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聡盟大学附置哲学人研究所FW部  作者: にじいろ
4/7

4:【過去の事実を現在に持ち込むこと】


「兄ちゃん」

 震える声に呼ばれて、俺は勉強机から離れた。

 俺を呼んだ弟は、開いた窓に手をついて、外を眺めているように見えた。俺と一年しか離れてない、学年は同じ、双子みたいな弟。

 涙目で俺を見上げて、まだ六歳の弟は、小さく消え入りそうな声で言う。

「蟻、死んじゃった……」

 弟の千聡(ゆきとし)は、気が弱い。

 それは小さな虫の命に傷付くくらい繊細で、優しい。

 窓枠の上で潰れて死んでいるそれを見て、俺は、泣き出す弟に対する行為として当然のこととして。

「そうだな」

 慰めるために頭を撫でた。

 それで安心した顔をする千聡が、俺からしたら本当に、可愛かったんだ。

 俺は千聡のためなら何だってしてやると思っていた。

 だから悲しむなら慰めるし、苦しむなら助けるし、困っているなら手伝った。

 だから。


「兄ちゃん」

 震える声に呼ばれて、俺は振り返る。

 もう秋に差し掛かる頃だった。空は高くて、雲一つなくて、青々と輝いている日だった。俺達は終わった夏休みに焦がれるようにして、外から丸見えの秘密基地で遊んでいた。そんなとき。

 弟は、犬の死骸を抱えて立っていた。

 いや、多分まだ生きてたんだろう。

 ここは結構自然が残ってる、田舎の街だから、野犬だってそれなりにいる。田舎の街だから、どこかの家が放し飼いにしてる犬だってそれなりに。

 どっちにしろ、もう死ぬだけだ。

 千聡は気が弱くて、怖がりで、優しい。そして手加減を知らない。動物が好きで、虫も好きで、生き物に触るのが好きで、そしていつもやりすぎる。途中で怖くなって必死になってしまう。途中から手が止まらなくなってしまう。

「どうしよう。どうしよう……」

 どうしようもないな。

 きっと、どうしようもないからさ。

 死んだら戻らないし、怒られるのは悲しいし、一人で悩むのは苦しいし、隠し場所にも困るからさ。

 俺はお前のためなら何だってしてやるからさ。

「それじゃあ」

 俺は適当な石を手に持った。それを千聡に持たせて、俺はその外から両手で包んで持って。そして。

 犬の頭に振り下ろした。

 何度も何度も振り下ろした。犬はもうほとんど生きていなかった。だから抵抗されずに何度も。何度も。

 殺した。

「これで、俺も共犯な」

 千聡はそれで、やっと安心したように笑った。良かったと呟いて、やっぱりぽろぽろと涙を溢した。

 それを見て、ああ、俺は何も間違ってないんだと確信したんだ。

 それから何度も何度も隠し事を手伝ったことは、弟の共犯になり続けたことは、何も間違ってないんだと。


 まだガキだった頃の、俺達の秘密。

 まだ何も知らなかった頃の俺達には、この共有が世界のすべてだった。



 ビデオカメラ、録音機、P逆療法式抗哲機とA同質効果式抗哲機(共に試作段階。実験用とラベルがされてある)に、飴玉と新品のメモ帳。

 いつもよりかなり軽量化した荷物を持って、私はある民家の前に来ていた。ごく一般的なアパートは、掃除がよく行き届いているようで、どこを見ても綺麗で落ち葉一つない。そうやってきょろきょろ見ていると、隣の馬場さんからからかいの声が飛んできたので視線を正す。

 隣には哲学人犯罪取締課の馬場さんと関島さんがいる。つまり、哲学人を捜索する仕事の一環で私はここに居る。

 こうなった経緯は、数時間前に遡る。


「まーた刑事部から頼まれた事件の捜査なんだけどさ」

 私は取締課から連絡を受け、警察署に訪れていた。そして通された会議室らしき部屋で座っていた。馬場さんが机に資料を広げながら、ヘラヘラ笑って説明を始める。

 今回は、一度警察が一般の事件として調べた後に、哲学人関与が疑われてこちらに回されてきた、ということらしい。

「まあ要するに、連続失踪事件の重要参考人だった男の追加調査してくれってことよ」

 失踪事件。いわゆる青少年の家出とか、高齢者の徘徊後の行方不明とか、場合によっては誘拐とか遭難とかを含む、人が居なくなる現象。

 資料には、前回調査時の情報が載っている。誰がどこで姿を消したか、その日付は、失踪直前の服装等。簡易的な一覧があって、その数は……多い。

「三十七件。一クラス分だね」

「それ、一年間の総数だけどね。年齢も性別も、住んでる地域も、失踪した時期も含めて皆バラバラで接点がないみたいでさ」

「ああ、それなら……」

 日本の年間失踪者は八万人だったはず。百件未満なら、一年間での一県の行方不明数としては別に……。

 でも、皆バラバラなのになんで『連続』失踪事件?

 疑問にはすぐ答えが示された。

「この全員が、失踪前に連絡とってる男がいんの。だから一連の事件として紐付けられたってわけよ」

 あ、それは怪しい。

「……失踪者同士の面識は?」

「無い。どう考えても接点がない。この男を除いてね」

 言われた、重要参考人である『この男』の資料を見る。名前と住所と、前回の調査で何も証拠が掴めなかったという結果が書かれていた。

 その人の名前は、コンスタンティン・コンスタンティウスさん。

 なんだか変わった名前だなと思って、思い出そ……あ。

 あ、これ知ってる。

「『反復』だ」

「なにそれ」

「哲学者キルケゴールの小説。コンスタンティンは、登場人物兼、著者名、かな」

 キルケゴールは自身の本を出版するとき、偽名を使った。『反復』という本を出したときの偽名がこれだった。

 つまり、この本専用の、本に名付けられた人名みたいなもので。ここから生まれた哲学人なら、きっとこう名乗る。

 馬場さんは不思議そうな顔をした。

「……小説って哲学人化すんの?」

「普通はしないけど。この小説、彼の思想が詰まってるんだよね。だから半哲学書扱いになってる。あり得なくはないかな」

 哲学人以前に、哲学とはなにか、が既に哲学になってしまっていて、どこからどこまでを哲学として認識するかがはっきりしない。そのせいで起きてるイレギュラーだ。こういうのから生まれてる哲学人も、物語通りの空間や世界を作り出すようなイレギュラーっぷりを発揮するから、実は対応が難しい相手だったりする。

 物語から離れた行動はしない辺りとか、解決策が元の物語に書かれてたりとか、もうほとんど妖怪に近い。

 馬場さんはまだ納得してない顔をしていたから、私は別の可能性を提示する。

「偶然同じ名前か、ファンでそう名乗ってるか、って線もあるけど」

「あー、それ系の名前付ける家も多いもんな」

 でも、と私は続ける。

「コンスタンティンの友人が失踪する話なんだよね、『反復』」

 ほぼ確定じゃんか、と馬場さんは言った。

 うん、隠す気も無さそうだし、これはきっと元になった本を読んだって伝えたら、気分を良くして向こうから明かしてくれるんじゃないかな。

 方針を固めていると、こんこん、とノックの音。返事より先に扉が開いた。

「すみません、遅れました」

 ああ、関島さんだ。

 彼は机の上に資料を追加しながら言う。

「二日前の失踪事件の情報も上がってきましたよ。関係してるみたいです」

「おー、ありがと関島。ってーことはぁ」

 馬場さんは資料を手に取って見て、渋い顔をした。

「現在進行形で、こいつに関わった人間が消えてるわけか」

 ……人への敵意があったりしたらどうしようかなぁ。


 そして私達はコンスタンティウス氏の自宅前に来ている。

 インターホンを押して暫し。物音一つしない。もう一度押して、すみませんと声をかける。

 もしかして留守かな。そう思って誰ともなく顔を見合わせた時。

「我が家に何用かな」

 声がかけられた。

 見れば、背の高い男が柔和な笑みを浮かべている。きちっと整えられた髪やシャツは清潔感より几帳面や神経質を強調していて、なんとなく威圧感のある人だ。

 馬場さんが警察手帳を見せた。

「コンスタンティウスさんですね? 俺達はこういう者です」

「ほう。以前も誰か来たな。私は無関係と言ったはずだが」

「その時とはまた別の話をお聞きしたくて」

 気さくに笑いながら、馬場さんは言う。

「キルケゴールの『反復』って小説、ご存知です?」

「ああ、それは私の書いた話だ。知られているようで嬉しいよ」

 答えは、嬉しそうな笑みと共に語られた。

 でも、『書いた話』?

「貴方は哲学人ですよね?」

「その通り。著者名を知らんのか? コンスタンティン・コンスタンティウス著となっているだろう」

「それはキルケゴールの偽名では」

「そうだな。偽名であると同時に、私の名だ」

「……ええと」

「キルケゴールは私の父であり、私の名義で私自身を書き、そこから私は生まれた。しかし著者ではないし、私は私の著者なのだ」

 うーん、やっぱり偽名勢はややこしい。普通の哲学書としても偽名のせいでややこしいのに、それが人になると更に。しかも得意気に語るところを見るに、この考え方は彼にとって誇りらしい。

 哲学人らしい特異な論理に面食らっている馬場さんの代わりに、私が言う。

「私達は貴方の確保に来ました。取締課に同行していただけませんか?」

「何故?」

「えっ。えー、その為に来たので?」

「君達は哲学人犯罪の取締課だろう? 私はなにもしていない、ただの人間の暮らしを真似ている哲学人だ。警察に捕まる理由はない」

「あ、私は研究員なので。哲学人は収容したいです」

「実験台になるつもりもないな。哲学人の人権保護団体に訴えるぞ」

「うわ、普通に困るやつだ」

 思い出す。最近、いやいや、結構前からそういうのがうるさい。研究所は哲学人に奉仕するタイプの哲学人信仰団体には良い顔をされてなくて、そのうちのいくつかは倫理的な問題を振りかざして口出ししてくる。

 実際、研究所の環境改善に繋がってるから悪くはないけどさ。とはいえ……。

 と、思考が脱線してしまった私に代わって馬場さんが前に出た。

「アンタと関わった人間が、ことごとく失踪してるんだよね。その件について、『なにもしていない』とは言えないんじゃないのー?」

「本当になにもしていない。彼らが勝手にやったことだ」

「へえ。把握はしてるわけね」

「友人と急に連絡がつかなくなれば、察しもする」

「三十人以上の友人が居なくなって、その程度?」

「彼らには彼らの都合がある。私はそれを知っていて、ならばこの結果もさもありなんと理解したまで。まあ、何も知らない貴殿方からすれば驚きだろうが? 私にとってはそうではない」

「都合って何よ。人が消えてんだけど」

「それはプライバシーに関わる故に……」

 彼は言いかけて、止まった。肩を竦め、呆れたような声色で言う。

「そもそも、こんなところで立ち話はよろしくない。しかし私の家は私一人が精一杯でね。何より二度も他人に荒らされたくもない。ああなんてことだ! 君達の言う通り、警察の詰め所に厄介になるしかないようだ」

 そして、道路を指差した。

「車はあちらに停めていたものだろう? 乗せてくれ」

「アンタさぁ……」

 わざとらしすぎて、怪しい。

 けど、連行したいのは事実だし、こちらから先に同行を求めたのも事実。都合はいいはず。

 あー、でもどんな能力かまだわかんないしなぁ。と思って、抗哲機の存在を思い出した。正直なところ、哲学人と関わりがあるかないかの判断くらいにしか使えない試作品だけど、無いよりはましだよね。

 私は荷物の抗哲機のスイッチを入れる。

 馬場さん達は車に向かっていた。

「関島、運転任せた」

「馬場さんは後ろ乗ってくださいね」

「わかってるって」

 車は六人乗りだ。関島さんが運転席に、馬場さんとコンスタンティウス氏が真ん中、私が荷物を押し退けて最後尾に座る。

 馬場さんが言った。

「はい続き! 居なくなった人たちの都合って何?」

 エンジン音がして、車が発進する。

 署まではちょっと遠い。車で三十分くらいか。

「詳しくは言えん。私は彼らからの信頼によって秘密を預かる身だ。だが……誰しも悩みの一つや二つはあるだろう?」

「まあそうね。それで?」

「私の友人は特に……メランコリーに捕らえられ、離れることのできない質だったのでね。私はそれについて助言したのだが」

「逃げろって?」

「まさか」

「じゃあ何?」

「合法であり、平和的かつ具体的な計画を練った」

 コンスタンティウス氏はそこで、深くため息を吐いた。

「誰一人実行する勇気を持たず、私に何も言わず逃げ出したのだ。私に従っていれば、多少は苦しむかもしれないが、確かに幸福を得ていただろうに」

 私は言葉を聞いて、得た情報を分析する。思い出して記憶と照らし合わせる。どこまで本当なのか、その計画は何なのか。ええと、『反復』の内容は。

 ああ、そっか。ストーリーの前半に似てる。というより、同じだ。『悩みをもった青年に正しいアドバイスをし、しかし勇気のない青年は逃げ出した』という展開。

 なるほど、彼は物語から外れていないね。とすれば、彼のアドバイスは的確だし、悪意はない。本当に、逃げ出したのは青年側の意思であるはず。

「嘘は言ってないと思う。悪意はないよ」

 私が言うと、コンスタンティウス氏はキョトンした顔で私を見る。

「それはそうなんだが……君に何故わかる?」

「え、知識?」

「既存の知識で他人の心まですべて導き出せると?」

「ああそれは無理だね。でもほら、貴方の行動は、小説の通りだったから」

 彼は少し不服そうに、私から目を背けた。

「……あれは私だからな」

「うん。あと、失踪した人も小説の通りに動いてる」

「似た気質の者だからだろう。どうしても、そうなってしまう」

 そうなってしまう?

 もしかして、意図してないのかな。ということは能力ではない……それか、能力を制御できてないタイプか。

「『反復』の哲学人だから、物語通りに動いてるのかと思った。それとも、『反復』だから、同じことを繰り返してるの?」

「まさか」

 彼は肩を竦めた。

「それは存在しない。一度別れた二人は今後、あの時の二人には戻れない。それと等しい」

 ……ちょっとわかりにくいというか、突飛な例えだ。

 『反復』のストーリーに出てくる二人の登場人物のことなのかな。確かに、失踪した青年と主人公の関係は前半と後半で大きく変わるけど。

「ところで君、馬場君と言ったね」

 コンスタンティウス氏は話を切り替えた。

 名前……ああ、手帳見せてたし、関島さんが呼んだね。注意深いし記憶力が良いのは、原作でもそうだった。だからおかしくは。

「馬場千聡君の、お兄さんだろう」

 空気が凍ったようだった。

 馬場さんは明らかに動揺していた。さっきまでの余裕のある笑みは消えている。あの一言だけで。

 ゆきとし。

 記憶を探る。聞いたことがある。馬場さんの弟で、『探しているもの』だった。それ以外の情報はない。

 馬場さんの、プライベートな情報だ。どうしてコンスタンティウス氏がそれを知ってるんだろう。それに、馬場さんの緊迫した表情は。

「……なんで、あいつのこと」

「知っているとも。彼は『詩人』……ああ、わからんか。つまりは、彼の失踪も私の友人の失踪の一つだったということだ」

 えっ。

「彼からも、私は相談を受けていたよ。そのほとんどはお兄さんのことだった。優秀で、聡明で、行動力のある、誰からも認められるお兄さんのね。彼は君の素晴らしさを本当によく語ってくれた」

 待って。待って、それって。

「その隣に居ることがどれ程苦痛かをね」

 あ、やばい。

 馬場さんが彼に掴みかかった。私は座席を乗り越えて、馬場さんの肩を掴んでそれ以上の行為を止める。

 事件関係者が調査に当たるなんて良いんだっけ。わからない。ただ、資料のリストに馬場千聡の名前は無かった。別件だと思われてたわけだ。

 コンスタンティウス氏は掴みかかられたまま言った。

「ははは! 君がもし、君の思う通りに弟思いな兄であったなら! それならば君は弟の門出を祝うべきなのではないか。彼は君の所有物ではないし、君と愛と人生を分かち合った伴侶でもない。しかし今の君はどうだ? 己の下を去った彼を恨みこそすれ、己自身に落ち度があるとは考えていまい。だからこそ弟君は君と共にあることを嫌ったというのに!」

 馬場さんは、強く、強く、拳を握って、そして。

「どうして」

「家庭の事情に首突っ込んでも、良いことないですよ」

 乱入する声は、関島さんのものだった。どこか呑気な、他人事みたいな、それこそ適当な声だった。

 彼はハンドルを切りながら言う。

「野暮ってやつです」

「……見て見ぬふりも無粋ではないかな」

「運転中に話しかけないでくれます?」

 ……いや、関島さん。

 ちょっと、それはどうかと思う。話しかけたのそっちだし。

 馬場さんは手を離し、コンスタンティウス氏からも離れ、座席に座り直す。そして肩を落として、俯いた。

 落ち着いてくれたんだろうか。

 コンスタンティウス氏は、掴まれて乱れた襟元を正す。そうしながら、また、言った。

「弟君は戻らないぞ」

 反応はない。

「理由を言おう。反復は存在しないからだ」

「……哲学人【反復】、だよね?」

 私が訊ねると、彼は首を振る。

「コンスタンティンだ。あえて人の名を名乗る理由がそこにある。反復は存在しないという理由がな」

 ええ、と?

 理解に苦しむ間に、彼は続けた。

「繰り返したいと思っているのだろう。あの輝かしき過去を。あの美しい青春を。あの安寧の日々を。しかしそれはない! ないのだよ。人の関係は元に戻らない。君はさようならをしなければならない。かつての私と同じように!」

「俺は諦めてねぇ」

 答えたのは馬場さんだ。彼はもう落ち着いていて、ただ、怒りは消えていないみたいだった。

「帰ってくる気がないなら連れ戻す。殴ってでも、脅してでも、泣き落としでもなんでもやるだけだ。あいつが諦めるまで俺は諦めない」

「何故?」

「兄弟だからだ」

 彼は顔を上げて、コンスタンティウス氏を睨んだ。

「過去は戻らない? 過去は消えねぇんだよ。あいつがどれだけ逃げたって、俺達のやったことは消えねぇし俺達は兄弟だ。忘れようが、名前を変えようが、隠れようが、誰も知らない場所に行こうが、あいつ一人だけ勝ち逃げさせてたまるか!」

 馬場さんの言葉は、弟さんを心配するようなものじゃない。それより、むしろ。

 何かから逃げてるみたいだ。

 それに強い違和感があって、私は何か言うべきな気がして。とりあえず、止めようかと思ったら。

「気持ち悪っ」

「え、関島さん」

 またしても関島さんが口を挟んだ。

「馬場さん、それ気持ち悪いです。弟さんに干渉しすぎですね」

「何も知らねぇくせに……」

「何も知らないから客観視できて事実を言えるんですよ?」

 いや、ええと。関島さんの声はやっぱり呑気で、気軽だ。そこには怒りや苛立ちや、心配すらない。

「過去とか良心とか感情とか。そういうのを利用して操作してくる人って、鬱陶しいんですよ。俺なら嫌いになりますね」

 ああ、うん。そういえば苦手だったね、そういうの。

 コンスタンティウス氏が不満げに言った。

「君だって口出ししてるじゃないか」

「俺は俺の感性を口にしてるだけです。馬場さんのためじゃないですし、弟さんのためでもありません」

「私に話しかけるなと言ったのは」

「運転中に気が散ると本当に危険なので。事故は起こしたくないんですよ、始末書書くの面倒ですし」

 関島さん、人命より始末書の比重大きくない?

「あとこれは同僚としての意見なんですけど。仕事中にプライベートの問題持ち込むのやめてくれませんか?」

 馬場さんが腹立たしげに言い返す。

「お前だって、前やっただろ」

「俺は体質的な問題なので」

「それを伝えなかったのは……」

「心情的な問題でしたね。でも、俺はあの時職務怠慢しました?」

 何の話だっけ。思い出す。ああ、【フレーム問題】のときか。確かにイライラしてて気になったけど、仕事は真面目に……普段からそこまで真面目な雰囲気してないからなぁ、関島さん。

「……わかったよ。すまないね」

「あ、運転中に話しかけないでください」

「あーはいはい、わかったよ!」

 また、馬場さんは座り直した。今度はいつもみたいな、それよりちょっと拗ねてるような、気安い表情で。

 うん。いつもの馬場さんだ。

「君達の物語は、私とは異なるのかな」

 こう言ったのは、コンスタンティウス氏。

 その意味がよくわからなくて、私は彼を見る。

「そちらはそちらで、物語が進行しているということだよ。私の手が入るまでもない」

 彼は言いながら、私を見て、ニヤリと笑う。

「なに、そろそろ事件が起きる。私はそういう存在だ」

 事件って。

 途端、バイクのエンジン音が聞こえた。至近距離から。

 車は走行中だ。追い抜くでもなく、そのバイクは危険なくらいぴったり近付いて並走している。

 窓の向こうに見えるのは、ミラーシールドのフルフェイスヘルメット。何だろう。

 あのヘルメットは、記憶にある。

「『Bee School』の人だ」

「あいつ……!」

 私が言うと、車内の空気がまた張りつめる。さっきのように険悪なものじゃなく、警戒と、臨戦態勢として。馬場さんは……思い出した。そういえば、全治何週間の怪我を負わされてたね。だからか、声は震えてるし、また冷静さを欠いている。

 関島さんがスピードを上げた。信号は止まらず突っ切った。

 隣のバイクも変わらずぴったりついてくる。

 コンスタンティウス氏が言う。

「『Bee School』とは?」

「アンチ哲学人組織。輸送中の哲学人を横取りしては殺して回る人達だよ」

「ははっ。面白い役者じゃないか。これは壮大な事件の序章と言える!」

 ガンッ! と音がして窓ガラスにヒビが入る。見ると、ヘルメットの男は何か、棒のようなものを持っている。器用にも、片手運転しながら殴りかかってきたわけだ。

 コンスタンティウス氏は窓から心持ち離れて馬場さんに近寄った。

「というわけで取締課諸君。助けてくれ」

「……アンタ、よくも」

「反応が見たい故に己の身の危険すら省みない。観測者とはそういうものだ。先程煽ったことは謝ろう。すまん。そういう質でね」

 馬場さんは呆れた顔をしている。

 さて。どうやら、哲学人を確保してるってバレてるみたいだ。どこから知ったのかは知らないけど、あのヘルメットの男は私達を狙ってる。多分、コンスタンティウス氏を、と考えるのが妥当かな。

 ただ、タイミングが完璧すぎるのと、事件が起きる、と言っていたことが怪しい。

「初めから、こうなることを狙ってたんじゃないの?」

「私は私の能力を把握はするが、制御はしていないと伝えておこうか。でなければあんな凶悪犯罪者は呼ばない」

「あー、身の回りに事件を引き起こす体質だけど、何が起きるかまではわからないと」

「そういうことだ」

 不便な。そして不憫な。よりにもよって天敵だろう、アンチ哲学人組織の過激派が来るなんて。

「本来なら、運命の出会いや再会だとか、宿願の完遂だとか、奇跡と呼ぶに相応しい何かが起きるものだが……君の抗哲機の作用で狂ったかな」

 ……あれ、抗哲機を使ったことがバレてる。

 まあいいか。抗哲機の作用で予定外の被害が出る可能性を記憶しとこう。収容手順に必要な情報だ。

 さて、それじゃああのバイクを撒けそうなルートを考えないと。

「そっこのっヘルメットー! 止まれ止まれ止まれぇー!」

 ん。

 背後から、拡声器を使った声が響いた。

 振り返って見ると、若者がサンルーフから身を乗り出して騒いでいる。見覚えがないかな、と記憶を探る。

 あれは、確か。

「どーもー!! 呈する恵智の会所属! あらゆる哲学人様への信仰崇拝そして奉仕! 兼子! 洋! でーす! そこのヤバイ奴と戦いに来てまーっす!」

 あ、はい。前も思い出す前に全部言われたんだっけな。

 彼らは呈する恵智の会、略してTK会の人だ。哲学人の能力を好き勝手使って色んな事件を引き起こす、テロリスト集団。

 哲学人にとっては悪い環境じゃない。脱出して合流されたら困る、と思ってコンスタンティウス氏を見ると、彼は辟易とした顔でTK会の車を見ていた。

「どうしたの?」

「彼らは、少々苦手でな……」

 え?

「何度言っても哲学人名で呼ぶ上、恥知らずにも、奇跡を起こせとねだる……強欲に恩恵を求め、それが当然の権利とでも言いたげだ。母の乳を得られなければなく赤子と等しい。献身とは真逆だ」

 哲学人を崇め称えて甘やかす組織だと思ってたけど、彼の認識は違ったらしい。哲学人は能力を使いたがるっていうのが一般論で、こういう意見は珍しい。

「何するかわからない分、観察しがいがあるんじゃないの?」

「私は所作に深みある、美しい青年を好むのだ。精神の成熟を迎えたばかりの魅惑的な人間をな。そんなものあそこに誰一人として存在しないじゃないか」

 変態かな?

 あ、いや……原作の登場人物がそうだったからね。それを好んでいるのかも。

 考えていると、背後から発砲音。ヘルメットの男を狙ってるみたいでこっちには当たらなかったけど、うーん、撃ってくるか。

 追われながら私達に張り付くなんて芸当は流石に無理らしく、バイクは離れて、私達を追い越していく。

 関島さんはその隙に退路を探す。

 ふと思った。

「車内に哲学人がいますっていうステッカー欲しくない?」

「妊婦か何かか?」

「意味合い的にはそう。哲学人が居るってわかると走行中は撃ってこないんだよね。TK会の人」

 走り初めと終わりに総攻撃されるから全く安心はできないけど。

 関島さんはほんの少しスピードを落とす。すると先を行くバイクから。

 何か、投げ付けられた。

 それは屋根にバウンドして、私達の後ろの道路に落ちて。

 そして爆発音。

 飛び散る小石やらと爆風で、走行中の車体が大きく揺れる。コンスタンティウス氏が悲鳴を上げる。いやいやいや、軽率に爆発物使わないでよ。そういえば……そういえば前も爆発物投げ付けてきたなあのヘルメットの人!

「後ろ、大丈夫でした?」

「ああ、うん……」

 関島さんに答えながら、気付いた。後ろの車は爆発の中に突っ込むはめになったんじゃないか。

「ざっけんな爆弾魔ァー!」

 あ、生きてる。拡声器越しの元気な声が飛んでくる。

 直撃はしなかったらしい。ただ、フロントガラスがヒビだらけになってるからあれじゃ運転しづらいだろう。

「うーん、ちょっと、これは仕方がないですね」

 関島さんが、車内にある拡声器を取った。一応警察署所有車だし、そういう設備もあったんだね。

 そして。

「TK会のみなさーん。前の車、哲学人乗ってまーす」

「うっそ、マジ!?」

 近所迷惑そうな、拡声器越しの会話が始まった。

「君達どこの人! 所属は!」

「取締課です。助けてくれませんかね?」

「えーうわー僕ら一応取締課の敵対組織なんですけど!? 人の信仰心を逆手にとってそんな! 酷い! 助けるしかないじゃんかぁ!」

「退路確保をお願いしまーす」

 一方的に用件を告げて、拡声器は元の場所に収納された。あれでいいんだろうか。具体的な方法はわからないけど。

「本当、こういうの嫌いなんですけどね」

 関島さんは言って、苦笑しながら、アクセスを踏み込んだ。

 タイヤが甲高い悲鳴を上げた。加速した車は急カーブして、今走っている通りから脇道に突っ込む。乗っている私達はバランスを崩して横になったけど、車は危なげなく進む。

 バイクがUターンして戻ってくる前に、背後ではTK会の彼らが車で車道を塞いだ。乗っていた何名かが車を降りて、脇を通られないようにして。

「こ、ここは俺達に任せて逃げろ! なんちゃってね! 次会ったら覚えてなよ!」

 お、おう……現実でこの台詞聞くとは思わなかった。

 ありがとうTK会の人達。警察側の私達が都合よく利用しちゃってて申し訳ない気持ちはあるけど。

 私達はこのまま逃げる!



 あれから、哲学人【反復】を確保してから、数週間経った。【反復】は関係する失踪者の情報提供と、今後の事件発生を抑えるため、取締課で所有することになったらしい。


 俺は今、別の哲学人犯罪の捜査のために駆り出されていた。

 そいつは哲学人【コーシャスシフト】という名で、そばにいる人の心を落ち着かせるという力を持っていた。落ち着かせ過ぎて生産性や発展性すら奪い去ってしまうという、扱いに困る能力だ。

 彼女は俺達が駆け付けるよりも前に、別の団体によって拉致された。俺達はその痕跡を追って、ある山中にまでやってきた。彼女はそこのどこかに居るだろうと思われた。

 そして。

 今、俺の前で血塗れになって発見された。

 いわくありげな山小屋の中だ。フルフェイスのヘルメットを被った男の目の前で、哲学人は血塗れで倒れている。見れば山小屋の中には大きな生き物の解体に使えそうな刃物も不自然にならない程度に置かれている。人間くらいの大きさの何かを折り畳んで詰め込めそうなキャリーケースがある。

 見付けたのは俺一人。仲間はまだ山小屋に気付いていない。

 俺はその男に、制止か、なにか、何かを言わなければならないと思っていた。何かを。そのために、息を吐こうとして、つかえて。

「兄ちゃん」

 千聡が言った。

 その声は震えていない。その声は低い。その声ははっきりとしていて、自信すらある。俺に向けられたのは血塗れの刃物で、どう考えても、もう、こいつは俺のことを殺す気でいる。いや、今日までに何度も殺されかけている。なのに。

「どうする?」

 ああ、もう。

 そんな風に言われたら俺は。

 あの頃と全く同じことをするしか、ないから。

「どうしようも、ないな」

 大丈夫。人を隠すのは初めてじゃない。


 『反復』は、存在したんだ。


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