第72話 脱出
始めに見えたのは曲線を描く一筋の光だった。
上から下へと振り下ろす形で目の前を通りすぎた曲線は僕の前髪を数センチ斬り落とされた事から、その曲線が刃物を振り下ろした後だと気が付いた。
「おヤぁ? よく避けましたネぇ? それとも無意識にですかァ?!」
「ッ!?」
今度は一点の光が数か所同時に発生して、気が付いた時には体中に擦り傷だらけになっていた。
「正樹様ッ!!」
部屋に血しぶきが噴き出してアンナは悲鳴のような叫び声で僕を呼ぶ。
「・・・やはり貴様はおかしいィですネぇ。 今のは急所をすべて狙って突き刺したのですがどれもギリギリで避けきりましたねェ」
痩せこけた女性は不可解な表情を浮かべながら僕の血が付いた包丁を蛇のように長い舌で舐めとる。
「おやァ? 以外に美味しいィ」
小さい声でボソッと言うと女性は何故か頬を赤らめて残りのついた血を舐めとる。
怖いわ。
「貴様ァ・・悪魔の癖に美味しい血を持っていますねェ。 それとも、悪魔とは意外に健康的な血をもっている物なのでしょうカぁ?」
「さぁ、どうだろう。 最近は日々の食事を考えて美味しい料理を作ってくれる人がいるからより健康的になったのかもね」
実際、アンナが食事を中心的に用意してくれるようになってから身体が不調の時がない。
同じ料理も続いて出て来ず、毎回考えつくされた多くの料理を提供してくれている。
「そういう貴女はかなり偏った食事をしているようですが、一度彼女の料理を食べてみては? 料理の腕だけでも彼女はコックにも負けずいい奥さんになれる逸材ですので」
心から思っていた言葉だ。
掃除・洗濯・料理・そして街の人々に対しての対応など、まるで理想のお嫁さんとも言える。
さらには可愛く誰に対しても愛想が良いときて完璧以外の何者でもない。
「・・あぅ・・」
「ん? どうしたアンナ?! もしかして何処か怪我を?!」
顔を下に向けてはいるが横目で確認すると耳まで赤くなっている事がわかる。
パッと見では僕の周囲以外に女性の攻撃は放たれていたいみたいだが知らない所で攻撃をくらってしまったのか?
「い、いえ・・その・・にゃんでもごじゃいませぇん」
「本当に? とりあえずあまり僕のそばから離れちゃダメだぞ! なんとかして君とピースちゃんは守ってみせる!」
「ふぁ・・ふぁい~・・」
どうも様子がおかしい。
なんとなく頭から蒸気のような物がモクモクと出ているようにも見える。
もしかしたら魔法か何かの攻撃で攻撃をくらっているのかもしれない。
クソッ!
ここでカガミがいてくれたら何とかしてもらえるのに!!
僕は女の子1人まともに守れない自分の非力さに思わず拳に力が入る。
「とりあえずアンタ! これ以上後ろの2人に何かするっていうのなら女性であっても容赦しないぞ」
「へェ~~~~~~~~~?」
女性は正樹の血が付いていた血を食べきったアイス棒のようにペロペロと舐めながら再び不気味な笑みをこぼす。
「一体貴様に何が出来るというんだァ? ワタシの攻撃を避けるだけで防ぐ事も出来なかったのにィ??」
挑発するような言い回しをしながら舐め切った包丁を片手でクルクルと回す。
そんな余裕ある態度という事は、あれ以上に速い攻撃が出来るという事と考えてもいいだろう。
だけど僕はそれでも何とか出来るかも知れないある策がある。
「ふっ!」
すぐ後ろにあるベッドの布団を瞬時に女性へ投げつけ視界を防ぐ。
「あまい甘いアマイぃィッ!! まさかそれでワタシの攻撃を避け切れるともでも思ってるのォ??」
投げ飛ばされくる布団を女性は手に持つ包丁で先ほど以上のスピードで切り刻む・・はずだった。
「はりャ?」
しかし布団は切り刻む事など出来ずに床に叩きつけられた。
「 ? 包丁がァ・・枝になってルぅ?」
さっきまで正樹を斬りつけて血を染み込ませていたはずの包丁はいつの間にか木の枝に変化していた。
「そりゃぁッ!! もう一丁ッ!!」
「 !? 」
現状が理解できずにいた女性に正樹は間髪入れずに布団の毛布を投げつた。
今度は咄嗟に斬りつける事も叩き落とす事もできなかった女性はそのまま毛布に覆いかぶされる。
「ちょっ!」
かなり大きなベッドである為、覆いかぶさった毛布はどかすのに時間がかかってしまう。
そしてなんとか毛布をどかし終えると目の前にいた正樹達の姿が消えていた。
◇ ◆ ◇ ◆
「わははははッ! なんとか上手くいった!!」
一方、なんとか女性の視界を妨げる事に成功した正樹はアンナとピースを連れて扉から部屋を脱出して全力疾走していた。
「ま、正樹様ッ! 一体何をされてんですか?!」
一部始終を正樹の背後で見ていたアンナだったが、一体女性に何が起きたのかまで理解が出来ず正樹に連れられるがままになっていた。
「もう忘れた?! あの部屋で起こった現象の事!」
「え? まさか・・・」
「そう! アンナの服が急に変わったみたいに包丁が木の枝になるようイメージしてみたんだよ! 何とか上手くいったみたいでよかった!!」
未だに何故アンナの服装が正樹の想像通りの服に変化したのは分かっていなかったが、もしかしたら変化できるのは服だけではないかもしれないと予想していた。
「正直あのまま戦ってたりしたら無事じゃなかったかもしれないからね! とりあえず何処かで身を隠しながら国を出よう!」
想定外の事に巻き込まれてしまったが、今は寝床の確保より安全の確保。
兎に角アンナとピースだけでも安全な場所へ移さないと!
「ん? どうかしたアンナ?」
「あ・・い、いえ・・その・・正樹様?」
「うん?」
「その、そろそろ降ろして頂いてもよろしいですか?」
なんの指示もできなかった事でピースを抱えた状態のアンナを連れて逃げる事は難しいと判断した正樹は毛布を投げつけた瞬間にピースを抱えたアンナをお姫様抱っこで抱え部屋から飛び出していた。
アンナはお姫様抱っこという抱え方が恥ずかしいのかピースを人形のように抱きかかえまた顔を赤らめている。
「ごめんな! ちょっと嫌だろうけど少し我慢して! あの女の人から逃げ切ったら降ろすから!」
「で、でも・・その・・重いですし、ご迷惑が・・」
「へ? 全然軽いよ! ピースちゃんも抱えてこの軽さで正直驚いてるもん!」
「ふ、ふぁ・・そ、そうですか? それならよかゴニョゴニョ・・・」
その後も何か言っているみたいだったけど、声も小さかったし正直逃げる事に必死だった僕は聞き取る事も聞き返す事もしなかった。
代わりに抱きかかえられているピースがアンナの頭をポンポンと撫でながら僕の事呆れた視線を向けてきている気がしたが・・気のせいだろう。
「もう少しでホテルから出るから! その後何処か身を隠せる場所を探そう!」
「は、はい!」
ホテルの出入り口が見え気が引き締まったのかアンナはしっかりとした返事を返してきた。
兎に角少しでもこの場から離れて隠れる。
それが今出来る最善の策だ。
「はぁ・・はぁ・・はぁ・・はぁ・・・・・」
そうしてようやくホテルから出た僕は呼吸を整える事もせずに思わず足を止めて呆然と立ちつくした。
「何・・これ」
腕の中でアンナも同じ気持ちだったのか少しピースを抱きかかえる力を強くする。
魔王を倒して世界を救った英雄、勇者が誕生した土地として名付けられた国。
英雄の国。
それは周囲にある国から見ても穏やかで平和な事が有名な裕福な国。
暮らしている人々が笑顔で生活をして魔物から怯える事もなく、優秀な兵士も鍛えられている。
しかし
そんな平和である国の象徴はついさきほどまでのお話。
正樹達が見ている光景は、そんな平和とはかけ離れた――
地獄が広がっていた。
 




