苔と神社と黄昏時
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母が病気になった。
全ての始まりはここからだった気がする。
妹にはまだ話していないが、母の体はこの町の老医師も診断したことがないような奇病に侵されていた。
そうだな、さっきの「病気になった」という表現には誤りがある。
母の病気が発覚した。とでも言っておくとしよう。
名もない奇病に侵されている母は、苦しそうな素振りも一切見せないでここまできたらしいが、息子の立場からすると、そんなこと早く言ってくれたらよかったのにと思う限りだが、僕ももう高校生にもなるわけだし、母のそんな気持ちもくみ取ってやれないところが情けない。
母曰く、「見せなかったんじゃなくて、気づかなかった」らしいが、はたしてどこまでが本当の話かなんていくら息子の僕でも、わかるはずがなかった。
奇病の詳細な説明は僕自身も、なんなら母でさえ聞かされていないのだからあまり丁寧に話すことはできそうにないけれど、どうやら「AIDS」所謂「後天性免疫不全症候群」の精神版みたいなものらしい。
どこでいつ感染、最早感染病なのかすら危ういけれど、したのかも不明なわけで当然特効薬もなければ治療法も分からない。
精神疾患の一種なんだろうけれど、何もしていないのに気持ちの免疫力が低下し、自分や周囲に対して悲観的に考えるようになるのだそうだ。
元々、うちの母はそんなに気が強い方でもなかったし、ネガティブ思考だといわれれば納得するしょうな人間だったので気づかなかったんだろうが。
まあ、たとえ早期発見に至っていたところで、治療法も症状を和らげる方法もないのなら、むしろ気づかなかった方がましなのかもしれない。
知らぬが仏ということも、世の中には沢山あるんだろう。
といっても、すでに知ってしまった現実を変えることはできないわけだし、このまま放っておけば母の命が危険だ。
体の免疫力が下がらないので問題ないというような簡単な話ではない。
心は生命活動において心臓や脳に並ぶ重要な機関の一つだ。
今はまだ鬱のような症状だが、これが悪化すると最悪、自殺だってあり得る。
そんな状態の母を放っておけるわけがなかった。
話をする上の前提条件みたいなものを語るだけで、結構な量の時間を消費してしまったことに関して、謝罪したいばかりだ。
ここからが本題だ。
俺は元々諦めが悪い性格だったし、自分で言うのもなんだが正義感が強い人間だったんだなと思う。
母の様態が悪化していく中、俺は少しでも母の心を癒してやろうと母をとある山の山頂へと連れて行った。まだ小学生だった妹を近所のおばさんの家に預けて、俺とお母さんは山へ何度も登っては星空を見上げていた。
あの時の母はまるでそんな病気のことなんて忘れてしまったかのような輝いた眼をしていたことを鮮明に覚えている。
「ここに来ると、心が落ち着くのよ」
特に難しい言葉を使うわけでもなく、母は俺にそういった。
高校生にもなるというのだから、もう少し大人扱いしてくれてもいいものなのに、と思ったが、今は逆に母のほうがまるで子供のようになってしまっているのだと、感じた。
「綺麗ね・・・・・・鷺香も連れてこれたら良かったのにね」
小学生の鷺香にはまだ、母の病気の話をしていなかった。
幼い妹に真実を打ち明けるのは、到底無理だと思ったからだ。
俺たちは、都会へ単身赴任している父とは疎遠というか、あまり仲が良くなかった。
仲が良くないというか、1年にほんの数回しか帰ってこない父と、他の家庭と同様の関係を築くことなんて正直不可能だと思った。
特に嫌っていたわけでもなかったが、近所のおじさんのほうがよっぽど父親だと思っていたのは事実だ。
そんなこともあり、妹はねっからのお母さん子だったので、母の病気の話をするにはあまりにも、心苦しかったのだ。
「母さんと散歩に行ってくる」
妹にはそう告げて、いつも、家を出ていた。
しかし、母がこうして、外の世界で生活できるのも恐らくあとほんの少しの間だけなんだろうなと悟った頃、俺は学校の帰りに一人であの山に登った。
夕方の山道は、真夜中とは違って、木々の隙間から夕陽の木漏れ日に溢れていた。
そんな夕暮れに、俺はそれを見つけた
「ここは・・・・・・」
真夜中にしか来たことがなかったので、暗くて気づかなかったんだろうか。
俺と母さんが通っている山道の傍に、大きな鳥居があった。
石段を登って、少し道をそれたところ。
ある種の山頂といってもいいのではないだろうか。
俺は、その鳥居をくぐり道を進んだ。
「わぁあ・・・・・・」
正直、言葉にならなかった。
こんな場所には来たことがない。
辺りを木々に囲まれ、柱には苔がぎっしりと生えている。
賽銭箱と思われる四角い箱にはなにやら今の時代の者ではない硬貨が幾つか入っていた。
神社である。
何もしないで触るのは、いくらこんな神社であっても縁起が悪いし失礼だと思ったので、一応、今の五円玉ではあるが賽銭をいれ、参拝のようなことをしておいた。
何を思ったか、せめてこの賽銭箱だけでもと、俺はその日掃除当番だから学校へ持参していた掃除用具セットを取り出し、苔をはがして泥や砂を洗い流し、優しく磨いておいた。
すると、賽銭箱の前面の中央に、鈴のマークらしきものが浮かび上がってきた。
俺は初めて、このタイミングでここがどういった場所なのかということを悟った。
ここは、この神社は、この村に昔から伝わる古の神社。白鈴猫神社だ。
平安時代、この村で生まれたとされる陰陽師「和泉定兼」が都で起こったとある事件の犯人であるという罪を着せられ、この生誕の地で身を隠すために建てたとされる神社だ。
いわくつきの神社なんて言われているのを聞いたことがあったが、確かにこのありさまではそう捉えられても仕方ないだろうと思った。
そんなことを思い出してしまったので(厳密には思い出させられた)ほかの場所も掃除しておこうという気になった。
このまま帰ってはせっかく見つけて少しの時間居座ったというのに、一部しか掃除しないで他を放置したとなると罰が当たりそうだと思ったからというのと、この神社に祭られている神様とやらに母の病気を治してもらえたらいいのになという淡い期待を抱いたからだ。
辺り一面にぎっしりとしきつまった苔をはがし、磨く。先ほどと全く同じやり方で他の柱や床を掃除する。
「ふぅ~・・・・・・やっぱ一人はきついな」
なんてそんな独り言を吐きながら作業を進めていくうちに、結構な時間が経過していたようで、気がつけば辺りはもうずいぶん暗くなってきていた。
「黄昏時」である。
そろそろ帰らないと心配かけるな、なんてことを考えていたその時だった。
「お前、そこで何をしておる」
背後から、老人の声がした。
「ああ、山を登っていたらたまたまこの神社を見つけたもので、あまりに汚れていたものですから、掃除していたんですよ」
「お前、最近の若者にしては言葉遣いが丁寧だな。大切にするといい」
「あなたは・・・・・・?」
「私はここの管理者みたいなものだよ。態々掃除なんてさせてすまなかったな。礼を言う」
「いえいえ、とんでもな・・・・・・い」
俺は目の前に立っている男の顔を見て一瞬声を失った。
「ほう。この姿を見ても、大声を出して逃げ出したり恐怖のあまり気絶したりしないのか。やはり、お前珍しい」
「あ、あなたは一体・・・・・・」
「言っただろう、私はここの、この神社の管理者だ。参拝客はいなくなっても、神までいなくなったりはせぬぞ」
人間では考えられないような大きな眼。白い体毛にピンッと立った耳。
鼻の下からは左右に三本づつ長い毛が生えている。
その見た目は「猫」そのものだった。