を食らわせても、ヴァルジャンは何も変わる事なくいつも通りの調子だった。

 そのうえ、アルマが先天性魔力欠乏症であると知ったあとも、それを特に気にした様子が無かった。


 他の連中と何か違うのかも……?


 過ぎる時間が、アルマにそうした感情を抱かせ始めた。

 そんな時。

 アルマは偶然に街中で見かけた男の子を殴ってしまった。

 弱いものイジメをしていたからである。

 持つ者が持たざる者をいたぶる様は、自分の境遇と重なるから許せなかった。


 ただ、自分のお目付け役として存在しているヴァルジャンは怒るだろうな、と思った。

 こういうことをすると、周りの人間は理由も聞かずに『なんて野蛮な』と言い出すからだ。

 しかし、ヴァルジャンは怒らなかった。

 それどころか、話してすらいないのに状況と事情を察してくれていた。


『……正しい事をされましたね』

『……おこらないの?』

『なぜ怒るのですか? 悪いことを止めたのですから、今の行動はむしろ誇りに思うべきです。ただ、怪我をされると心配になりますので次からは私を頼って下さい』


 まだ小さかったアルマはヴァルジャンを見上げた。

 そこにあったのは、向日葵みたいな優しくて穏やかないつもの笑顔だった。


『さぁ行きましょう。お嬢様』


 そう言って差し出された手を握り返すのに、何の躊躇いも無かった。

 ヴァルジャンは白手袋をしているから、その手は少しだけひんやりとしていたけれど、しかし不思議と暖かくも感じた。


 この人は”私”を見てくれている。

 それを知って温かく感じたのだ。


 この日を境にアルマの思考が変わった。

 悪戯なんかくだらないと思うようになり、その代わりに自分の思う”正しい”の為に動くようになった。

 周囲はそれを新たな悪戯としか見なかったが、けれどもアルマには周囲の評価はもう関係が無かった。

 自分をきちんと見てくれる人がいるからだ。

 

 ヴァルジャンは沢山のものを与えてくれて、いつも支えてくれている。

 常々そう感じている。

 そして、だからこそ申し訳なさで胸がいっぱいだった。

 直近で言えば国外追放の件もそうである。

 自分が勝手に決めた事なのに、ヴァルジャンはそれでもついて来てくれると言った。

 お金も何もない、ただの世間知らずな小娘になってしまった自分の傍にいてくれると言った。


「……いつも私は貴方から貰ってばかり。でもそれは不公平で”正しく無い”ことだと思うわ。……ねぇヴァルジャン、いつでも求めて良いのよ。沢山貰ったお返しに私をあげるから」


 アルマはその細い指先で寝息を立てるヴァルジャンの首筋を優しくなぞり、目を瞑って首筋に口づけをした。

 少しだけ跡がつくように、甘噛みしながら肌を吸った。

 跡がついたのを確認してから、それから今度は頬と額にも唇を押し当てた。


 ――あなたが好きよ。愛してる。


 そんな想いを込めつつも唇にキスをしなかったのは、いつかヴァルジャンの方からして貰いたいからだ。

 そこは求められて触れ合うのが良い――積極的な性格をしてはいても、アルマも年相応に女の子だ。





 首筋に違和感を感じて目覚めたヴァルジャンは、驚いて目を丸くしていた。

 アルマが首筋にキスをして来ているからだ。

 理解が追いつかなかったヴァルジャンは、これは夢か何かに違いないと思いすぐさまに瞼を閉じた。

 すると、今度は頬と額に唇を押し当てられる感触がやって来た。


(私は……一体どうしてこんな夢を見ているのでしょうか?)


 困惑が胸中に広がった。

 これが夢だとして、世間一般的な俗説として、こういった夢に登場する相手は意中の人物であるのが定番だが、ヴァルジャンはアルマをそういった対象として認識したことが無い。


(だと言うのに夢に出てくるということは……私は無意識のうちにお嬢様を女性として見ていた……?)


 分からない。

 何も分からない。

 ただ、仮に自分が心の奥底でアルマを女性として好いているとしたら、それは大問題であった。


 執事という立場には幾つか暗黙の了解があり、その一つに”主に想いを寄せてはいけない”というのがある。

 だからこそ、白黒をハッキリさせなければならず、ヴァルジャンは焦る気持ちを抑えつけながら自らの深層心理を探るべく行動を起こすことにした。


 幸いにもここは夢の中であるから、いつものように気を使う必要も無く確かめるのが容易だ。

 ヴァルジャンは瞼をゆっくりと上げた。


「えっ……ヴァルジャン?」

「お嬢様……」

「あなたまさか起きて――」


 ヴァルジャンはアルマを押し倒すと、自分がやられたのと同じように首筋にキスをした。


「やっ……ちょっ……」


 少しずつアルマの服をずらし、見えた肩口にもキスをした。


「確かに……私をあげるとは言ったけど急過ぎて……あっ……」


 妙に反応が生々しい感じがしたが、これは夢なのだからとヴァルジャンに止める気は無く、最後までするつもりだった。

 そこまですれば、自分がアルマをどう見ているのかがハッキリするからだ。

 こうするのが一番手っ取り早い。


 ――これが夢では無いとヴァルジャンが理解したのは、全てが終わってからである。

お楽しみ頂けたのであれば幸いです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] とても面白かったです♪ 長編にしても良かったのでは?とも思いますが、続きが読んでみたいって後ろ髪を引かれる様な気持ちになるのが短編の良さでもあるのでしょうね(’-’*)♪ [一言] いつも…
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