5:【誤解・偏見・思い込み】
『Bee School』とは、最近結成されたアンチ哲学人組織だ。元々あったアンチ哲学人団体を吸収合併していき、一つの巨大組織に発展している、というのが取締課の予想だった。
反哲学人思想教育や、哲学人保護・研究制度への反対運動といった社会的な側面からのアプローチ。武装集団による物理的な哲学人の排除。違法改造を施した抗哲機の流通。バラバラに存在していたそれらを、一纏めにして、組織内で各機能の成果を循環させて発展させているらしい。蜂の名を冠するだけあって、組織内に小さな社会性を生み出している。
哲学人を奪って暴れまわる『呈する恵智の会』とは違って、法的措置を行いにくい団体でもある。哲学人の権利については色々と揉めている最中なんだよね。異常な能力を持って、どこからともなく現れる彼らを、人と同等に扱ったらどうなるか。きっとすぐに、社会的にも人を越えてしまうから。
研究所所属の哲学人は、研究所の所有物として扱えるから、傷付けられたら訴えられる。ただ、そうでない、誰のものにもなってない哲学人達を守る手段は少ない。
何より、哲学人犯罪に嫌悪感を抱く取締課は、『Bee School』の思想と一部分で合致する。
彼らが哲学人確保のタイミングで姿を表すためには、情報を得る必要があるはずだ。その情報源はやっぱり……。
「考え事ですか?」
あっ。
かけられた声に、我に返った。
私は聡盟大学附置哲学人研究所のフィールドワーク担当で、今日は自宅から少し離れた公園に……そしてそこに隣接するカフェに来たんだった。休日、だったっけ。多分そうだ。じゃなきゃここに居ないだろうし。
私の前にはお昼のサンドイッチとコーヒー。
オレンジジュースを持って向かいの席に座るのは、ええと。
緑のスカーフを巻いている、穏やかな表情の彼は、私の友人で……まあ友人じゃないとこんなに気安いわけがないから、それは確実だ。これ以上過去を思い出すまでもなく。
きっと古い友人で、公園で偶然再会して、少し話そうとなって。あんまり古くまで記憶を遡ると嫌なことまで連鎖して持ち出してしまうから、それで思い出すのを止めたんだろう。多分。そうに違いない。
「仕事のこと?」
「まあ、そうだね」
「相変わらず真面目ですね、只野さん」
相変わらずなんて言葉が出るんだから、やっぱり、知り合いだ。
■
私は彼と、他愛のない話をしていた。記憶にも残らないような、振り返ることのないような、他愛のない話を。
「どこの研究所に就職されたんでしたっけ」
「聡盟大付属のとこ。この辺りじゃ、一番規模が大きいんじゃなかったっけ」
「収容されている哲学人の数が多いとも聞きます。本当なんですか?」
「まあね。でも、全部は把握してないよ」
仕事について答えるのは、いくつかの守秘義務があって。特に事件の調査に関係することは言えないわけだけど。彼はそれを上手く避けてくれているようだった。
もしかして、全部わかった上で聞いてくれているのかも。多分そうだ。きっと、以前にも少し話したことがあるんだろうから。
あれ、もしかして彼は仕事の関係者だったっけ。なんだかそんな気がして、そうじゃなきゃこんな話するわけないもんね、と納得して。
「只野さん! 思い出して!」
と、声がした。
見ると、カフェに入ってきて私の名前を呼ぶ人がいる。誰だっけ。思い出す。
あっ、思い出した。あの人は馬場さんで、仕事仲間で、そして私は、今。
■
「只野さん」
私の前には友人がいて。
私は公園にいて。
呼びかけられる声でハッとして、自分の置かれた状況を考える。
ええと、どうしてここに居るのかわからない。そうだ、思い出さないと。ここに来る前のことを。私は確か。
「どうしたんですか? ぼーっとして」
「え。ああ、なんでだろ。疲れてたかな」
いや、疲れてるせいだ。
思い出すまでもない。そうだ、わかった。
私の仕事は哲学人確保だ。それが、最近忙しかったというか、どうも他組織の乱入が多くて走り回されることが増えた。そのせいだ。それで、ぼんやりしてるだけ。だって目の前の友人は平然としているんだから、何も問題はない。はず。
……そうだよね?
彼はクスクス笑って、私を見る。観察するようなそれに、ちょっとした不快感を覚えた。
「なに?」
「面白い人だなと思って」
「なにそれ」
「お好きに捉えてください」
彼は穏やかに答えた。誉め言葉ではないような気がした。ただ、その物腰の柔らかさで誤魔化されてしまいそうになる。
整備された歩道をゆっくり進む彼を追いながら、仕返しとして睨んでやると、彼は言った。
「そちらに収容されている哲学人の話、なんですが」
収容。ああ、うちの研究所の。そっか、そんな話をしていたんだったか。そんな話ができるような間柄……例えば別研究所の職員とか、だったっけ。
そうじゃないとこんなこと訊ねないもんね。きっと、そうだ。
「【リヴァイアサン】は居ますか? ああ、ルソーの【社会契約論】でも構いませんが」
答えは簡単。
「居ないよ」
「そうですか」
私の回答に、彼は寂しそうな顔をした。もしかして社会学部の研究者だったっけ。そうじゃなきゃ、二つの【社会契約論】の名前は出さないよね。きっとそうだ。そうに決まってる。
私の専攻は哲学人行動学だけど、フィールドワークで哲学人の発見と確保を行ってるから、新規の哲学人情報には詳しい。だからこういう話も珍しくはない。自分の研究に関係がある哲学人のいる研究所に行きたいって人も多いし。
何も、おかしなことなんて。
「わっ」
考える私の目の前を何かが横切った。小さなそれは、何度か跳ねて、彼の胸に飛び付く。
カエルだった。自然の残る公園だ、どこかに潜んでいたんだろう。
「ああ、こら」
彼は自分の胸にくっついたカエルを手でそっと包んで。
「出てくんなっつったのにお前」
■
「その記憶。不便じゃないんですか?」
知人が言う。彼は頭に小さなアマガエルを乗せながら、木の枝とたこ糸で、何も居なさそうな公園の池で釣りをしている。私はその後ろ姿を見ている。涼しげな顔立ちの彼と愛らしいアマガエルの組み合わせは滑稽だった。
記憶のことを知ってるってことは、ええと、知り合いだよね。それに、そう。研究所の関係者か、取締課の哲学人管理係の人か。
なんにせよ、答えよう。
「思い出せば良いだけだから、そこまで不便じゃないよ」
「思い出す前に決めつけてしまったら?」
決めつける?
それは他人から声をかけられることかな。と考えて、なんだか違う気がして考え直す。
彼は言葉を変える。
「思い出す前に思い込んでしまったら?」
それは。
ええと、それは。そういうときは。
「誤解、しちゃうかな」
「でしょうね」
釣糸が揺れる。ザリガニが釣り上がった。
彼はそれを手で掴んで、餌から離して、素手で頭を引きちぎった。
そして頭は池に投げ捨てられて、胴と尻尾がカエルに渡される。カエルは器用に渡された餌を手で掴んだ。
「そのカエル」
「ええ」
「この池の子かな」
「さあ」
彼は釣り道具からたこ糸以外を捨てて、少しつっけんどんに言った。
「少なくとも、大海を知らない子ですね」
その続きに、言葉があった気がする。
■
「僕のカメラ知らない!?」
若者が二人、飛び込んできた。
カメラを無くしたらしい。片方は凄い剣幕でいて、反対に、その人と手を繋いでいる片割れは気の抜けた顔で棒付きの飴玉を舐めている。
私と友人は、多分、ずっとこの神社にいたはずだから。それで何か見てないかと思ったんだろう。
「さて」
友人が私を見た。私は知らないかと訊ねられているのだと思って、答える。
「見てないよ」
起きっぱなしのカメラがあったら多分、印象に残ってると思うし。私は知らない。
若者は言う。
「カラスに持ってかれたんだよ! あーもう信じらんないあのバカラス!」
「はいはい、次行こーね」
片割れにたしなめられて、彼らは立ち去る。去り際に、言葉がかけられた。
「デートの邪魔してごめんなさいねー」
デート。
そうだっけ? 違った気がするんだけどな。いや、待って、休日に男女二人で観光地に出掛けているんだからそうか。
そうじゃないとこんな状況にならないんだから、思い出すまでもなく、私達は、そういうことなんだろう。きっと。そうに違いない。
またこんな大切なことを忘れていた。常に思い出すようにするか、いっそ全部無かったことにしないといけないな。
そう考えて恋人を見上げる。彼は苦笑いしていた。
「こうやって噂って広まるんでしょうね」
「噂?」
「僕と貴方が二人でいるところ。知らない人が見れば、どうとでも見れるということでしょう」
彼は言う。
「そして、噂には尾ひれが付くものですから」
なんとなく、気恥ずかしくなって目を逸らした。その先に黒い姿を見付けて、私は意識をそちらに向ける。
「あれ、あのカラス……」
■
恋人のスカーフの中にはカエルが入り込んでいる。一見異様なそれを全く気にせずに、彼は買い物をするために商店街を歩いていて、私はその付き添いをしている。
彼は棒付きの飴玉を舐めていた。
なんでこんなことになったんだっけ。まあいいか。今日は休日なんだろうし。休日でもなかったら、遊びになんて行けないし。
「僕のそばから離れないとしたら、この子は何を望んでいるんでしょうね」
彼が言った。
それはあのカエルのことだとわかって、私は答える。
「貴方が好きなんじゃないの?」
「ははは、まさか。もしそうなら酷い話ですよ」
彼は言う。カエルに好かれるなんて嬉しくない、酷い話だと言うんだろう。そう納得した私に、彼が続けた言葉はこうだった。
「この子は大海を知らない子なので」
井の中の蛙大海を知らず。ああ、それなら。
「されど空の青さを知る?」
ふと思い付いたのは、その続きの言葉だった。私が言ったフレーズは後世の創作で、元々の言葉にあったものじゃないけど。
彼は笑って、本当に優しそうに笑って、言う。
「言うと思いました」
まるで全てを知ってるみたいに。
いや、彼は本当に……本当に? 全てを知る者ならば、それは。違う。彼じゃない。真理は彼ではない。真理は彼ではない。
待って。待って、おかしい。
思い出す。思い出せ! でなければ私は私ではないだろう! 間違いのない事実から真実を引き出すことが私だ! それを全てひっくり返すなんて。全ての道を隠してしまうなんて。
もしかして、貴方は。
■
「【誤解】……?」
「知っていたはずでしょう、【想起】」
■
「だというのにどうして、こうなっているんですかねぇ?」
え、何の話だっけ。
彼は拗ねたような顔をしている。私達は路地の奥、隠れ家のようにひっそりと存在する喫茶店にいて、向かい合って座っている。彼の前には紅茶が、私の前にはコーヒーが。
ああ、そうか。多分そうだ。私達は自分を見失った……休日に、二人で遊ぶくらいには気安い関係の私達は、何かを見に行こうとして道に迷った。
「この辺りはあんまり詳しくなくて。でも、迷子になるとは私も思わなかった」
「あはは。そうですか」
彼は口先だけの笑いを溢した後、言った。
「そっちは僕の専門外なので、治せそうにないです」
「そっちって?」
「そっちです」
どっち、だろう。私は振り返る。彼は語る。大海を知らないスカーフの中のカエルを指先でつつきながら。
「人の経験は、知覚は、誤解をするものですよね? 集めた情報は間違いを含んでいる可能性がありますね? 帰納法はその点において不確実です」
『帰納法』の問題点。集めたデータが不確実な場合。例えば、千匹のカラスを観測してカラスは黒いと結論付けたとしても、千一匹目が白いかもしれない。
「かといって真理なんてものを人間が既に手に入れているなんて、これこそが大きな誤解だと思いませんか?」
これは『演繹法』の問題。絶対的な真理、定理といったものから、身近にあるものの答えを導く方法。それには、真理が本当に正しい必要がある。教科書の記述が間違ってたら、その後勉強しても上手くいかないように。
「もし全ての真理を知りながら忘れているのだとして。それを想起できるとすれば、演繹は何より正しくなるのでしょう」
これは『イデア論』と、『想起説』の話。人間は初めから、生まれる前に全ての真理を知っているとする説。だからこそ発明は起きるのだとする話。
「だから治せないんです。貴方に触れられる位置に居ないので」
これは……。
「どういうこと?」
彼は困ったように口篭ったあと、言った。
「僕は……そうですね……自分の能力を自覚している人と、していない人なら、どちらが先手を打てると思いますか」
「自覚している人は、意識して行わなきゃいけないから、一歩遅れるんじゃない?」
「どうでしょう」
答えは曖昧。
肯定されているような気がするのに、彼の言葉も態度も、はっきりと答えない。
彼は言う。
「帰納法と演繹法は対立していましたか?」
「経験論と合理論の話?」
「僕の言葉をそのまま受け取ってくださればいいんですよ。主義は抜きにして、手法としてのそれら……中庸はただの美徳ではないでしょう」
彼の問いかけは、何か、明確な答えを私に導き出させようとしているようだった。それが何かはわからないけど。その手法に覚えがあって、私は言う。
「ソクラテスの『産婆術』?」
「うーん……そうなりますか」
彼は苦笑して、話を切り替える。
「真実への道を閉ざす四枚の壁。貴方はそれを知っていますね?」
真実への、道を。思い出す。思い出せる。
『人間の五感による生物的に逃れられない錯覚』『生活環境に基づいた狭い価値観』『多くの人々の手を通るうちに発生する情報の変化』『発言者の地位や環境による先入観』という、四つの。
「四つの『イドラ』?」
「ええ、貴方はもうわかっているんですよ。僕の名前よりもずっと沢山のことを」
違うと言われたようにも、正解だと言われたようにも、聞こえた。そんな答えよりもずっと大きな、もっと別の問題に目を向けろと言われたような。
イドラ、ともう一度口に出して確かめる。
覚えがあった。
記憶があった。
「待って。この会話、私、何回やった?」
「真実に触れてもいいことはありません、というのは僕の立場に寄りすぎですね? 貴方の立場はどうでした?」
噛み合っていないような、噛み合っているような、言葉に出せないことを遠回りして表しているような。彼の答えはずっとそんなものだ。それを聞いて、私は。
そうだ、私は、真実に寄り添う側で。研究者なんだから。だから考えなければいけないはずで。
彼は呟く。
「しかし、考えようによっては利点かもしれない。貴方は元に戻れるのだから、僕が何をしたって……」
■
「もうすぐ日が沈みますね」
彼が言った。
私は喫茶店のチョコケーキをフォークで切り崩している最中だった。窓を見れば、道が赤く染まっている。夕暮れだ。
多分、私は一日中、この友人に付き合って喫茶店巡りをしたのだろう。私と違って見目にも気遣うくらいおしゃれな彼は、きっと、こういう場所に詳しいんだろう。
「長く、付き合わせてしまいました。お礼として、せめてもの誠意を示しましょう。俺の名前なんですけどね」
名前。
何もかも忘れてしまうのは私の体質だ。その事を知って、その上で平気でいてくれるような人。
「【イドラ】です」
彼のその声に、何か、強い力が込められていた。
それが何かは全くわからないけれど。ただ、軽い調子で言われたものではない、ってことだけがわかる。
「……信じなくても構いませんが。ただ、僕が真実に触れるのは少々……望ましくないので。努力した分の信頼は欲しいんですけど」
拗ねるように言う彼を、疑うはずもない。
ただ、きっと。少し珍しい名前だから、からかわれて来たんだろう。そうやって名乗りに抵抗を持つようになる人は存在するから。
だから私はこう答える。
「哲学用語が名前なんて、ロマンチックだね」
「はは。最近はそういう方も多いと聞きますよ」
「さあ。ええと……学問名をもじるのは流行ってるって聞いた」
「へぇ。貴方の名前も?」
「ううん。私の名前は……」
私の名前は。何でこれにしたんだっけ。
いや、名は他人に付けられるものだから、考えてもわからないはずだよね。多分。
言葉を止めた私に、彼は笑いかける。
「貴方は、きっと、そのままで良いと思いますよ。自ら壁を作り、鎖に繋がれたのなら。そしたら、多分、いつか……誤解すら真実になる日も来るでしょう」
言って、彼は席を立った。
「またお会いしたら、そのときはよろしくお願いしたいですね」
彼は同業者かなにかなんだろうか。
■
「只野さん!」
呼ばれる声に我に返った。私はチョコケーキを食べ終えたところだった。
見ると、男性二人が喫茶店に入ってきて、私を見ている。テーブルまで駆け寄ってきて、そして。
「俺達何してたか思い出して!」
「え……」
え、誰。何。思い出すって……あ。
この人は馬場さんで、その後ろにいるのは関島さんで。あ、嘘、私、そういえば。思い出した。今日は休日でもなんでもなくって。
「仕事中……フィールドワーク中で、さっきの人は」
確保のために捜索していた哲学人だ!
失態! 正体掴むどころか情報抜かれた!
「ごめん、ミスだ……」
馬場さんは、大袈裟にため息を吐いて、大袈裟に疲れたような態度をして、私の向かいに座った。
後から関島さんが悠々と歩み寄ってきて、馬場さんを奥に追いやり、座る。
「無事ならいいんだけどさぁ」
「無事だけど良くはない……」
馬場さんの声に、私は力なく返した。いや、だって、さ。思い出したからさ。
不審な通報が頻発した地域がある、と警察から連絡を受けて、哲学人の可能性を考慮して調査して、そのうちに最近姿を表している一人の不審者の姿が浮上して、それで声をかけた。
そしたら、これだ。私は彼の存在と彼と私の関係性を全て『誤解』してしまい、研究所や仕事についての情報を抜かれ、連れ回され、今に至る。
……いくらなんでも、油断しすぎた。会話が噛み合わなくなったことに気付いた馬場さんが説得を試みようとしたときには、私はもう哲学人の友人になっていたし、彼の筋力も運動能力も人間の域を越えていた。そして無抵抗で拐われてしまったわけだ。
何より彼らの目の前で彼らのことを忘れてしまったことが恥ずかしい。
「彼はどこに?」
関島さんが訊ねる。彼は店員から水とフルーツジュースを受け取っていた。いつ注文したんだろう。
というか二人とも制服姿だけど、まあ、いいか。
「少し前に、出ていったよ。一通り情報を得られて満足したんだろうね。ごめん、発信器も何も付けられてない」
「まあ無理でしょーよ、あの状態」
馬場さんは擁護してくれたけど……失態であることに変わりはないし。
「彼、結局何の哲学なのかわかりました? こちらからは、思考に作用することくらいしかわからなかったのですが」
関島さんが言う。ああ、そうだ。落ち込んでるより、得た情報を話す方が効率的だ。
切り替えよう。
「『イドラ』……誤解や思い込み、錯覚、嘘、間違いなんかを意味する言葉だよ。本人がそう名乗ったし、私もそう思った」
「意味多くない?」
「正確には、『帰納法で物事を考えるときの問題点』って意味だから……うん、かなり広いね」
その中の、『思い込み』が作用したんだろう。思い出す前に、思い込んでしまった。記憶を探る気にさせなかった。
だから私自身の体質として、思い出さなければ何も覚えていられないから……色々忘れて、誤解を助長した、と。
「あー……今なら全部思い出せる。どこの研究所に、どんな哲学人が居るのか……特に、【リヴァイアサン】と【社会契約論】を捜してたみたい。研究所でどんな仕事してるのかも聞かれた」
「なるほどね。人探ししてるわけか」
「この二つは、『イドラ』と関連のない哲学なんだけどね……個人として知り合いなのかも」
「実際、その哲学人ってどっかの研究所所有になってんの?」
「ううん。私の記憶の限りじゃ、まだ見付かってないはず」
だから、彼は寂しそうな顔をした。きっとそうなんだと思う。人探しの途中なんだろう。
「そんで、やつは研究所に興味を持ってるわけね……収容される気があって、研究所を選り好みしてるとか?」
「敵対する気がある可能性も捨てきれないんだよね。そういう人には見えなかったけど」
「いきなり研究員を洗脳して誘拐する人が?」
「あー……うん。訂正するよ。私から彼への印象は全く信用できない」
そうだった。充分凶行に出てるんだった。
でも、私にはあまり、彼に悪意があるようには見えないんだよね。だって。
「後半、ただのデートだったんだけどな……」
「人が必死に捜してる裏で何してんの」
仕事中だってことを忘れてたんだもん。
それから店を出て、捜索を始めたけど、彼は見付からなかった。
またお会いしたら。彼は別れ際にそう言った。あれはきっと、また会いに来るという意味なんだと思ってたけど。『イドラ』について推測するなんて、そもそも無謀かもしれない。
ともかく、今度こそは確保しないと。
■
聡盟大学附置哲学人研究所は騒がしい。思い返せばいつも騒がしい場所だったけど、今日は普段よりも倍くらいの騒がしさだった。
どうやら、哲学人【汎神論】とやらが、別の研究所で自主的に収容されに行ったらしい、という噂で持ちきりだった。自分の能力が広まるのを恐れて、絶対に名を自ら明かさない、誠実な哲学人らしいと。名を明かさないのになんで【汎神論】と結論付けたのかはわからないけど。
衣食住を求めての自主収容自体は、数は少ないけど、全くないわけじゃない。ただ、来る研究所間違えたとかいう発言があったとかなんとか。それで、何か目的があるんじゃないかと色々勘繰られている。
自主収容って、私の出番なくてちょっと寂しさあるなぁ。でもまあ、さほど興味はないかな。関係ないし。多分。