6:【止揚】
「いい加減にしろよてめぇ!」
「お前こそふざけてんじゃねえぞ!」
平日昼間の駅前。ランチを食べに来た会社員や、買い物に来た主婦や、仕事中の従業員の真ん中で、男二人の怒号が響いた。
始まったか。そう思って、私はイヤホンで耳を塞ぎ、声から距離を取りながら周りに目を向ける。
私は今、哲学人確保の仕事中だ。同行している馬場さん、関島さんは、聞き込みに向かう足を止めて声の方向に目を向ける。二人は哲学人犯罪取締課の人間で、つまりは警察官だ。騒ぎが大きなものになれば止めに入らなきゃいけない。
私はあの騒ぎに巻き込まれちゃいけないから、喧嘩の声や様子を見ないようにして、哲学人を探す。目撃証言にあった容姿を思い出す。確か、フクロウを連れてる子供……。
あっ。
柔らかいなにかにぶつかった。羽毛のようなふんわりとしたものに。それがイヤホンのコードに引っ掛かって、外れて。
男達の声が聞こえた。
「目玉焼きには塩だろうがァ!」
「ケチャップが一番だろボケ!!」
……えーと。
うーん。なんというか、その。
思ったより、くだらない理由で喧嘩していて、拍子抜けしてしまった。目玉焼きに塩? ケチャップ? それであんな、殴り合いに発展しそうな剣幕で喧嘩してるの? なんだ、全然大事じゃないね。私達の目的とは関係無さそう。
っていうかさ。
「醤油でしょ普通……」
確か、日本人が目玉焼きにかけるものランキングは断トツで醤油だったと記憶しているし。別に大多数が正解を選ぶとは限らないとはいえ、圧倒的な指示を得ているんだから醤油が一番でしょ。半熟の黄身と混ぜてご飯に乗せると美味しいし。塩だと香りも足りないし、液体の黄身と上手く混ざらないよね。うん。
やっぱり醤油が一番。
これを伝えなきゃいけない。そう思って、私は踵を返す。どう考えても一番美味しく卵焼きを食べる方法は醤油なんだもん。
だから。
「普通は醤油だよね、馬場さん」
「いやあのさ、只野さん」
馬場さんは呆れ果てたような目で私を見て、肩をすくめる。
そして薄ら笑いでこう言った。
「マヨネーズ、めちゃくちゃ合うよ?」
「玉子に玉子は駄目でしょ」
「今度卵焼き作るときにマヨネーズ入れてみなよ。ふわふわになってマジ旨いから」
「それ使い方違うし」
「ホットケーキ作るときもマヨネーズ入れっと美味しくなるでしょ!」
それもふっくら焼くための裏技だし。味の話してるんだよね今。そういう便利アイテムとしてのマヨネーズはお呼びじゃないんだけど。
「まあ待って、それは冗談としてさ。脂質を足して不味くなるわけねーって思わない? 人間の味覚って、結局カロリーの多いものを美味しく感じるようにできてんの。わかる?」
「太るよ」
「俺太って見える?」
「見えない。は? 普段からドーナツとかパフェとか平気で食べてるくせになに? 喧嘩売ってるのその体型」
「体質なんだよねー。あと運動量?」
ふざけんなよ馬場さん。別に私も体型のこと気にしたことないけどそれはそれとしてなんか凄いムカつくんだよそのどや顔。
「もうすぐ中年のくせに……」
「只野さんもそうじゃん」
「年甲斐もなく女子高生みたいなもの食べる馬場さんとは違う。なんでホットケーキふわふわにしてるの成人男性が」
「成人男性だってふわっふわのホットケーキ作りますぅー。イチゴとアイス乗っけて食べますー」
「くっそ……」
想像したらめちゃくちゃ似合ってた。羨ましい。なんだこの人は。美味しそうだなアイス乗せたホットケーキ。胃もたれしてしまえ。
私は助けを求めることにした。よそ見をしている関島さんを呼ぶ。
「関島さん。関島さんも醤油だよね」
「はい。俺も醤油ですね」
「ほらやっぱり醤油が人気なんだよ」
勝ち誇った気持ちで馬場さんに言うと、彼は不満げに唇を尖らせた。可愛いリアクションをするな。そしてそのリアクションが似合うな。
「お二人の論争に参加したい気持ちではあります。それはもう本当に。その前に二つほどいいですか?」
関島さんは言った。
「只野さん。イヤホンはどうされました?」
「あ、引っ掛かって外れちゃって。そしたら全然問題なさそうな話題だったから、戻ってきたんだよ」
「そうですか。ではもう一つ。そこにいる子供とフクロウについて、俺は何もおかしいと思わないのですが、お二人はどうですか?」
そこにいる子供?
私は関島さんが言った方向を見る。ああ確かに、皮膚の色が継ぎ接ぎになった子供が肩にフクロウを乗せている。でもそれだけだ。
「ああ、居るね。それで?」
「認識はできているんですね?」
「うん? まあ、うん」
認識? 見えてるから、認識はしてる。言われた通りの姿が見えてる。何も問題はないと思うんだけど。
「……あー、これ、駄目なやつですね」
関島さんが笑いながら言う。何が駄目なのかはわからない。
□
由々しき事態だった。民間人だけではなく、取締課の人間も、哲学人のプロである研究員も、既に何らかの認識阻害と精神汚染を受けている。
周りへの注意が低下する、または認識してもそれを大したことではないと思い込む認識阻害と、下らないことで言い争いをしたくなるという精神汚染だ。その他の影響もあるかもしれないが、今のところ、客観的な情報から感知できるものはこれだけだった。
そしてこれは、この付近に潜伏している哲学人の能力予想と合致している。
今回、関島達が出動したのは、『フクロウを連れている異様な子供』の目撃証言についての調査のためだ。
事の始まりは、駅前で発生した些細な小競り合いだった。二人の女性による、アイドルグループの誰が好きか、などという理由から始まった言い争いは瞬く間に伝播し、十数人の男女による罵り合いと暴動に繋がった。止めに来た警察官すら便乗してしまい、騒ぎは規模を拡大して数十分間続いた。
そして、それは突如終息する。全員が同時に、前触れなく我に返ったためだ。無意味な怒りが治まったとき、その場の全員が、立ち去る子供と、飛び立つフクロウの姿を見た。
それは一目で哲学人とわかるような、異様な姿であったらしい。
しかしその場に居た全員が、その子供が立ち去るまで、哲学人であるなどと思わなかった。立ち去った後になって思い返して初めて、あれは哲学人であり、そして自分達が異常な行動を行っていたのだと気が付いたのだ。
よって、取締課と研究所は、異常を異常として認識させない能力の哲学人が関係すると考えた。例として名が上がったのは『ハインリッヒの法則』と『正常性バイアス』。
しかしそれだけでは暴動自体の説明がつかないため、もう一人、人間に闘争を行わせる哲学人が関わっているとも推測している。心理学における『投影』、社会契約論における『自然状態』等の。
それなりの推理と対策を練って、正体を確かめるために目撃現場に乗り込み、そして今に至る。
関島は、今唯一動ける取締課の人間として、駅前のベンチに座っている何の変哲もない子供と何の変哲もないフクロウに声をかけることにした。皮膚や目や体のパーツを多種多様な人物から少しずつ得て繋ぎ合わせて作られたような子供と、オリーブの葉を飾りとして身に付けているフクロウだ。
「すみません、お時間いいですか?」
訊ねると、子供は快く頷いた。
「今、哲学人と思われる実体の調査をしているんです。どうやら、子供とフクロウの組み合わせのようで。なにか知りませんか?」
子供は驚いたように目を丸くしたあと、にやりと笑った。
「よく気付いたな?」
その声は、子供には不釣り合いに低く、しかし女性とも男性とも聞き取れるものだった。
少なくとも、外見とはそぐわない。しかし子供は年相応の笑みに切り替えて話し始める。
「俺に気付けるなんて凄いんだぞ! 褒美に俺のフクロウの羽をやろう!」
「それはいりません」
「フクロウの羽はもふもふさらさらなんだぞ! 羽一本でも癒される!」
「いりません」
関島は動物に興味がない。抜けた羽は不衛生だとすら思う。そもそも貰ったところで置き場がないだろう。彼の自宅は物が少ないが、全てのものは所定の位置に配置されており、新たな小物を容れるための場所は無い。
子供は傍らのフクロウを撫でながら訊ねた。
「で、お前は何故俺を認識できた?」
「俺は俺を客観視できるので。子供が居るということはわかります」
「客観視! それで俺が哲学人と思えるならば本当に凄い!」
「いいえ、思えていません。貴方はどう見ても哲学人としか思えない異様な姿の、人間の子供であると、俺は認識していますよ」
関島は言う。そして更になにか言うつもりのように、ええと、と言葉を繋げた。
本来なら、これ以上の言葉によって初対面の子供に情報を与える必要はない。彼が一切の抵抗手段を持っていない、精神汚染の影響であろうとも、関島の認識能力についての話題が論争に繋がるようなことはないだろう。よって、彼が今から言おうとしていることはただ徒に個人の内面的な情報を漏洩するに相違ない。本来ならば避けるべき行為である。
しかし、彼は余計なことを言った。
「俺はそう認識しているのだと、認識していますよ」
「……は。はははは! 客観視! 『客観』! 外側に居るのかお前! 面白い!」
子供はベンチから立つ。立ってもなお遠く見上げる高さにある関島の顔をじっと見上げる。
「哲学人なのか?」
「いいえ。違います」
「誰にやられた?」
「何のことかわかりませんね」
「ふむ、そうか。しかし、それは」
子供は目を細めて、慈しむかのように、ひたすらに優しい声色で。
「辛いな」
その一言は、彼の心を乱すのに充分だった。
故に彼は子供に向けて、苛立ちの篭った物言いをせざるを得なくなった。
「哀れまないでください。俺には何も届かないんですから、意味がない」
「哀れみは相手の為じゃなくって、自分のためにやるものだぞ!」
「いいえ。相手の悲しみを分かち合うためにあります」
「分かち合うなんてことはない! 増えるだけだ。新たな感情を生むんだぞ!」
「いいえ。悲しみは減らして、小さくするものです。その為に声をかける」
「自分以外の心は体験できない。だから存在するかわからないんだぞ!」
「いいえ、存在します」
「証拠は無……」
「でなければ俺は、存在しません」
彼は非常に感情的に、そう語った。子供の言葉を遮ってまで。これは論争と言うには稚拙だが、確かに言い争いの始まりだった。くだらないことで喧嘩を始めた同業と同じである。
子供は言った。
「ゲームをしようか、客観視の人」
急な話題に、関島は警戒を露にする。子供はそれを気に止めず、彼に向かって指を突き出した。
「名前当てゲームだ! 哲学知識くらいあるだろう? 正解したら望みを叶えてやろう!」
名前当てゲーム。望み。
哲学人からのこういった提案は珍しくはない。関島は哲学知識を一般的な範囲で知っている身であり、無謀な挑戦ではない。
しかし彼が参加を表明するより先に、子供は一方的に言った。
「『俺の哲学人名』を当ててみせろ。俺はその地で待っている。さあ、【ミネルヴァのフクロウ】よ! 効果範囲広めで頼むんだぞ!」
フクロウが翼を広げる。関島は咄嗟に手を伸ばし、子供を確保しようと動いたが、その手は空を切るだけだった。そして、翼が起こす風圧に思わず目を瞑る。
次に目を開けたとき、足跡一つ残さず、子供は姿を消してしまっていた。
「……さて」
考えなければならない。名前当てゲームについて。
哲学人は、自身の名前や役割を人に伝えることを好む。また、それらを人に考えさせることを好む。学問の具現化である故の本能だ。
しかし何の変哲もない子供にこの法則は当てはまらない。よって哲学人の本能についての考察は今不要である。故に、ただ言葉通りに受け取って、ただの人間の隠された『哲学人名』について考える必要がある。
矛盾だ。しかし関島はその矛盾に気が付いていない。正確には、その矛盾に気が付いていないと認識している。
当初、取締課と研究所が出した見解は『投影』と『自然状態』だった。どちらも言い争いを引き起こすには充分な概念だ。そのどちらかである可能性はある。
しかしあれはただの子供だと認識している故に、やはりこの考察は全て無意味だ。
このままでは、どうしても考察は進展しないだろう。矛盾を解消する新たな視点を得なければ。
『その地で待っている』と言ったのだから、地名、または店名にその名があると推測が可能だ。哲学用語を使用した店名はあり得ないものではない。それらを総当たりする方法が最も合理的と言える。
関島は商店街の地図に目を向けた。
有名なチェーン店や、個人店、様々な名前がそこには書かれていた。
本屋『投影書店』、雑貨屋『アウフヘーベン』、居酒屋『ロジウラ』、呉服屋『蜂乃屋』、定食屋『ミネルヴァの樹』、文具店『はざま』、喫茶『宛名無し珈琲』……等々。ここから哲学用語を探す。
しかしあれはただの子供だと認識している故に、哲学用語を選出する根拠がない。関島は全く手掛かりのない状態から子供を探さなければならないのと同様だった。
より前提から指摘するなら、ただの子供を追いかけて確保する理由も関島には無い。そうであるから、彼は動けない。
あれを確保するべき対象であると認識することが必要になる。あれが哲学人であると認識し直すか、その他の理由を作り出すべきだろう。
「あー! 取締課ァ!」
声がかけられた。
溌剌とした若者の声は、初めて聞くものではない。
見れば、関島にハンドカメラのレンズを向けつつ、片手を振る姿がある。許可なく録画されているようだ。しかしこれを盗撮とは呼べない。
「こーんにーちはー! 兼子でーす! 呈する恵智の会! 新人教育係やってる兼子洋でーす! 何回か会ったよねやりあったよねってか助けたよね結構な回数!」
威勢のいい自己紹介が行われた。
周りの視線が集まる。関島は苦笑いしながら、要注意人物である兼子に近付いた。顔に大きな古傷を持つ若者は、一切の警戒心を見せずに関島を招いている。
兼子の隣にはもう一人、こちらも初対面ではない男がいる。
関島は自己紹介を返す。
「これはどうもご丁寧に。取締課の関島です」
「関島さんね。オッケー覚えたバッチシ! あっこれ記録も取ってるけど個人用だから気にしないでねーお家帰ったらほとんど削除するんで! ちょーっと趣味と実益と体質の都合を兼ね備えたカメラなんだよねこれ気を悪くしないでねー」
兼子は捲し立てるように話す。一度に次々と放たれる言葉を受けながら、タイミングを見計らい、ゆっくりと関島は言う。
「あの……俺は、警察の一員なので。一応貴方とは敵対している立場にあるんですが。わかってます?」
「うんうんわかってるわかってる! でもなんか単独行動っぽいし咄嗟に逃げれるし! ってか僕らが前妨害した証拠とかなくない? ってことは証拠不十分で解放じゃない?」
「兼子さん、貴方は指名手配されてます」
「えっ僕有名人? ひゅー! 照れちゃうねー!」
「ええ。ですので捕まえてしまえるんです」
困惑を露にする関島の前で、兼子は嬉しそうに笑って隣の男性に飛び付く。
男性は冷静な態度で関島に言った。
「お仕事中じゃないんすか? こいつに構ってていいんです?」
「良くないですけど、放置していいものでもなくてですね……」
「今日は俺達オフなんで、なにもしないっすよ」
「TK会ってお仕事なんですか」
「俺と兼子さんは仕事でやってるっすね。一般会員はサークル活動のノリっすけど」
「そうなんですか。退職した方がいいかと」
「いやー、金銭的に……」
日常的な雑談が始まりかけたところに、兼子が割り込んだ。
「で? 取締課さんが来てるってことはぁ?」
カメラが関島に押し付けられる。
関島は、情報を集めなければならない。出来るならば、哲学人を捜索し、確保するための理由を必要としている。最終目標は異なるが、同じく哲学人の確保を目指すTK会ならばその為の足掛かりになる可能性がある。
最悪の事態としてだが、TK会が確保した哲学人を横取りするのも一つの方法だ。指名手配犯が民間人を襲っていた場合、保護するべきなのだから。
関島は答えた。
「仕事なのですが、まだ哲学人を見付けられてはいません。貴殿方は?」
「いやー僕らまだお会いしてませんねー! この辺りに哲学人様がいらっしゃるってお話も聞いてないですし僕らはマジプライベートで遊んでただけなんだよねー! ってことは早い者勝ちってことでオーケー?」
兼子はそう言うと、関島の反応を待たずに、隣の男の手を掴んで駆け出す。
「哲学人様ぁー! 待っててくださいねー!」
「俺今日非番なのに」
「信仰心に休み無し!」
これで、彼らも哲学人捜索に参加するだろう。
関島もまた、彼らとは別方向に足を進めた。
関島は職務中であり、あの哲学人ではないと認識している子供のゲームに参加する道理はない。よって、子供の名前について考えることは無意味であり、行わない。
しかし同業が職務続行不可能になっている今、パトロールをすることは間違いではない。その結果、あの子供と再会する可能性はあった。
駅前から商店街へと歩を進める。
「遊ばれているな! 手を貸そう!」
関島の耳に、突然の声が届いた。
頭上からだ。彼はそれに驚きの表情を浮かべながら、空を仰ぐ。
空気中に泡が浮かんでいる。
そうとしか表現できない現象が起きていた。空気中に、視界を覆うほどの水泡が現れ、そして次々に破裂し消えたのだ。
泡が消えたとき、そこにいたのは若い男だった。四肢や顔が、ひっきりなしに泡となって消えては現れを繰り返すという異様な点さえ除けば、人間と違いはない。
それを関島は、彼を、ただの人間と認識した。
「ええと、手助けですか? ありがたいですが、何故」
「疑問は最もだ。本来ならば僕は、迷いある人間に決断を促すためにある。迷いなきお前に手を貸す義理は無い」
彼は空中に浮いたまま、大袈裟な仕草で腕を広げる。
「しかし、あいつとの喧嘩に僕が参加せんという道はない!」
非常に目立つが、辺りを行き交う人々は彼に一瞥も与えなかった。
関島は訊ねる。
「お名前を窺っても?」
「ヴィクトルだ。哲学人名は【あれかこれか】という」
またしても哲学人名というものを持った人間であるという矛盾をそのままに、関島は受け入れた。
『あれかこれか』とは、有名な哲学者、キルケゴールの書いた本の一つである。人生において行われる取捨選択、決断、人間個人の信念や真理等についての書物であると関島は認識している。ヴィクトルという名と書物との関係性は関島の知識ではわからないことだが、彼がただの人間であるのならば関係性が無いのも当然である。
彼は続ける。
「安心しろ。僕がお前に影響を与えられる能力はテレポートのみだ。それで、如何なる無理難題を吹っ掛けられた?」
「名を当てろと言われまして。そして、その地で待っているとも」
「では、僕から見たあいつについて教えよう。奴は僕の敵だ。『あれかこれか』の選択から一つを選ぶのが僕である……しかし奴は選ばない」
敵、という強い言葉を用いるヴィクトルの表情は険しい。
「奴は『あれもこれも』と欲張る。選択ではなく全てを手に入れる。全てを手に入れた上で高みを目指す! それは人間には不可能だ。全知全能の神の所業だ! 許されざる横暴だ! 人ならざるそれを人に押し付けるというのは、僕の真逆の哲学に当たる」
呪詛に近いほどの憎しみを込めて語ったあと、彼は訊ねる。
「さて。これで答えはわかったか?」
関島は答える。
「わかりませんね」
彼の話は『あれかこれか』の思想と子供は反対であるということでしかない。哲学的に反対概念だとするならば、哲学史の知識が必要となるだろう。関島にその知識はない。また、彼らは哲学人ではないのだから哲学史から紐解くという発想が現れるはずもない。
よって、わかるわけがない。
ヴィクトルは肩を竦めた。
「お前、あいつが哲学人であると認識できているのか?」
「いいえ。俺はあの子がどう見ても哲学人としか思えない容姿をしている人間であると認識しています」
「僕のことは?」
「どう見ても哲学人な人間ですね」
「矛盾していると思わんか」
「とても思います」
「なるほど、矛盾の解消をせねばならん」
「はい。その為に、頷いていただきたいことがあるんですけど良いですか?」
「何だ」
「貴方は俺に、迷子の子供を探す手伝いをしてほしい、ですよね?」
これは最も簡単な解決策だった。これに頷かれさえすればそれで全て、行動に理由が生まれるのだ。
ヴィクトルは怪訝な顔をして関島を見る。
「何だそれは」
「俺がただの子供を探す理由がどこにもないんですよ。しかし一応、警察署所属の人間ですから、善良な市民の依頼による捜索は行えます」
「マニュアル通りにしか動けんロボットか?」
「うっわそれめちゃくちゃ傷付きました。結構気にしてるんで二度と言わないでください」
関島はあくまでも柔和な態度で伝えた。ヴィクトルはそれを鼻で笑い、こう言う。
「平然と話す度胸は認められていい」
そして続けた。
「だが僕は嘘を好まない。よって、如何なる理由でもそのような嘘は吐かない」
「俺の手伝いをしてくれるというのは嘘でした?」
「う……それは、嘘じゃない。しかし手伝うために嘘を吐くのは好まん」
「本気である必要はありません。頷くだけで充分です」
「……しかし。しかしなぁ……」
彼は眉間に指を当て、暫く悩んだのち、その指を関島の前で立てた。
「よし、こうしよう。僕からもゲームを提案する。あいつと違って一瞬で終わる簡単なものだ」
哲学人は、自分の哲学を人間に伝えようとする。ただ頭ごなしに言葉として伝えるよりも、自発的に、もしくはより体感的に伝えることを好む。ゲームというシステムは、自発性を促すためかよく好まれる。
勿論、ただの人間である彼にこの法則を当てはめるのは、無意味である。
関島は言った。
「貴方達は、本当にゲームが好きですね」
「哲学の始まりは余暇にあるのだ。敬愛すべきソクラテスを学ぶといい!」
嬉々としてヴィクトルは言うと、手を伸ばし。
触れた。
「さあ、選べ」
関島は空中に居た。
ヴィクトルが彼の腕に触れた瞬間、雲を眼下に見るような空中に転移したのだ。瞬間的に薄くなった空気、低い気圧、温度に、人間の体は耐えられるものではない。常識に当てはめるなら意識を失っているはずだ。
しかし関島は無事だった。理由は不明である。風の冷たさに凍えはするが、意識があるままに頭から落下している。目や粘膜の乾燥も、予想されるものよりずっと軽い。
異常事態だ。
「僕を憎むか? 手を掴むか?」
その声は、落下中の関島にはっきりと聞こえた。
彼は関島よりも下方で宙に浮かんでいる。落下の途中ですれ違うだろう。彼の泡となって消えて現れてを繰り返す腕は差し伸べられている。
あれを掴めば、地面に衝突することはない。
しかし関島を空中に放り出し危機に晒したのは紛れもない彼であり、泡となる腕を信頼できはしない。
だが掴まなければ確実に死ぬが、掴めば助かる可能性があるのだから、選ぶべき選択は決まっている。
と、考えることが可能であるが。
定義の不良。
彼は哲学人ではない。
再思考しなければならない。
つまり憎む選択肢は不適切。手を掴む選択も無意味。この状況の原因を彼であると認識することは不可能であり、この状況を打破する方法を彼が持つと認識することも不可能。何よりも今、関島は選択は主体的でなければならないと認識していた。
よって。
「答えられません」
彼はどちらも選べない。
落下する体が、ヴィクトルの手によって掴まれ、引き留められた。
腕一本で宙吊りになったが、関島の体に損傷はない。負荷もほとんどかかっていない。ヴィクトルが浮遊しているのと同じ原理が関島にも作用しているようだった。
ヴィクトルが言う。
「お前はなにも考えなかったのか?」
「いいえ。俺は俺の認識した材料から思考し、貴方は哲学人ではないためにこの状況の原因ではないと結論付けましたよ」
「お前には恐怖が無いのか?」
「いいえ。俺は俺が恐ろしいと感じていることを認識していますよ」
「お前には精神が無いのか?」
「いいえ。俺は俺に精神があるように認識していますよ」
「お前はお前の認識を正すつもりはないのか?」
関島は答えようとした。が、一度言葉が詰まり、はぁ、とため息を溢す。
そして、落胆したように言った。
「これを含めて、俺なんです」
「ああもう……どうなっているんだお前は……」
彼は引っ張り上げられ、目線が同じ高さになる。腕は掴まれたままだ。
「確認させろ。お前はどこに居る」
「俺はここにいますが」
彼は空中にいる。ヴィクトルは真剣な眼差しで更に問う。
「その心はどこにある。どこからお前はお前を動かしている」
「俺の心は」
彼の『我』は。
「主観の外に居ます」
主観の外に居る。
「理解した」
再び、関島達は地上に現れた。地に足が付くと同時に腕は離され、ヴィクトルは関島を睨んでいる。
「盲点だ。僕は主体的真理を見る故に、お前を理解できん。如何なる手段を用いればこのような人間が……ああ、もう、なんだよ。大体、これ、僕の対象外じゃないか……何だってあいつこんなの、どうやって見付けたんだよ……」
睨む眼差しは次第に弱々しいものに変わり、彼の口調も声色も、古めかしく仰々しいものから、気弱な青年のものに変化していく。
彼は頭を抱え、深くため息を吐いた。そして、言った。
「主体がないものに主体を押し付けるのは、人間に神を真似ろと言うに等しい。故に……わかったよ、無理を言った僕が悪いよ、ごめん」
拗ねたような声色だった。
そのまま、納得していないであろう態度で彼は続ける。
「僕はあの子供を捜索するよう、お前に依頼する。これで問題はあるまい」
「ありがとうございます」
関島は、ようやくあの子供を探す理由を手に入れた。
たったそれだけのことに、多大な労力を消費した。時間も長く経っている。関島は善は急げとばかりに歩き出した。
「それじゃ、お店全部回りましょうか」
「待てそれはずるい! 却下だ却下! 謎解きを行うことはお前でも出来るだろう!」
「ではまずこちらのイデア堂から調べます」
「信じられない! お前は『あれもこれも』派閥の人間だ! あいつに好かれて当然だろうよ! 嘆かわしい!」
癇癪を起こすヴィクトルを無視して、関島は捜索を始めていた。
□
雑貨屋『アウフヘーベン』。手作りの小物を売っている小さな店だ。関島はこの店の看板を見付けると、すぐに扉を開けた。
軽快な店内音楽が耳に届く。窮屈な店内は一目で見渡せた。そこに、不釣り合いだが違和感の無い、子供とフクロウの姿を見付けて声をかける。
「見付けましたよ、アウフヘーベンさん?」
「……ははっ」
子供は驚いたように関島を見た。
「正解! 大正解! それは俺の行いを見た者が付けた名だ。お陰さまで灰の瞳も失ったんだぞ! はははははは!」
大笑いしながら、嬉しくてたまらない時のように飛び跳ねる。その目は左右で異なっており、黒と緑だ。
品物の多く飾られた雑貨屋で暴れられるわけにはいかない。関島は子供を確保するべく近付く。子供は怯まず、関島の胸に飛び込んだ。
子供が親にするように、胸に抱き付き、甘えたように関島を見上げる。
「これは疑問だ! 疑問と布石だ。 ミルクとコーヒーが混ざったものは何だ?」
「カフェオレですね」
「そうだ。ああそうだ! 故にそれはミルクでもコーヒーでもない。ではミルクとコーヒーはどこに行った?」
「カフェオレの中に」
「その通り! では次は、ミルクの名を当ててもらおう」
子供の背後で、フクロウが翼を広げた。
「第二問! 『俺の人間名は何か』! 今度もその名の地で待っているぞ!」
羽音が耳に届く。翼が視界を埋め尽くす。
逃さないために、関島は自身に抱き付いている子供を抱き締め返した。しかしそこにあったはずの質量はない。
気が付いたときには、子供の姿は消えていた。
「どっち付かずだな」
店を出ると同時にヴィクトルが言った。
彼はあの子供の言動の意味するところを知っているようだ。呆れたような表情をしている。
「僕がヴィクトルと名乗るように、あいつにも哲学人名とは異なる名がある」
「そうですね」
「人生は選択だ! しかしあいつは我が儘を言って、【アウフヘーベン】と『元の名』の両方を得ようとしている。もしくは、二つを融合させた、両方を表す言葉を作ろうとしている。成功していないがな」
「そうですか」
ただの人間には相応しくない情報を受け取って、関島は言う。
「不安なんでしょうね」
ヴィクトルは訝しげに関島の顔を覗き込み、言った。
「お前はよくわからんやつだな」
「俺にも俺がわかりません」
「だろうな。自己を知るのは自己自身以外にない。そしてお前に自己は無い。にも拘らず、お前は他人の心を気にかける。そこの意味がわからん」
関島は答えかねて、笑みで誤魔化した。
ヴィクトルは不満げに腕を組む。
「何故そうなったか知らんが、哀れみを向ける価値もない。お前は物と等しい」
「うわ。それかなり傷付くからもう言わないでください」
「傷付く心がそこには無いのだろう」
「客観的に悪口と判断される言葉は届きます」
「ちくわ大明神」
「……すまん」
「誰ですか今の」
ヴィクトルと関島の会話の間に、『ちくわ大明神』という謎の言葉を挟んだ存在があった。
明らかな乱入者に、関島は声の主を探す。それは彼とヴィクトルの足元にあった。
茶色い紐状のものが足元に落ちている。植物を掘り返して引き出したような、木の根だ。
その根は風などに左右されず蠢き、起き上がり、そして人の形になった。
「やあ人魚姫。それと客観の人。楽しそうだね、私も混ざって良いかい?」
成人女性を模した形で安定したそれは、友好的に関島へ話しかける。『客観の人』とは関島のことだろう。ならば自動的に『人魚姫』はヴィクトルのことになる。なお、彼はどう見ても男性である。
その女性のような植物は言う。
「さて、君はとても規則を重んじる方のようだ。故に、今は哲学人が認識できない状況ではあるけれど、私は真の名である【ノマド】と名乗ろう」
言って、関島の手を取って上下に振った。
「根しかないのに根なし草ってね! よろしく!」
その手は人の形をしてはいるが、細かい草の根が絡まり合って作られている。
どう見ても植物であり、人型であるのだから哲学人であると推測できる風貌でありながら、そこに居るのはただの人間と認識される存在だ。よって彼女は人間である。
関島は彼女の名乗った『ノマド』について知っていた。特定のオフィスを持たず、自宅やカフェなどで仕事を行う人間を『ノマドワーカー』と言う。根なし草とは、特定の場所にこだわることのない生き様を表す。彼女の性質は以上のものだろう。
しかし彼女は人間なのだから、名乗った以上ただの記号である。この考え方は不適切だ。
「関島です。どうも」
関島は友好的に名乗り返し、そして言った。
「また何か、ゲームに参加させられるんですか?」
「まさか! 私は既にあるゲームを進展させる追い風に過ぎない! 自ら何かを生むことはないよ」
彼女は突然のクイズや、空中に放り出しての選択などといった真似はしないらしい。
ヴィクトルが言う。
「【アウフヘーベン】の名を当てなければならん。お前からも助言をせよ、【ノマド】」
「答え言っちゃ駄目かい?」
「それはゲームを壊す。却下だ」
「言うと思った。では君の流儀に従おう。君の誠実は尊重されて然るべきだからね」
ノマドは恭しくヴィクトルに言ったあと、関島に向き直る。
「知恵とフクロウとオリーブの葉に関係する、女神の名を知ってるかい?」
「わかりませんね……」
「ではもう一つヒント。【アウフヘーベン】の名付け親は哲学者ヘーゲル。彼が言及したことのあるフクロウといえば?」
「うーん、ヘーゲルは知っているんですが」
名のヒントであるらしいが、関島の知識ではわからない。よって、彼はスマートフォンを取り出した。
「検索しちゃいますか」
「文明の利器は素晴らしいね」
ノマドが称賛する後ろで、ヴィクトルは「答えを言ったようなものじゃないか」と不満を漏らしている。関島はそれを無視してインターネットで検索を始める。
『知恵』『フクロウ』『オリーブ』『女神』の四つの言葉を入力しながら、彼は呟いた。
「……知人なら、すぐに答えられたと思いますよ」
共にやって来た同業のうち、馬場は神話に明るく、只野は哲学人研究者だ。彼らは間違いなく、その両方のヒントを活かせるだろう。
しかし彼らは今、頼っていい状態ではない。
「友人かい? 哲学好きなのかな」
「研究者と取締課職員です」
「なるほどプロだ。その方達の力は借りないのかい?」
「いえ、今は無理です」
「何かあった?」
「駅前で、目玉焼きに何をかけるかで論争中なんです」
「あー……なるほどね」
彼らは精神汚染と認識災害の二つを受けている。ノマドはそれらについて知っているようで、納得した様子で数回頷き、ヴィクトルに向かった。
「そっち行く?」
「僕はこちらの味方をすると決めた。決めたからには彼に同行するからな、【ノマド】」
「君なら止められるだろうに、【あれかこれか】」
「反対か?」
「まさか。私はあらゆる意見に同意する。君の誠実は素晴らしいし、ここで彼を見放すような不義理は私も許しがたい」
「しかし論争を止めるという行為は彼の手伝いにはなるぞ」
「当然、私はその選択も尊重する。合理的であるし、争いを止めることは善だ。しかし今は善よりも義、君の選んだ道に染まろう」
「自分の意見がないのかお前は」
「今更! そんなもの私にあるわけない!」
ノマドとヴィクトルの話を聞きながら、関島は神話系の情報サイトを読み込む。答えはすぐに見付かった。
ローマ神話の『ミネルヴァ』。
「よー、そこの取締課さん。今時間、いーい?」
声がかけられた。
バイクを押して歩く、フルフェイスのヘルメットを被る男が、近くの路地から呼んでいた。顔は見えないが、そのヘルメットとバイクは関島にとって見覚えのあるものだ。
反哲学人組織『Bee School』の構成員である。関島と彼の接点は、仕事中に幾度も邪魔をされた、という点のみだ。お互いに名前さえ知らない。当然、気さくに声をかけられるような間柄ではない。
関島は温厚な物腰で答えた。
「逮捕してほしい、ということですか?」
「ちげーよ」
「危機感無さすぎません?」
「だって今、お前一人っしょ? バイクあるし平気」
関島の近くにはヴィクトルとノマドが近くにいるが、同行者として見られていないのだろう。
TK会の人員からも平然と声をかけられた辺り、脅威とは見なされていないのだとも考えられる。関島は自嘲しながらも、それ以上は黙っていた。
「アンタのお仲間さん、駅前で何やってんの?」
「ああ、まだ言い争ってました?」
「おうよ。あれなに?」
「目玉焼きに何をかけるか論争です」
「は?」
顔は見えないが、ヘルメットの男は驚いたらしい。
「え、なに、何でそんなことなってるわけ」
「さあ?」
「取っ組み合いの喧嘩してたんだけど?」
「わあ」
「哲学人いんの?」
「俺は見付けてませんね」
どう見ても人間離れした容姿の人間を三人ほど見付けてはいるが、哲学人を見かけた覚えはないと関島は認識している。背後で話しているヴィクトルとノマドはどう見ても人間ではないが人間だと認識している。
ヘルメットの男も同様に、彼等のことを哲学人であるとは思っていない。
「んー、ってか、あの馬場千徳がそう簡単に影響受けんの……」
「よくあることです」
「マジ? イメージ変わったわ」
「それに、彼は普段から交渉担当ですよ」
「カナリアじゃん」
「そうですね」
「酷いねぇ、取締課」
「そんな酷いところを信用できないね」
女性の声が割り込んだ。ノマドだ。
彼女はいつの間にかヘルメットの男の傍らに立って、明るい笑顔を浮かべている。
「大切にすべき家族を、そんなところに置いておけないね」
「な……」
笑顔で放たれた言葉に、ヘルメットの男は動揺したようだった。後退ってノマドから距離を取り、バイクが倒れそうになって支え直す。その手に手を重ねて、ノマドは更に続けた。
「君の『価値観』はとても素敵だ! 興味深い。それにとっても珍しい。もっと私に見せてくれないかい?」
「なんだよ、お前……」
「『殺し』を賛美されるものと認識する人は、時代に淘汰されてしまった! 生活により矯正されてしまうものなんだよ。価値観の植え付けによって。けれど君にはたった一欠片の罪悪感すら存在しない! どんな生活をしたらそう育つ? どんな環境で生きればそんなに真っ直ぐに『殺し』を愛せるんだい?」
ノマドは男に身を寄せ、顔を近付ける。片手で彼の胸に触れる。
「ああ、君は愛されているのか」
ノマドの言葉は、打撃音で途切れた。
ヘルメットの男が顔面を殴り付けたためだ。ふらついたノマドはその場に尻餅をつく。
目の前で起きた暴行に対し、関島は対処しなければならない。「落ち着いてください」と声をかけ、ノマドと男の間に割り込もうとする。
しかし男は関島が止めるよりも早く動いた。バイクのフットスペースに吊り下げてあるバールを掴んで、関島を押し退け、ノマドに振りかぶる。振り下ろす。
バイクが倒れる。それに一切構わず、ヘルメットの男は鉄の棒をノマドに叩きつけた。
何度も。
辺りから悲鳴が上がった。通行人が立ち止まり、ざわめく。
関島は男を突き飛ばし、暴行を止める。突き飛ばされた男は路地に転がったがすぐに体勢を整え起き上がった。
「……っ、じゃあな!」
そしてバイクを置いたまま、人々の間を逃げ去った。
追いかけようとしてたたらを踏んだ後、関島は倒れたままのノマドの傍らにしゃがむ。
彼女は傷だらけになっていたが。
「私が人間だったら死んでたね!」
平然と起き上がった。関島は驚きはしなかった。
彼女が撲殺されるはずがないだろうと確信していたためだ。どう見ても植物の根っこの集合体で作り上げた人形なのだから、多少傷付いたところで補修は簡単だろう。しかし彼女は人間であると認識している故に、この確信は非合理的である。
つまり、死ぬわけがないと確信しながら、金属の棒で殴打されれば死んでしまうと認識しなければならなかった。
関島は額に手を当て、これ見よがしにため息を吐く。ノマドはクスクスと笑った。
「君にはしないよ。君は自分自身の価値観について、充分理解している。私があんな風に語るのは、自分自身を知らない人だけさ」
「そうですか」
「クイズの答えはわかったかい?」
「ああ……はい、わかりましたよ」
検索結果を表示したままのスマートフォンをポケットから取り出し、関島は彼女の前で掲げた。
「『ミネルヴァ』で合ってます?」
「答え合わせは、【アウフヘーベン】の前でやろう。一応ね」
彼女が立ち上がる。関島もそれを追い、辺りを見回した。人の流れは元通りになっていた。
何名かの正義感溢れる人物が、ヘルメットの男を追っていたことを視界に入れていたが、今更追えはしない。
ノマドが言う。
「ところで助けてくれなかったね、人魚姫?」
「手出しできるか、あんなもの」
ヴィクトルは関島達から距離を取った位置にいた。どこかのタイミングで逃げたのだろう。
ノマドは呆れたような目で彼を見る。
「君だってあの程度じゃ死なないだろうに」
「お前と違って僕は痛覚があるんだ」
「はは。そうでした」
ヴィクトルは舌打ちの後、尊大な態度で関島を見下した。
「まったく。まともに謎解きをせん上に、面倒事まで呼びおって」
「え、さっきの俺のせいなんですか?」
「他に誰が居る」
「ノマドさん」
「……確かに」
彼は簡単に認め、引き下がった。
彼は不平不満を多く口にするが、根は素直らしい。むしろ素直すぎる故に口煩くしていると考えられる。
その仮定から、関島は言う。
「そういえば、『ミネルヴァのフクロウ』って呼んでましたね、ペットのこと。ならその飼い主の名前は、所有格に表されているんですから、わかりますね」
この言葉を聞いて、ヴィクトルは驚いたように目を見開き、そして、拗ねたように顔を逸らした。
「……その通りだ。それなら良い」
「紛れもなく推理だもんね」
□
定食屋『ミネルヴァの樹』の前。肩にフクロウを乗せて、店の前に立つ子供を見付けて、関島は声をかけた。
「ミネルヴァさん」
子供は関島を見付けると、パッと笑顔に変わる。
「よくわかったな! 後ろの二人の入れ知恵か?」
「【ミネルヴァのフクロウ】を連れていて、それを『俺のフクロウ』と呼んでましたね? では、貴方はミネルヴァさんです」
「あっ」
気付いていなかったらしい。子供は驚いた後、照れ隠しのように笑う。
「あはははは! そうだ! そうだった……アリストテレスの三段論法か。ああ、油断だこれは。正解なんだぞ、客観の人!」
そして、すぐに話題を切り替えた。
「では次の問題! 『俺は何だ?』」
「まだ続けるんですか?」
「そうだ! 続けよう、客観の人! 議論をするんだぞ。論争をするんだぞ!」
「それなら、俺からも質問良いですか?」
「勿論なんだぞ!」
関島は訊ねた。
「言い争って、喧嘩になって、そしてどうなるんでしょうか。貴方の目的は?」
「真理に触れることだ」
子供は答えた。
「真理に到達すること、でもある。哲学はその為にあるし、俺は哲学人だからな」
「それで? 具体的にはどのように真理に辿り着くんですか」
「争って、解決すればいい。争って、二人とも納得するものを作り出せばいい」
「妥協が真理であると?」
「……違う」
子供は首を振る。その表情は真剣そのもので、年齢にはまったく似つかわしくない神妙なものだ。
「椅子が一つしかなくて取り合いになったなら、二人で座れる椅子を作ればいい。それが俺の望みだ」
「けれど皆、争ったまま解決せずに、ただお互いを否定するばかりになっていませんか?」
「うん。そうだ。そうなんだ。そしてそれが俺になってしまっているんだ」
子供は俯く。
「俺はとっても悲しいぞ。屁理屈で歪められてしまった今のことが。俺は元々、もっと、ずっと素晴らしいものだと思われていたのに、それなのに」
哲学人は哲学から生まれる。哲学は長い歴史の間に再解釈を繰り返され、時には元の意味から離れる。時には大衆に意味が流出し、誤解され、誤った用法が主流になる。
ただの人間には関係の無いことだ。しかし。
「今の俺は元の哲学とは離れていないか? 元の俺とは何か? 俺の意思はどれか? 色んな『良いもの』をかき集めてそれらを組み合わせて継ぎ接ぎだらけになって進化したはずなのに、どうして俺はこんなに間違っていると言われるんだ? どうして俺の外見は人間から離れていくんだ? 俺個人の意思は真理のために希釈されたか?」
この沢山の疑問に対して、非常に穏やかな態度で、関島は言う。
「お辛いですね」
『アウフヘーベン』、もしくはミネルヴァは、顔を上げて、背の高い彼を見上げた。左右非対称な顔の、色も大きさも違う目が驚きに見開かれている。そして、すぐさま笑みによって細められた。
「何だ、仕返しか?」
「俺の言葉は貴方の『主観』に届くでしょう。俺は悲しみを受け取れませんが、貴方は分け合った気分になれるでしょう」
「お前の視点から見て、俺に主観があるとは言い切れないはずなんだぞ。何故ならもしかしたら俺は、相手に合わせて反射で動くゾンビかもしれない!」
「いいえ。俺は貴方に主観があると信じます。『他我』の存在を信じます。だって俺こそが、【他我】なんですから」
「俺にもし自我があったとしても、お前が俺のために言葉をかける理由はない!」
「俺に『自我』は無いんですよ」
関島は優しく言った。
「だから、『俺のため』なんて無いんですよ」
子供は口を閉ざした。言葉を理解するのに時間がかかっているようで、数度瞬きをする。その後に、吹き出して笑った。
「お前は優しい奴なんだな!」
「はは。よく言われます」
「皮肉なんだぞ!」
「それもよく言われます」
冗談めかして言うと、子供はそれを気に入ったらしい。また嬉しそうに笑う。
ひとしきり笑った後に、言った。
「結局お前も、お前の哲学を貫いただけだ。俺も俺の哲学を貫きたいと思っているだけだ! 俺達は互いに、お互いの意見をぶつけて答えを見付けた。『哀れみは感情を己の中に産むのではなく、相手と己で二つに分けるのではなく、相手から減らすため』のものとなった!」
満足だ、と子供は続ける。満足だ、ともう一度噛み締めるように言って、子供は関島へと手を伸ばした。
「では約束だ。望みを」
「付き合ってらんねェ」
子供の言葉に、別の言葉が被さった。
それは肩に乗るフクロウから発せられている。酷く嗄れた、老婆のような声だ。
予想外の現象に驚く関島の前で、フクロウは翼を広げる。そして。
「てめぇが取っ捕まったら、俺が行き場無くなるじゃねーか」
飛び立った。
「『ミネルヴァのフクロウは黄昏に飛び立つ』ってなァ!」
「このタイミングで!? って、待て、待て待て待てそれじゃ……」
途端に、辺りからどよめきが生まれ、そして次々と声が上がった。
「哲学人様だぁー!」
「えっ、あ、哲学人!?」
「哲学人みーっけ! ぶっ殺す!」
「哲学人だ、珍しい」
どれもこれも目の前の子供に向けられた声だ。
関島も今、ようやく状況を理解した。目の前に居るのはその見た目通り、紛れもなく哲学人であり、確保対象であると。
「では僕は逃げる。さらばだ」
同じく、改めて見れば哲学人と認識されるヴィクトルは泡となり消えた。
そしていつの間にやら、今から考えれば哲学人としか思えない人物【ノマド】の姿は既にない。
明らかに不審だったフクロウは遥か彼方に飛んでいってしまい、影も形もない。
そして。
「わああああ! 来るなー!」
一目で哲学人であるとわかる外見の【アウフヘーベン】は、哲学人信奉者と反哲学人組織の人間から追われて走り去った。
追うか否か、関島は考える。しかしあの騒動に単身で突っ込んでも勝ち目がないのは火を見るより明らかだ。確保と身の安全のうち安全を選び、彼は引き返す。
戻った場所にいるのは、同業の馬場と只野だ。それと、始めに言い争いをしていた男二人。それ以外に哲学人の影響下に居た人物は居ないか、正気に戻って立ち去ったようだった。
関島は同業者に話しかける。
「お二人とも、正気に戻りました?」
衣類が乱れ、砂まみれになっている同業者二人は、互いに顔を見合わせ、そして言った。
「戻ってまーす……」
「くだらないことで喧嘩したね……」
丁度、正気に戻って論争を止めたところらしい。
何も知らずにいる二人に、事態を報告しなければならない。しかし関島は肩を竦めて、まずは呆れたように笑って言った。
「……大変だったんですからね?」
「なんかあったか?」
「ええ、哲学人を発見しました。ですが、逃げられた上、TK会とBee Schoolがあとを追いかけて行きました」
「状況最悪ってか。俺らも今から追いかけて間に合いそう?」
馬場からの提案に、関島は首を振る。
「無理でしょうね。追えはしますが、追い付きはしないでしょう」
この回答に、馬場は思案するような表情を見せたが、すぐに納得したようだ。
只野が言った。
「あ、そうだ関島さん。関島さんにも聞きたいことがあるんだけど」
「はい。なんですか」
只野の眼差しは真剣だった。彼女は普段、言動に感情があまり出ないタイプの人間であり、このように比較的真面目な声色は珍しいことだった。
問いはこうだ。
「メープルシロップとハチミツならどっち派?」
彼は答えた。
「どうでもいい派ですね」
主観的にも客観的にも、どうでもいい話だった。