1:【嫉妬心】
各種カメラ三台、録音機、小型発信器、P逆療法式抗哲機とA同質効果式抗哲機(共に試作段階。実験用とラベルがされてある)に、検体サンプル容器、採取シリンジとスポイト、飴玉にタオルに受信機に新品のメモ帳。
職場で私に与えられた空間で、私は装備品の点検をしていた。どれもが私の仕事に関わるもので、どれもが欠かせないアイテムだ。
携帯電話が鳴る。
私は電話に出る。
「ああ、只野さん? こちら哲学人犯罪取締課です。対応は二番をお願いします」
二番。何だっけと思って、思い出す。『哲学人の目撃情報有り』だ。
私の仕事対象の情報が手に入ったということだ。
「取締課にですか」
「現地集……ああ、そうですね。取締課に来てください」
「了解です」
端的な対話で簡潔に終わらせて、私は点検を終えたばかりの道具たちを鞄に詰め込んだ。機材によって重々しくなったそれを背に抱え、バイクの鍵だけ出して、部屋から出る。
「出掛けてきまーす」
「おー、行ってらっしゃい」
気安い言葉を背に受けながら、職場である研究所を後にする。
聡盟大学附置哲学人研究所、フィールドワーク担当研究員である私の、日常業務開始だ。
『哲学人』と呼ばれる生き物が、この世には居る。それは人そっくりの外見で、人の社会に紛れ、異能力を有し、特異な思考形態を持ち、時に人間に害を及ぼす。私は未発見のそれらを探し、調査をするのが仕事だ。
そしてその協力関係にあるのが、哲学人犯罪取締課である。
哲学人管理専用に建てられた警察署に辿り着くと、既に職員二人が待ち構えてこちらに手を振っていた。
「聡盟大学附置哲学人研究所、フィールドワーク担当研究員の、只野です。よろしく」
定型文で挨拶をすると、職員の片方がへらりと笑った。長く伸ばした茶髪に眼鏡の男だ。
「久しぶり、只野さん。ちょっと痩せた?」
「えー……体型のこと聞くのはマナー違反だよ」
「ああごめんごめん。気にしてた?」
「ううん、気にしてない」
体重測定してないし、実際の体型はわからないな。咄嗟の返答にしては良かったんじゃないだろうか。
とにかく、知人らしかったので記憶を漁る。ええと、馬場さんだ。取締課から連絡を貰って哲学人確保に動くときは、大抵一緒に行動する人だ。多分交渉係的な位置付けなんだろう。
その隣に居て、私と彼のやりとりを穏やかに見守ってる大柄な男の人は、関島さん。会うのはこれで、馬場さんと同じくらいの回数になる。
「それじゃ、行きましょうか。こちらで車を出しますから、バイクは置いてきてください」
関島さんに促されて、私は取締課の駐輪場を借りる。車内で情報共有することが多いから、思い返せば私は毎回そうしている。
取締課所有の車の後部座席に機材と並んで乗り込む。六人乗りの車内は荷物を積んでも充分広い。
関島さんが運転席に座ると、馬場さんは助手席に座って、当然のように私の方に振り返った。
「それでさ只野さん、今回の通報の内容なんだけど」
「馬場さん、後ろ向くのやめません?」
「民間人が倒れてる不審者を通報したってことで、本当に哲学人なのかはわかんないんだよね」
「馬場さん。発進しますから、話すなら後ろ行ってください」
「で、通報者は触れてないし、今周りに人は居ないってさ」
止めてるのは関島さんだ。
そういえばこんな人達だった。記憶が鮮明になって、肩の力が抜ける。
なるほど、少し緊張していたらしい。
関島さんに言われて、馬場さんは機材を押し退けて私の隣に座りなおす。
車が発進した。
「で、倒れてた仮定哲学人の特徴なんだけど。足に枷と鎖とでっかい鉄球が付いてたらしい。拘束状態ってこと」
「ああ、どっかの違法団体から逃げてきたとかかもね」
「そーだよねー。ってことは取り戻そうとする馬鹿が居るかもしんない。ので注意してほしいな」
ふむふむ。つまり、敵対組織からの妨害があるかもしれないと。
私は車内を見渡してから言った。
「なんで三人だけなの?」
「事件性なさそうだから」
取締課の言う事件性は『哲学人が民間人に被害を与えるか』だ。人間同士の小競り合いは無視される。
馬場さんは後部座席を指差した。そこには元からいくつかの機材が置かれている。
「ささっと行って足枷切っちゃって、ささっと回収して終わろ」
「そうしたいね」
切る道具は持ってきてるということか。流石に私の道具にそんなものはないので、取締課側で用意してくれないと困る。
車を走らせて一時間。哲学人がいるらしいという、住宅街のど真ん中に私たちは辿り着いた。平日の昼間だけあって、人通りは少ない。そこに、目的の人物は居た。
胸まで届く長い黒髪を乱した、片足が足枷と鉄球により拘束されている男だった。草臥れた様子でコンクリートの地面に座り込んでいる。額には擦りむいたような傷があり、ほんのり血が滲んでいた。血の色は赤い。人間と同じ。
身体構造は人間と大差なさそうだ。傷の修復能力があるわけでもない。外見はただの成人男性。
しかし、何より目が行くのは。
「顔が良い……」
「当然だ」
思わず呟いた言葉には、不満げで傲慢な返事が返ってきた。かと思えば、自信満々に言ったはずの彼は照れ臭そうに咳払いをする。なるほど、そういう性格か。
「取締課、というやつか?」
彼の質問には、関島さんが答えた。
「そうです。哲学人らしき実体が倒れている、と通報を受けて参りました」
「実体……」
「すみません」
悪びれない関島さんの態度に、彼は救いを求めるような眼差しをこちらに向けてきた。
座り込む彼に合わせて、私もしゃがみこむ。間近で見る彼はやはり、顔がいい。転んだのだろう、ぐしゃぐしゃに乱れた黒髪ですら、艶があり美しいのだとわかるのだから相当だ。こういう認識災害でもあるのかと思うくらい。
私はまず、足元の鉄球を押す。非常に重い。私の力じゃびくともしない。
「この足枷はどこで付けられたの?」
「俺の……能力によるものだ。制御できるようなものでなくてな」
「なるほどね。哲学人名は?」
訊ねると、彼は目を逸らす。近くで見たその目は赤く、瞳孔の代わりに金色の十字架が刻まれている。
カラーコンタクトには見えない。
「……【ルサンチマン】。証明する手段は、無いのだが」
「あー、大丈夫大丈夫。証明するのが私の仕事なんだよね」
哲学人かの判定は、フィールドワーク担当研究員の必須技術だ。これができないと仕事にならない。哲学人は殆どが外見的に人間と一致しているんだから、哲学人かと思ったらただの人間でした、なんてことを出来る限り減らす必要がある。
さて、ルサンチマンね。
私は思い出す。十九世紀の西洋哲学に由来する用語だ。アンチクリストで有名なニーチェ由来で、宗教的な意味合いが含まれてた気がするから、目の十字架はそれが由来と考えれば齟齬はない。
「どこから来たの?」
「……どこから話せば良い」
「話せるところから」
「知人が、この国に居ると聞いて。兄の手を借りてやって来た。そのうちに迷子になってしまってな……」
目線や態度を、記憶を参照して分析する。不機嫌そうな表情だけど、うん、嘘は言ってなさそうだね。
「お兄さんも哲学人?」
「ああ。哲学人【あれかこれか】と、呼ばれている」
なるほど。【あれかこれか】も十九世紀の生まれだ。思い出しても、まだ発見されてない哲学人だという結果になったけど。
同じ哲学者に提唱された哲学から生まれた哲学人は、兄弟意識を持つことが多々ある。だから、兄という存在を言及するのは変じゃない。ただ……おかしいな。
私は試作品の抗哲機二つを取り出す。どちらも手で持てるサイズだ。
「それは?」
「抗哲機」
「……それは」
「ああ大丈夫、所謂『哲学人の存在を揺るがす』機械とは違うから」
ソクラテス抗哲機とか、will能力制御装置とか、有名な機械は哲学人の発する能力の根元を抑え込んだり遮ったりする結果として哲学人自身に害を与えかねない。けどそういうのは免許が要るし、私には使えない。
持ってきた装置の詳しい仕組みは知らないけど、ただ、使い方は教えられてる。
「哲学的な親は?」
「……キルケゴール」
「確かに【あれかこれか】はキルケゴール哲学だけどさ。【ルサンチマン】はニーチェの概念じゃないの」
「フリッツは良き友人だった。が、それだけだ」
ぶっきらぼうな返答。
ニーチェのファーストネーム何だっけ。ええと、ああ、フリードリヒだから愛称がフリッツになるな。
知識や態度的に、本当に長生きしてる哲学人かもな、と思いながら抗哲機の反応を見る。
……反応有り。ってことは高確率で哲学人か、その能力暴露者だ。
「それじゃ質問の続き。君の能力について説明して」
「……説明、か」
「私に使ってくれてもいい。哲学について語りたいならどうぞ」
哲学人は、『哲学用語という概念が人の形をとったもの』だ。哲学とは人間の作り出したもので、人間が他者に広げようとした学問全般。その性質を強く受け継いでいて、大抵が自分の哲学を他人に知らしめることを本能的な欲求として備えている。語りたがりで教えたがりな生き物だ。
なんだけど。
「……特定の感情を向けられた人物に、枷が付く。以上だ」
「特定の感情って?」
「俺の名と等しい」
ルサンチマンの、意味。確か、『反感』?
周りくどい言い方をする。自分で考えて答えを出せというのは、実存主義系列の哲学人なら時々あることだけど。
どうも彼は、言いたくなさそうな雰囲気を醸し出している。
「私に対して使える?」
「……意図的には、無理だ」
「そう」
……哲学人だと思い込んでる人間の線も、まだ否定しきれないな。矛盾もあるし。
じゃあ、能力を目の前で使ってもらうしかないか。あえてこちらに『反感』を持ってもらおう。
「これ君の能力なんだよね? 切っちゃって大丈夫?」
「問題ない」
「良かった。馬場さん、金属カッター」
ついでにサンプル採取もしとこう。
私だけが馬場さんから渡された防護眼鏡を付けて、彼の足枷に付いた鎖に向けて電動のカッターを起動させようとして。
「ちょーっと待ったぁ!」
呼び止める、やたら大きな声に動きを止めた。
見れば私達の乗ってきた車とは反対側に、白い車が停まっていて、拡声器を持った子供がそのサンルーフから上半身を乗り出している。中学生くらいだろうか。
「あれは……」
「TK会の人だね、見たことある。確か……」
私は記憶から、あの危険人物についてのデータを思い出す。呈する恵智の会、という哲学人信奉者による国際テロ組織の構成員として指名手配を受けている、名前は……。
「こーんにーちはー! 僕は! 呈する恵智の会所属! 兼子! 洋! でーす! 哲学人様を取り返しに参りましたー! ってわけで引き渡し要求しまーす!!」
思い出す途中に答えが叫ばれた。
「……だそうで」
「嘘だろ」
これは堂々とした名乗り上げに対する驚きの『嘘だろ』だろうな。わかるよ、私もビックリした。
対応は警察二人に任せることにして、私は子供に背を向ける。鎖の処理が先だ。火花とうるさい音と共に、金属は削れていく。
拡声器越しの声は、騒音を押し退けて届いてくる。
「あーそこの人も視線こっち頂戴! ほらほらカメラあるよ!」
「いやー、こっちもカメラあるからさー」
「確かに! ってそういう問題じゃない! 僕を! 見て!」
「何か仕込んでそうだから嫌でーす」
「しっつれいな! 純粋なただのビデオカメラだよ! そして僕は兼子! 皆の視線が欲しいだけの切り込み隊長! 君のまっすぐな目線が欲しい! 注目を浴びたい!」
よく喋る子だ。そしてそれに答える二人の態度にも緊張感がなく、背後が気になって仕方がない。
ちらちらと振り返りたくなる心を抑えて、集中しろと自分に言い聞かせる。すると。
「只野さん、そのまま」
「え」
しゃがんでる私の頭上を、なにかが高速で通りすぎた。
それは【ルサンチマン】の背後に居た何かにぶつかり、重々しく物騒な音を立てて地面に落ちた。
見れば投げ付けられたのは機材だったカメラの一つで、ぶつかったのは人間だった。
関島さんは【ルサンチマン】を庇うように前に出る。
「……貴方もTK会の方ですか?」
「さあな」
関島さんと対峙するその人の顔を見る。思い出す。彼は一度見たことがある。
確か前も哲学人の輸送中、あのうるさい兼子って奴と一緒にいた。つまりチームなわけか。
車の運転手含めて、あと二、三人居そうだな。
ああこれ、急いだ方がいい。
私はカッターが壊れるのを覚悟で、力一杯鎖を切る。
「切れたよ」
「彼を車の中に!」
「させるか!」
【ルサンチマン】を手に入れようとする男は関島さんが対応する。
その隙に馬場さんに押し込められて、【ルサンチマン】は車に転がり込む。半端に切られた鎖が引っ掛かってまごついたけど、問題ない。私も後を追う。
馬場さんがエンジンをかけた。扉を開けたまま発進する。
「乗れ!」
関島さんに言ってるなら無茶だよ。あと少し届かない。
それでも彼は飛び込んだ。足りない半歩分を、馬場さんが引っ張り上げて車に引き込む。入りきらなかった足が地面に擦れる。
運転席に乗り込んですぐさま、関島さんはハンドルを握った。
「危なかったぁ……」
「うっわ、撃ってきてんよあいつら」
背後からは銃声が届く。運良く当たりはしなかったけど。
銃刀法を知らないのかあのテロ組織。
■
「哲学人様ー! 研究所は自由がないですよ! うち来ませんかー!」
後ろからはこんな声。助手席では馬場さんによる応援要請の通信。運転席では関島さんの呑気な「困りましたねー」の声。私は慌てながら、万が一に備えて発信器の準備。
彼らを撒くために車を走らせるうち、私達は大通りに来てしまった。一般車が普通に存在する中、二台の車が法廷速度を完全無視した車が走り回っている。距離は大きく広がったけど、逃げ切るにはまだかかりそうだ。
最悪だ。
「……愚かだな」
私の隣で、【ルサンチマン】は言った。
「その心は?」
「彼らだ。哲学人という、異能力への畏怖でしかない。恐怖する対象を己のそばに引き込もうとする、それだけだ。それが不可能であれば攻撃する。結局は、高みに居るものを引き摺り下ろそうと……」
言って、彼は大きくため息を吐いたあと、俯いた。
「俺のようなものを、神かなにかのように扱うとは……本当に、愚かだ」
自虐的だ。他人を巻き込んで全員を虐げるような部類だけど。
これは収容後の心理ケアも視野に入れるべきかな、とすぐ思い出せるようにメモをする。メモをしながら。
「研究も進んでるし、神と呼ぶには身近すぎるよね」
言った。
ごとん、と。足元で音がした。なので見ると、そこには鉄球が落ちている。良く見ると右の足首には枷があって、鉄球と鎖で繋がっている。足を動かすと、簡単に動くくらい、軽いけど。
きっとこれは彼の能力だ。目の前で異能力を使用されたら哲学人と確定できる。だからまあ、ありがたいけど。
私は今、彼の意見に同意したはずなんだよね。
「……なんで?」
「すまない」
「いや、理由」
「その……感情は、自在ではないのでな……」
「感情に由来するのは、ええと、さっき聞いたよ」
「俺は、【ルサンチマン】なんだ」
「強者への『反感』を意味する用語だよね。それは思い出した」
私が言うと、【ルサンチマン】は顔をしかめた。
「それを言ったのは、俺の親ではない」
何か思い出さなきゃいけない気がするな。ええと、ルサンチマンを反感と呼んだのは、ええと、そうだ、ニーチェだ。彼は、信仰心や道徳とはつまり、『弱者が強者に向ける反感に由来する』と説いた。それがルサンチマンだ。だから宗教は道徳は、『弱い人を守ることが善』で、『財力や権力という力を持つこと自体が悪』と設定されていると。
それで、哲学人【ルサンチマン】はキルケゴール生まれって自称してたと思い出した。
ああちょっと、流石に不便だ。意識を逸らしすぎだと内省していると。
突然の閃光。
追って爆発音がした。熱風と衝撃波が襲いかかり、車体が揺れる。横転する。私は咄嗟に哲学人を守るために引き寄せたけど、上下がわからなくなった状態じゃほとんど意味がなかった。
「いっ……」
狭い車内で全身を打つ。頭が強く揺さぶられて目眩がする。痛い。
それでも状況確認をしなければいけなくて、私は目を開けた。
ぼやけた視界では、馬場さんと関島さんが窓の向こう、車外に転がってることしかわからなかった。あの二人、あの一瞬で外に出たのか。
「うわ」
「げっ」
よし、聴覚は無事だ。
出来る限りの情報収集をしなければ。それが私の仕事だから。そう思い、耳を澄ます。
「俺様、堂々登場ー」
ふざけた言葉と共に現れたのは知らない男の声。篭った声は、マスクか何かをしているんだろうか。さっきの爆発を引き起こした人物だろうか。この声の主は思い出……せない。
ああ、私の記憶にはない人物だな。
「な、何が起きた……」
「さぁ……知りませんけど、大方どこかのアンチ哲学人の……」
言いかけたところで、遠くからあのうるさい哲学人信奉者の声。
「ヒマツブシじゃん! はぁー!? 呼んでませんけどー!」
「TK会のカメラ小僧!」
……乱入者同士は知り合いだったらしい。
呼ばれ方は『ヒマツブシ』だそうで。聞いたことない名前だな。とりあえず記憶する。知識はある方がいい。次思い出す糧になる。団体名かコードネームかはともかく。
「っと、今回はお前と遊んでる暇ねーの!」
あっ、しまった。
歪んだドアは易々と抉じ開けられ、私と【ルサンチマン】はその身を晒すことになった。見ればフルフェイスのヘルメットを被った人物がバールを持って立っている。手が伸ばされる。
その男は、【ルサンチマン】を引きずり出して、軽々と抱える。抵抗する気力は私にも【ルサンチマン】にもなかった。
「じゃあな暇人ども!」
ああ、持ってかれた!
■
「あぁー! 信じらんない!」
「ミスったー、爆弾ずりぃー」
私達より悔しそうにしているのは、TK会の方々だ。彼らが地団駄を踏んでいる間に、私は馬場さんによって車内から救出されて、身を起こされていた。
運良く、骨は折れてない。私も、私ほどじゃないけど傷だらけの馬場さんも。
「車使えなくなっちゃった。機材はまだ生きてるっぽい。関島は元気だから単独で追わせる手もあるけど、どうする?」
「ああ、そう……」
何で私に意見聞くのかな。元気という言葉通り、関島さんは自らの足で立って野次馬と交通の整備を手伝っている。あのやたら丈夫な人に判断を頼んでほしいんだよね。まあ、いいか。
あのヘルメット男によって【ルサンチマン】は拐われ、あの『ヒマツブシ』とかいう団体の車でどこかに運ばれているらしい。人目の多い大通りでの事故だ。見物人も多い。何かしらはもう呼ばれてるだろうから、そのまま救急車に乗って治療を受けたい、という余計な思いは忘却の彼方に押しやって、私は考える。
えーと、ええと。なにかないか。考えろ、思い出せ……思い出した、発信器!
「一応、【ルサンチマン】に発信器は付けてる。音も撮れてる……と思う」
「流石只野さん、抜かりないね!」
ポケットに入れている受信機を確認する。痛みで震える手でスイッチを押すと、ノイズ混じりの音声が流れ、画面には位置情報が表示される。よし、壊れてなさそうだ。
「えっほんと!? じゃあさじゃあさ、僕達も相乗りしていい?」
TK会の信奉者が、キラキラした目でこっちを見てきた。
この乱入者は確か指名手配犯で、私の隣に居るのはどう見ても警察だ。それに相乗りとは、図太い神経をしている。
提案者の子供に食ってかかったのは馬場さんだ。
「いや待って、なんで良いと思った?」
「あいつらヤバい団体なの。だから正直研究所や取締課より嫌いだし渡したくない! 敵の敵は友ってことで、ね!」
「そういうわけにもいかないんだよなぁー! お前らもヤバい団体だから!」
「でも車使えないでしょ? 僕らの車貸したげる。詰めたら入るし!」
というやりとりの裏で、関島さんと、別のTK会員が話している。
「あいつらの足引っ張れんなら、警察や研究所に手を貸すのも悪くねぇよ」
「大層仲が悪いようですね」
「そりゃそうだ。殺されたら元も子もない」
「殺す?」
「あいつら、『ヒマツブシ』は哲学人様を殺す為の専門部隊なんだよ。俺らんとこと違って、拘束して即殺すから猶予はねぇ。応援待ってりゃ辿り着いたときには死んでんぞ」
なんとまあ、物騒な集団も居たものだ。記憶しとかないと。
「お前ら動けねーだろ? こっちは無傷が五人。足もある。カチコミなら手伝えっからさ」
関島さんは困ったように笑う。
「妨害行為の帳消しにはなりませんからね」
「俺らは信仰心で活動してんの。哲学人様の命を救えば俺らは自動的に救済される。ブタ箱ぶちこまれても平気だね」
敬虔な信徒なら、警察の邪魔なんかしないで、もう少し穏健な方法で哲学人を信仰してほしい。という私の意見は飲み込んでおいた。
発信器から聞こえてくる声に、【ルサンチマン】のものはない。彼の能力による足枷はまだ私の足に付いたままだし、会話内容からしてまだ殺されてはいないとしても、油断はできないからね。
□
――鎖の音が、うるさい。
ジャリジャリと擦れる金属の音だ。
兄……【あれかこれか】のヴィクトルが近くにいる。彼は今日も人々への怒りを露にしている。
【死に至る病】のアンティは今日も陰鬱な表情で座っていた。
【不安の概念】のヴィギリウスは静かにうたた寝している。
【哲学的断片】のヨハンネス、【反復】のコンスタンティン……彼らは遠くで、俺に背を向けていた。
俺は地面に座り込んで彼らを眺めていた。彼らと話をしたくて、立ち上がろうとするのに、枷が重くて立ち上がれない。歩み寄ろうとするのに、重しが邪魔で歩み寄れない。その声を聞こうと思うのに、鎖の音がうるさくて聞こえない。声をかけたいのに、自分の声すらわからなくて何も言えない。目を向けられたいと思うのに、誰もこちらを見ない。父より直々に名を与えられ、丁寧に描かれ、一冊の本として形作られた、清く正しく美しい彼らは『俺』を見ない!
どうしよう、どうにかしなければ。
俺はもがく。もがいて、どうにか、どうにか彼らの足を掴もうと――
「どうされましたか、【ルサンチマン】?」
――あ。
聞こえたのは知人の声だ。【神は死んだ】が、俺の顔を覗き込んでいる。
気付けば兄達は居ない。
代わりに、知人の弟と妹が、俺の両隣で眠っていた。哲学人【君主道徳】と【奴隷道徳】である彼らは、喧嘩は絶えないが常に離れようとしない、愛らしい子供達だ。
フリッツの作り出した、または見付け出した哲学人達だ。余所者の俺にも懐いてくれて、俺達は家族のように時を過ごすようになった。哲学人にとっての家族とは、同じ思想に属している証でしかないはずだというのに、彼らの間にある関係はまるで人間のそれだった。俺も含めて。
その環境に、俺は満足しなければと思っていた。
それと同時に、兄達の存在が脳裏をちらついた。
【神は死んだ】が言う。
「ああそうだ、悦びなさい【ルサンチマン】。我が父は貴方のことを本に書くそうですよ!」
「それは……」
嬉しい、な。
まるで自分が語られているときのように、【神は死んだ】は喜んでくれている。
本当に、嬉しいことだ。
すべての願いが叶ってしまったかのようだ。
俺はこの時に、もしくはこの前に、兄達のことを忘れてしまうべきだった。
彼らは俺にとって、手の届かない存在だ。彼らは父に倣って敬虔な信徒であり、父に望まれて役割を得て生まれている。彼らは望まれていた。彼らは愛されていた。
俺は、そうじゃない。
俺は、父の創作物ではない。父に育てられた時期の記憶もない。俺はフリッツ……ニーチェという異なる哲学者に拾われてしまった。
そして敬虔な、アンチクリストの的にされてしまった! 俺という存在が俺の信仰を汚した! 俺という存在が、俺の、父の、兄弟達の信条すべてを汚す理由にすらなってしまった! 俺は兄弟を汚す存在になってしまった!
俺は本当に、兄達を尊敬していたんだ。
俺は本当に、兄達のそばにいたかったのだ。
貴方達に少しでも手が届くようにと願って。
貴方達と少しでも並べたらと思って。
貴方達が少しでも近くなればと考えて。
貴方達にここまで堕ちて欲しかったのだ!
それを……。
フリッツは俺のことを、他人の足を引っ張り蹴落とす下衆な行いを『平等』という美しい言葉で飾る、そんな意思であると書いた。つまり彼には全てがわかっていたのだ。俺の、全てが。美しい外見で隠した、全てが。
……痛みで、目を覚ました。身体中の打撲が思考を邪魔するようだ。
先程見えたものは、夢だったのだろう。それも大雑把に数えて百年前の。
「今殺しちまうか?」
「いや、蜂家さんとこまで運ぶ」
「ふーん、めんどくせぇ」
聞こえてきたのは人間の会話だった。
伝わってくるのは人間の感情だった。
『強者への憎しみ』『異能力への畏怖』『遠い存在の足を引く怨念』『己と異なる存在への羨望』『劣等感』『嫉妬』そして『嫉妬』! ああ……。
なんて醜い。
本当に、『俺』は、醜い。
それに比べてお前たちはなんて――
■
発信器兼盗聴器の調子は絶好調だ。ボリュームを上げると、最悪の音質できちんと声を届けてくれる。
TK会の車の中は、『ヒマツブシ』の方々の他愛ない世間話と、それに対するTK会員からの文句で埋め尽くされていた。のだけど。
『……反哲学人、と言ったな』
それが、この一言で全て消える。
【ルサンチマン】の声だ。
「信条があるというのは……それを、真正面から信じ、何一つ間違いないと言い切れるというのは、素晴らしいことだ」
誰もが息を飲んだようだった。彼の声だけは異様に良く通り、誰にも邪魔されず、伝わってくる。
「どれほど否定されようと。どれほど愚かと言われようと。どれほど……それは弱者の道理だと、負け惜しみにすぎないのだと、救いなどないのだと、自身を慰める妄想なのだと言われようと。それでも立ち向かえる強さが、俺にも欲しかった。それでも己を省みない愚かさが、俺にも欲しかった。己の外見だけの美しさに、騙される盲目さが欲しかった……ああ、本当に」
この声は。
「羨ましい」
ゾッとするほど恍惚としていた。
それに寒気を覚えた瞬間、受信機からは大きな破裂音に似た音がする。それからは悲鳴、何かが壊れた音、ブレーキの音、何かがぶつかって止まる音。
つまりは事故に遭ったかのような音。そして、ノイズ。
私と馬場さんは顔を見合わせた。
TK会の人達だけがやたらと嬉しそうに、【ルサンチマン】を褒め称えていた。そりゃあ、君達からすれば信仰対象のかっこいいシーンなんだろうけどね。いや、でも、これは……危険、というか。
発信器が知らせてきた位置情報は、もうすぐそばだ。対策する暇はない。
「見えた。あの事故車だ」
平然と言われた言葉に、最悪の二文字が浮かんだ。
恐らく、あの哲学人は、【ルサンチマン】は今、まともではない。そんな確信がある。だからといって放置できるはずはない。しかし何も思い付かない。事故に遭った彼の救出も、まともでないだろう彼の対策も、同時にこなせることなんて。
私達は、急かされるままに車から降り……そして、立ち止まった。
いや、動けなかった。大破した車から彼が、【ルサンチマン】が現れたからだ。
満面の笑みを血に染めて。
彼は言う。
「他人の足を引っ張りたいだとか」
受信機から、金属音が響いた。
「己より秀でたものを許せんだとか」
目の前から、鎖の擦れる音が響いた。
「己より強いものを野放しにできんだとか」
足元に、無視できない重量が現れた。
「人間ではないものを隔離するだとか」
両手両足を縛る、重々しい拘束が現れた。
私と、警察署所属の二人と、TK会と、そしてこの場にいる人間全員に。その重みに耐えきれず、私は地面に膝をつき、頭を垂れる。
「人とはこれ程に、醜いのか」
その真ん中で哲学人は嘆いている。
髪を乱し、血にまみれ、肉を裂き、自ら招いた災厄に自分自身すら呑まれながら。人々をかしずかせながら。
「嫉妬はそれほどに醜いのか!」
暴走している。
ああ、ええと。こういうときは。どうすればいいんだっけな。思い出せ。思い出せ……。
……万が一の賭けのつもりで、私は言った。
「顔は、良いと思うよ?」
「ははっ」
彼は笑う。心底楽しそうに。心底嬉しくてたまらないみたいに。本当に美しく。
「そうやって他人を認められるなんて、羨ましいなぁ」
っ!
重量が増した。コンクリートにヒビが入る。感情の大きさによって重量も増加するのか。そしてその感情とは。
ああ、なるほど。
そんなことすらも彼にとっては羨望の、『嫉妬』の対象になるのか。哲学人特有の、特異な思考形態だ。それなのに今まで言葉にせず、足枷の出現も最低限しかなかったということは。
ずっと我慢してたのか、彼は。
我慢をやめてしまうのは、それは確かに楽しいだろう。笑いも止まらないだろう。恍惚とするだろう。
気付けなかったのは、研究員としてのミスだ。見くびってしまったのも、良くない。哲学人の異能力は基本的に、人間では太刀打ちできない未知のものだ。
哲学人自身すら蝕むものだ。というのを、私は思い出せていなかった。
哲学人は疲れたように、初めて会ったときのように、座り込む。
「ははっ……ふふ。もうたくさんだ、誰かと関わるのは。俺を閉じ込めてくれ。出来れば誰とも出会わないように。俺は暫く、目を瞑ろう」
「……伝えておくよ」
パトカーのサイレンが聞こえる。
ああ、そうか。TK会から逃げるときに呼んでおいた応援が、今更ながらやって来たわけだ。
皆、身動き取れなくされてるし、増員によって確保完了かな。
……私はなにもしてないけど。
■
おそらく無事に哲学人確保と調査と輸送を終え、なんとか無事に職場である聡盟大学附置哲学人研究所に帰ってきた、ので。
包帯と湿布だらけの私は、講堂で同業者の前に立っていた。
「さーてそれではお待ちかね。聡盟大学附置哲学人研究所にて保護された哲学人【ルサンチマン】の」
出来る限り大振りで。出来る限り大袈裟に。出来る限り声を張り。
私は言う。
「担当研究員決めレース!」
「いえぇぇーい!!」
はい。
研究所内における、哲学人の保護観察の責任者が誰になるか、という話だ。
既に皆何かしらの研究をしているところに哲学人の世話が入ることを、『自由に実験できる対象が手に入った』と考える人も居れば『研究の時間を削られる』と考える人も居るので、誰が責任者になるかっていうのはわりと重要だったりする。つまり、その人の普段の研究内容に関係する哲学人を宛がうのが都合が良い。
で、都合が合いそうな研究員をこっちで数名見繕ったので、その人達で適当に話し合ってもらう予定なんだけど。いつの間にか、選ばれた人達で『担当研究員決めレース』を行うのが定番になっている。
具体的には、レースゲームで決める。
誰が持ち込んだか、講堂のスクリーンにゲーム画面を投影してのゲーム大会だ。発案者は思い出せないから、多分私が知らない間に誰かが始めたんだろう。
きゃあきゃあ騒ぎながら始まった大会を横目に、私は休憩を取る。
と、話しかけられた。
「誰に決まりそうだ?」
「まだ始まったばっか」
誰だっけ。ああ、思い出した。ルイスさんだ。
「ルイスさん、サボり?」
「まさか。俺は真面目だろ」
「そだっけ。じゃあ何。レース参加したいの?」
「主任が哲学人担当は無理だろ」
ルイスさんは哲学人繁殖学主任だ。そういえば、研究主任は哲学人の担当してる時間がないって言ってたっけな。
捕まえて持ってくる担当の私にはあんまり興味がないことだ。
「で、どんな哲学人だったんだ?」
「自称キルケゴール派の【ルサンチマン】」
「性別と外見年齢と性格」
「男。二十代後半から三十代前半。自虐的で我慢強い、かな」
「協力的か?」
「本人はそうだけど、哲学的に辛そう。人と会うと精神的に不安定になるね」
「そーか。そんでこの人選か」
「そ。精神的に安定してる人」
くしゃくしゃ、と頭を撫でられて。ちょっと、結構痛いって文句を言って。
私と彼はこんなに気安い関係だったかと疑問に思って。で、思い出そうとする。
前に。
「おっ、決まったみたいだぞ」
「え」
見れば、心理学部の研究員が優勝トロフィーを持たされている。
ああ、嫉妬心なんか希薄そうだと思って選ばれてた人だ。名前は、そう。
「おめでと、アトウッドさん。というわけでこれが今回の資料ね」
私は【ルサンチマン】の確保に関して得たデータ一式を渡す。録画も音声も全部無編集のままだ。
それに軽い説明を添えたら、私の役目は終わり。
さて、次の仕事に備えて設備点検をしなければ。