親愛なる変態さん
真壁 悟はつくづく不器用だ。
欲しい物はいらない。
やりたい事はやりたくない。
要は天邪鬼なのだ。
例えば、それは小学校入学前の事。
彼は新しいランドセルを眺めながら毎日はしゃいていた。人知れず。
両親の目を盗んで毎日枕元にランドセルを置き、新たな新生活に胸を踊らせていた。
入学し、毎日ランドセルを背負って登校する際は意味もなく誇らしかった。
だが、ある日の帰り道、幼稚園のバスから降りて来ただろう園児が何気ない仕草で大事なランドセルを触ったのだ。その園児の手はびっくりする程汚かった。
はっきり言って気が気じゃなかったが、小さな悟に対して本当に申し訳なさそうに謝る園児の母親に怒る気になれなかった。園児本人は理解出来ていないのか、呆然と突っ立っている。
園児に対する小学生なりの怒りと園児の母親に対する哀れみのような感情。ランドセルを嬉しそうに一緒に選んでくれた両親の気持ち。
色々パンクした結果、強がってしまった。
泣き出してしまいたい気持ちをぎゅっと目を瞑り、こめかみに力を入れて堪えた。
「別に大した事じゃないし!全然へいき」
お見通しの園児の母親は一層悲しそうな顔をしてから、鞄からメモを取り出してさらさらと住所と氏名、連絡先を書き、簡単な経緯を添えた紙を悟に渡してきた。
「本当にごめんね。お母さんに渡してくれる?」
悟は頷くと紙を受け取り、園児を見た。すると、園児は何故かキラキラした目をして悟を見つめている。この時の悟には分からなかったが、それは恍惚した表情であった。悟は意味の分からないゾッとしたものを感じ、足早にその場を立ち去ったのだった。
帰宅後、悟は母親に紙を渡すと、ショックの余り寝込んでしまったのだった。
それから2日後、件の親子が菓子折り片手に訪れ、悟は嫌々ながらも自分の母親と対面した。
あの子の目は何だろう。なんだか恐い。
悟はそう感じたが、獲物を得た園児、早坂 珠緒は悟の気持ちなどお構い無しに堂々と悟の生活圏へと進入してきたのだった。
残念な事に、珠緒は悟の家の近くに住んでいたのだ。それでもまだ珠緒が入学前はまだ良かったのだ。珠緒の母親という手綱があった。入学してからはずっと地獄だ。朝の登校、学校の休み時間、果ては下校、帰宅後の放課後。至る所で珠緒の追撃を受け、元から素直では無い悟はより捻くれてしまったのだ。
ーーあの、笑顔が恐い!
悟の両親は防波堤にはならず、幼馴染として快く珠緒を迎え入れた。悟の拒否を感違いし、また悟の天邪鬼がでたなぁ、と嬉しそうに珠緒を招き入れるのだった。
それから11年後、高校は必死で勉強し、県外の全寮制に入学し、悟はやっと解放されたと油断しきっていた。
それがまずかったのだ。
★
4月、悟はいつものように寮の自室から出て食堂に向かった。今日の定食は何だろうかと考えながら歩いていた。途中で何人かの新入生らしき人とすれ違った。初々しい雰囲気が何だか悟までも新しい気持ちにさせるから不思議だと思った。
今日は、鯖かぁ、と定食を貰い受けるトレーを手にしながら嬉しくなった。好物だからだ。
席に着き、食べ始めると声を掛けられた。
「隣座ってもいいですか?」
「どうぞ」
視線を上げずに素っ気なく答えた。今は鯖よりも優先させる事は無い。
「さっちゃん良かったね、大好物の鯖だね」
悟は目眩を感じた。いや、感じただけでなくて実際に椅子ごと倒れた。悪夢だと思った。
「なんで、こっ、ここに?」
酷く狼狽えた様子の悟に周りもざわざわとしだした。悟に反するように声を掛けてきた生徒、珠緒はにんまりと微笑んだ。
「やだなぁ。さっちゃんが居る所には僕がいないとダメでしょう?だってさっちゃんを盗撮……じゃないな、ストーカー……これも違うな、兎に角つけ回す事が出来ないじゃないか」
どれもこれもまずい。
「俺なんかつけ回してどうするの」
これは何度も過去にした質問だが、悟は未だに珠緒を理解出来ないので何度も聞いてしまう。
「さっちゃんのそういう鈍感力大好きだなあ」
珠緒は狂気じみた笑顔を浮かべて笑っている。やっぱり悟は背筋をゾッとさせる。悪夢よりもタチが悪い。悪夢は所詮夢であって現実ではないからだ。今、目の前にいる、悟に異様な執着を見せる男は確実に現実なのだ。
「さっちゃん、骨除いてあげようか?中学の頃はよくさっちゃん家でご馳走になったよね。懐かしいなあ。さっちゃん骨取るのが下手だから僕が毎回やってあげてたじゃない。ほら、貸してよ、遠慮しないで良いからさ」
遠慮なんかしていない。只々引いている。
「ほら、さっちゃん出来たよ。今日から全部してあげられるね。嬉しいなあ」
「もう高校生だから、こういうのはちょっともういいよ」
悟が懸命に辞退を申し出ると珠緒は可笑しそうに笑う。
「さっちゃんったら相変わらず天邪鬼なんだから!そんなに僕とまた一緒で嬉しいんだね」
今のは天邪鬼では無い。
断じて違うのだが、悟はそれ以上は言えなかった。十年来の付き合いにもなると最早諦めた方が早いと言うことを知っているからだ。悟が拒否したり、恐怖に顔をひきつらせる度に、この変態は大喜びするからだ。唯一の抵抗は珠緒に身を任せる事。可笑しな話だが、それが一番精神衛生上良い事を悟は知っている。
「今日はさっちゃんと久々に一緒に寝ようかな。その前にお風呂も一緒に入ろうね。さっちゃんはどれくらい成長したかなあ。楽しみだなあ」
涙が出るほど嫌だ。悟は泣く泣く珠緒に付き合うハメになるのだった。
目の前にいる涼しい顔をした美しい顔の変態、珠緒を制御出来るのは珠緒の母親しかいない。その母親もここには居ない。完全に詰みである。
悟は引きづられるように食堂から消えて行った。