回収
涙を拭いもせず泣く珠緒を見て、悟は珠緒を初めて正面から見ている気がしていた。
何年も、それこそ十年以上珠緒はずっと悟の側にいたというのに。悟はずっと避け続けていた。
それでも寄り添おうと側に居た、この幼馴染を。
「取り敢えず続きをしようか。俺としたいんだろ?」
珠緒は、何を?と言いたげに悟を見つめる。
「キス」
悟は短く返す。
珠緒はハッと息を飲んで頷く。
「うん」
珠緒は素直に机に向かい直した。
悟は素直な珠緒を可愛いとさえ思っていた。悟より少しばかり背の高い年下の幼馴染。顔立ちはけして可愛い部類ではないし、ましてや筋肉質な男だ。
なんでそんな事を考えたんだろうか。本音ではキスだってしたく無い。そう思っている筈なのに、約束してしまった。
どうせ現状のビリから一番になんてそうそう無いのだ、と思い直して悟は懸命に問題と向き合う珠緒に目を向けた。
★
放課後はいつもの場所で───。
まるで逢引みたいだ、と悟は思った。
珠緒との勉強会は意外にも続いていた。
珠緒は真面目に取り組んでいるし、分からなければ、すぐに悟に質問した。珠緒は頭は悪くないのだ。ちょっとイカれた馬鹿なだけで、勉強を全くしなかっただけなのだ。頭は良いのに馬鹿なんて、気の毒な奴だと悟は思う。
真剣に教科書とノートに視線を落とす珠緒。
伏せた目元に掛かる少し茶色い髪が、窓から吹き込む風にサラサラと揺れていた。
睫毛も髪と同じ色で、女性のように長く、瞳を縁取っている。
ふと、伏せていた瞳が悟を見上げる。
ビー玉のような光沢のある濡れた瞳。
少し細めて破顔する表情。
控えめに傾げながら、何?と珠緒は聞いてくる。
「なんでも。風があるね。窓を閉めるかい?」
悟は幼馴染の落ち着いた仕草にこそばゆく思いながら、打ち消すように、酷く優しく聞く。
「大丈夫。さっちゃん暑いでしょ?もう時期夏だね」
再開して、春が過ぎ、梅雨の季節も終わりに近付いていた。
この三ヶ月弱の間に、珠緒は人が変わってしまったようだった。
悟に対して感情を剥き出しに迫ってくるだけだった少年。
それが適度な距離で悟に気を使う日がくるなんて考えもしなかった。
少し、背が伸びたな───。
少年から脱皮し始めた珠緒を見つめ、悟は複雑な心境になる。
───俺が狂わせたんだよな。
意図してそうしてしまった訳ではない。だが、確実に悟は珠緒のスイッチなのだ。
普通の幸せを掴んで欲しいと思う。
悟は、情に絆されはするが、有るのは情だけだ。
けして、珠緒や亮治が望む程の気持ちを返してやれない。
悟はノーマルである。
初恋などはまだ経験は無いが、確実に同性をそういった目で見る事は出来ないのだ。
悟のアイデンティティが揺らぐような出来事なのだ。
同性を愛だの恋だので括ってしまう行為は。
そうなると、悟は自分の脳で処理する範囲を超えてしまうのではないかと思う。
親愛という感情はこの先ゆっくり育むことは出来るかも知れない。
家族愛的なものにはなるかもしれない。
だが、一種の麻薬的な興奮する感覚は持てないだろう、と確信めいたものがあった。
熱に浮かされるような感覚、ではないのだろうか───。
恋というものは。
まるで探していた半身を見つけたような。
手に入れたくてしようがない。
貪り尽くしてしまいたくなるような。
それでいて、手元に置いて優しく尽くしてしまいたくなるような。
そんな感覚ではないのだろうか。
「さっちゃん?」
珠緒の声にハッと我に返る。
「ごめん、何かな?」
「ここなんだけど……」
「どれ?」
珠緒の手元を覗き込みむ。ああ、これはね、と続けようと視線を上げる。
珠緒が矢張り泣きそうな、それでいて、一瞬でも逃したくないといったような辛そうな顔をしている。
バツが悪くなって悟は視線を落として説明をした。
その日はギクシャクしたまま終わり、悟は足早に帰寮した。
珠緒の顔は最後まで見れなかった。
珠緒はきっと不信に思った筈だ。
でもそれも後少しだ。
後数日で始まるテストまでの事だ。
一緒に勉強を始めてから、色々な事に気付いた。
意外と几帳面な所。
緊張すると指先が冷えるのか、掌を擦り合わせる癖。
押しは強いのに、押されると弱い事。
困ると眉尻を下げて愛想笑いをする事。
そんな細かな珠緒の仕草やなんかに気付くことは、もう無いのだろう。
珠緒は、テストが終わり次第、転校すると言っていた。
このまま、適度な距離が保てるのであれば必要ないのではないかと悟は考え初めていた。
穏やかな珠緒との夕暮れの勉強会は少し居心地が悪くて、色々な発見が少し楽しくもあったのだ。