人生の引継ぎ
長い長いトンネルを抜けてバスが抜けた先には、空高く昇る太陽がまぶしく照らし出す海が広がっていた。
山の斜面に沿って続く道路からはきらきらと眩い反射光を放つ海を眺めることができ、バス内の空気は一瞬で喜色で染められる。
視界いっぱいに広がる海。多くの人で賑わう浜辺。風情のある沿岸部の街並み。夏色に染められたそれら全てが、バスの中の一人一人に期待と高揚感を与えていく。
「はい!ついに着きました!今回のイベントのメインである、えー、海でございます!」
「遠藤君テンション高すぎ!落ち着いて!」
「海なのは見ればわかるよ!」
バスの先頭にてマイクを握る遠藤が勢いのままに進行を進め、そのたびにヤジや笑い声が飛びかう。バス内の空気はとても明るく、これからの動きについての説明に移れば、全員はその話題に夢中になる。
大学の美術系サークルで3泊4日の合宿を行うことになった26人の大学生たち。彼らは夏休み前から随分と計画を練り、多めの資金を募って今回の合宿に臨んでいる。
宿泊施設は海を見渡すことができる海岸沿いのホテル。予め昼食と夕食は店の予約を取り、サークル活動ができるように近くの会館にて大きめの部屋を予約している。
それに加えて何と言っても目の前に広がる海である。自由時間は多めにとっているので、海で思う存分遊び倒すことができ、内陸部に大学がある彼らにとっては数年ぶりという者も多く、心が浮き立つのも当然であった。
最終日前の夜には花火も打ち上げられる予定で、天気予報も快晴が続くとのことで、まさに楽しみ尽くしの合宿である。
「あ~早く海に入って泳ぎてー!」
「まずはホテルにチェックインするんで、その後に駆り出したいと思います!」
「ホテル楽しみだな~。ネットでは結構評価高かったよね?」
「3年前くらいにできたばっかりなんでしょ?すごく設備が整ってて、露天風呂とかサウナもあるって。」
「マッサージとかもあるって!お金は追加でかかるけど。」
「私行ってみようかな。最近肩凝ってて辛いんだよね。」
バスが走る中、思い思いに予定を話し合う学生たち。
しかしその予定は唐突に崩れ落ちることになった。
バスが大きく揺れ、左右に揺さぶられた彼らは窓ガラスや前の座席などに体や頭をぶつけ、立っていた者はバランスを崩して倒れこむ。
「きゃあ!」
「うわっ!」
何が起こったのか理解する暇もなく、バスは山の斜面から滑り落ち、土砂に押しつぶされたのだった。
視界いっぱいに広がる青。
それは時に暗く、時に明るく。
青は赤くなり、緑になり、黒になり、白になった。
全てが一色に染まり、またそれを色と認識できる自身もまた、一色に溶ける。
何もない。ただ色があるだけ。見ているのか、そこにあるものなのか、ただ目を閉じているだけなのか、夢なのか。何もわからないままに、時は過ぎる。ただ、過ぎていく。
どれくらい経ったのかわからない。しかしそれは唐突に訪れた。
一瞬無に呑まれ、そして吐き出されたころには、そこは見渡す限り一面の花畑だった。
空は黒く、太陽など出てはいないのに、なぜか花畑は鮮明に見渡すことができた。
色とりどりの花々。紫や黄、赤、青。金や銀などもあり、その全てが見たこともない美しさで咲き誇っていた。
足元を見る。そこにも花はあったが、なぜか自身が踏みしめているそこだけは何もなかった。
地面もなく、ただただ黒い、まるで何も存在しないかのような不確かな空間。
歩を進める。すると花はひとりでに動き出し、まるで足をよけるかのように周りに詰めると、そこには先程と同じ黒い空間が出来上がった。
また周りを眺める。やはり、花畑以外のものは何も見当たらない。
空も、雲も、太陽も、海も、地面も、道路も、家も、動物も、虫も、人も。花以外の何物も、ここには一切存在しなかった。
「ここは、どこ?」
ひとり呟く。
花と女性が一人。ここにはそれ以外存在しない。
女性の疑問に答える者もまたおらず、聞く者もまたいない。
女性は静かに座り込む。花はやはり女性をよけて、何もないそこに女性は腰を下ろした。
「私は、なんでここにいるの?」
意味も分からず、何も考えがまとまらないでいる女性は、浮かぶ疑問を小さく漏らす。
やはり答えが返ることはない。
「・・・私は死んだの?」
浮かぶのは、先程まで友人と笑っていたあの光景。バスの中で合宿についてのあれこれを楽しく語らっていた光景が目に浮かぶようで、女性はそっと俯く。
その目の端には涙が浮かんでおり、いつ決壊して流れ落ちてもおかしくはなかった。
死の直前の記憶がなく、なぜ自身が死んでしまったのか、本当に死んだのかがわからず、けれどたった一つの事実が浮かび上がり、一層雫は大きくなった。
ここに友人はいない。先ほどまで語らっていた友人はおらず、サークルの仲間はおらず、人がおらず、ならば当然家族もおらず。
大切な姉や、妹弟たちはおらず、自分をここまで大きく大切に育て上げてくれた愛すべき両親もいない。
あるのは花だけ。どこまでも広がる美しい花畑がそこにある。
「嫌だ・・・。お別れも言えなくて、あんなに楽しかったのに、ここで急に終わりなんて。」
当たり前に明日があると、楽しい合宿を終えて、大学生活を謳歌して、社会に出て、家庭を持って、両親を看取って、老いて、死んでいくと。そう思っていた女性は、当たり前に思っていた女性は、むせかえるような熱い思いに身を焦がすように、自身の身体を抱きしめて身を揺らす。
「けれど、それが現実だよ。」
急に聞こえた声に身を震わせて、女性は声が聞こえた正面に目を向ける。
そこには少女がいた。
淡い金髪の癖毛をしていて、大きな瞳は濃い青色。かわいらしい顔はお人形さんのようで、けれどほんのりと朱がかかっている頬が少女が人であることを示していた。
女性が座っていても軽く見下ろされるほどの小さな少女は、ゆっくりと女性に近寄り、そして女性の頬にそっと手を添えた。
「どんなに悲しくてもね、どんなに悔しくてもね、私たちが死んだことには変わりがないの。でも、貴方はまだ先がある。」
少女は立ったまま女性を抱きしめ、背中をトントンと易しく叩いた。
「戻ることはできないけれど、貴方が望んでくれるなら、貴方はまだこの先に進むことができるの。」
「先に・・進む?」
女性が呟くと、少女は女性と目を合わせて頷いた。
「私の器はまだ壊れてない。そして貴方の魂もまた、綺麗なまま。私の器に貴方が入れば、貴方は生きることができる。」
「でもそれって、つまりは別の人生を送るって事でしょう?お母さんやお父さんや、お姉ちゃんや、美香や徹とはもう会えないんでしょう?そんなの、意味ないよ。」
女性は手で顔を覆い、大粒の涙を流しながら嘆いた。
「それに、体が無事ならあなたが戻ればいいじゃない。どうして私に譲ろうとするのよ。」
女性が顔を上げてきっと睨むけれど、少女は困った笑みを向けるのみで、それだけで女性にも理解が及んだ。
「私の魂はもうすぐ崩れてしまうの。体を治すのに力を割きすぎて、魂が壊れる寸前なんて笑っちゃうけれど。」
少女は朗らかに笑って見せるけれど、女性はとても同じように笑うことができなかった。
何とも言えない気まずさで視線を逸らす女性。
そんな女性の手を少女は手に取り、まっすぐと女性の目を見る。
「もう戻れないけれど、貴方の人生はまだ先がある。それは私の人生でもあって、私が歩きたかった道だけれど、貴方に引き継いでほしいの。」
「そんなの、できないわ。貴方の代わりになんて。」
「代わりにならなくてもいい。私の体を使って、貴方なりの道を歩んでくれたらいい。私の事も忘れて、自分の身体だと思って。」
少女の手は強く握られ、まっすぐとぶれることなく見つめる視線に、女性は目を離すことができず、それでも踏ん切りがつかずに目を細める。
「そんなことできるわけない。あなたの体で、あなたの親と、あなたを知る友人と、知人に囲まれて生きるのに、あなたを忘れるなんてできるはずがないじゃない。」
「だったら、私と一緒に消えてしまう?」
その言葉を聞いた瞬間。何かが噛み合う音がした。
頭に渦巻くもやが薄れ、鮮明に見えていたはずの少女の姿が、より一層鮮明に見え、そして少女の目に映る女性自身も見ることができた。
「それは・・・できないよね。」
女性は自分の手を握る小さな小さな手を握り返す。
それほど大きくない平均的な身長の女性だけれど、それでも少女の手は小さく、はかなげで。
けれど少女の手は、今まで見た誰の手よりも大きく見えた。
「私、あなたになって、あなたが歩きたかった道を行くよ。」
女性がそう言うと、少女は満面の笑みを見せ、女性の額に額を合わせる。
「私の名前はエルーナ=ベッセル。貴方の名前は?」
「私の名前は海鳴舩。」
「フネ。私の人生をよろしくね。」
「任せて。きっとあなたがうらやましがるような、幸せでいっぱいの人生を送って見せるから。」
舩の言葉を聞いて、エルーナは笑う。
少女の澄んだ幼い笑い声が世界に響き、辺りは輝きに満たされるようだった。
「それじゃあ、フネ。お母さんとお父さん、それにメルネア様によろしくね。」
エルーナは別れの言葉と共に舩の前から光の粒子となり、それが弾けて霧散した。
気が付けば空は澄んだ青で、眩しい太陽が周りを明るく照らし出し、空には白い雲が流れ、花の下には地面があった。
まるでずっとそこにあったかのように当然のごとく目の前にある道の先には、大きな扉が開け放たれていた。
「生きられる私が、あなたのぶんまで生きないとね。」
舩は扉の前まで来ると、一度だけ後ろを振り返った。
そこは最初のような花畑しかない場所ではなく、天国のような光景が広がっていた。
そのはるか遠く、見えるはずもない人々の顔を見て、笑って見せた。
「みんな、さようなら。また、会えると良いね。」
それからは振り返ることなく、一歩ずつ踏みしめるように道を歩き、扉の先、光の向こうへと歩き出したのだった。