捕われのミスティ
夏も間近い、午後の昼下がり。
わたし達はいつものごとく、麗香の入れてくれた紅茶を楽しんでいた。
「香澄、なにかいわなくてはいけないこと、ありません?」
ひーん、なんでわかるのぉ!?
できるだけさりげなく、いつもの通りにしてたのに。
でも、彼女にはわかるの。わたしが隠し事をしていると。
わたしは顔を真っ赤に染めて、うつむいてしまう。
だって、こんなこと相談できないよぅ。ただでさえネットに潜ったら怒られるのに、そのうえ、あんな、あんな……
ポン!
あっ、また耳がでちゃった。
わたしの頭の両脇に、白くてぽわぽわの毛で被われた、長い耳が生えていたの。共生体が精神的動揺に反応して、出てきたのだ。
人間の能力を強化するため、遺伝子に他の生物の因子を埋め込む。それが共生体。
わたしに埋め込まれた共生体はうさぎだ。
だから、こんなぽわぽわしたお耳が生えてくるの。
極度の赤面症で、他の人より緊張しやすいせいか、耳が飛び出る回数はすこぶる多い。しかも一度出るとそれが恥ずかしくて、ますます緊張してしまい、なかなか引っ込んでくれないの。
だから人とまともに話すことすらできない。そんなだからみんなわたしを避けていく。まるで霞のように、見えているのに無視される存在。それがわたし。
麗香達にはお馴染みの光景だし、ここには麗香と龍子しかいないから、じろじろ見られたりしないのはわかってるけど、わたしは出てしまった耳を一生懸命引っ込めようとする。もちろん無駄な努力だったけれど。
そんなわたしを尻目に、麗香は優雅にカップを傾け、無言でお茶を楽しんでた。本当にそれ以外、心にないかのように。
「香澄、早くいっちまえよ」
龍子は紅茶をふーふーしながら、わたしの頭をポンポンするの。
わたしは龍子にそうされると、小さな子供になったような気分になって、何もかも彼女達にまかせておけばだいじょうぶ。そんな気にさせられる。
「…あのね、また潜っちゃったの」
わたしは龍子の優しさと、麗香の無言の脅迫に屈し、いつもの蚊の鳴くような小さな声で話し始めた。昨日の夜の出来事を。
仮想現実世界と呼ばれる、コンピュータとデータで構築された人工の世界。
世界的にネットワークでつながれたそこは、小さな時からわたしの遊び場だ。
そこでわたしは電子でできた香澄となる。そこでのわたしは、現実世界で霞のように存在感がない、などとは信じられないほど活動的だった。
わたしは仮想世界の支配者。
そこでわたしを笑える者はいない。
わたしを傷つけられる者はいない。
ミスティとなったわたしを虐げられるものなどいないのだ。
わたしはいつものように、禁じられた領域に入り込む。
一般向けに解放された遊園地など、わたしにとっては、退屈なお遊戯にしかすぎない。
刺激的な出来事は、常に秘められたところにあるのだから。
わたしは入ってしばらく漂った後、硬い入り口を発見した。
今まで見たことがないほど、厳重に!r保護され、侵入者を拒む迎撃システム。
わたしはわくわくしながら、それの解除にとりかかった。
一見本体に見えるけど、実はダミーとか、一見無意味なデータ列が、実はトラップだったりとか、セキュリティシステムの見本市みたいなそれをひとつひとつていねいに無力化していく。
これって、へたなゲームよりスリル満点。失敗して捕まっちゃったりしたら、処刑台にだって上がりかねないんだもの。
でも、どんなに厳重なシステムを構築しても、どこかに必ず見落とした点がある。でなければそれを使う人間に油断がある。完全な保護対策はネットワークにつながないことだけど、それでは使いづらいことこの上ない。
使いやすさと保護対策の強化は、反比例するのだ。
ある程度の使いやすさを確保するには、保護対策をゆるめるしかない。
わたしはそのゆるめられた保護対策の小さな隙間を通って、堅牢な壁に守られた!r空間に侵入した。
わたしは霞。
どんな小さな隙間だって通ってみせる。
「…だれ?」
わたしがそこへ侵入したとたん、誰かにそう呼びかけられた。
もうセキュリティシステムはないはずなのに!
わたしはシステムとシステムの隙間に存在する、霞のようなもの。わたしを見ることができるものなどないはずなのに。わたしが意図して姿を現さない限り。
「わたし? わたしはミスティ」
わたしは内心の驚きを隠し、答えた。
いまさら逃げても無意味だし、システムを調べて、わたしが存在したデータを消すには少しばかり時間がかなる。なによりわたしを見つけた存在に好奇心をいだいたからだ。
わたしは仮想世界でも!r現実世界でも“見えない存在”。
現実世界では無視され、仮想世界では無視する、そんな存在。現実世界でわたしに話しかけるのは麗香と龍子だけ。でも仮想世界で、わたしに語りかけるものは大勢いるが、成功した者はいない。
「霞? じゃあ、ぼくは幻影とでもいっておこうかな」
ふざけているのかまじめなのか、そんな答が返ってきた。
でもわたしが感じるのは彼の言葉だけ。姿を捕えることができない。
こんなこと初めて。
この世界で、わたしの目から逃れられるものなど、ないはずなのに。
「ねぇ、姿を見せてよ」
わたしは恐怖におののきながら、呼びかけた。
わたしは彼を見ることができないのに、彼はわたしを見ることができる。
わたしは彼の居場所すらわからないのに、彼はわたしをしっかり捕捉している。
それはすなわち、彼はわたしを傷つけられるっていうこと。
彼はわたしを虐げられる。
彼はわたしを捕えることができるのだ!
霞であるこのわたしを!!
そう考えたら、頭がパニックになって、わたしは慌てて外へ出ようとした。
「えっ!」
出られない!
ほんとに出られないのだ。
なんで、なんで?
なぜかは、わからない。でもわたしは、すでにこの世界に深く入り込みすぎた。
わたしの一部はこの世界のシステムを使ってしまっていて、それを強制的に切り放したら、わたしはわたしでなくなってしまう!
「まって…いかないで!」
わたしの目の前に、まるで幻影のようにわき出た男の子。
そのすがりつくような表情に、わたしはちょっとだけ気を鎮め、緊張を解いた。
「わたしをどうするの?」
わたしは気弱そうに尋ねた。
まるで現実世界の香澄のように。赤面症で引っ込み思案の香澄のように。
「なにもしないよ。だから少しだけお話しして」
わたしはうなずいた。うなずくしかなかった。
ここは彼の世界。
わたしはそこへ迷い込んだ子猫。いえ子兎。
ただおびえ、身を震わせることしかできないの。
「ねぇ、君はどこから来たの?」
「この壁の向こうから」
わたしは視覚イメージとしてとらえられる、セキュリティシステムを指差した。
「この壁の向こう?」
彼はさも意外そうにそういった。
「この向こうって何があるの?」
何がって……
「この向こうはわたしの世界。わたしの世界には何でもある」
そう、なんでも。
ないものはただ一つだけ。わたしを愛してくれる人。ただそれだけ。
「ねぇ、連れていって。向こうの世界へ。見てみたいんだ。ねぇ、お願い」
彼は一生懸命にわたしに懇願した。
「だめなの。この壁は向こうからは抜けられるけど、こちらからは抜けられない」
なぜか、向こう側よりこちら側からのセキュリティがきつい。いえ、物理的に回路が分けられ、こちら側にいる者から、外部に向けて発信できるようには、なっていない。
ここは閉じられた空間。
外から中をうかがうことはできても、中から外を見ることはできない。
まるで、何かが外へ出るのを防いでいるような、そんな壁なのだ。
何かって、まさか!
わたしは恐ろしい考えに、思わず身を震わせた。震わせる身体など実際には存在しない仮想世界で。
そう、ここへ閉じ込められているのは、この少年なのだ。
まだ中学に上がるか上がらないか、というくらいの少年の姿を投影しているもの。すべてはこの存在を外に出さないための仕掛けなのだ。
外から見ることはできる。外から入ることもできる。でも中からは見ることも出ることもできない。そんな場所に彼は捕われていた。
でもわかるような気がする。
彼は危険な存在。
わたしを見つけ、捕えてしまった。こんなこと今まで誰にもできなかったのに。
すなわち彼を捕えられるものは、この世にいない。わたしですら捕えられなかった者達に、彼が捕えられるわけがない。
彼こそわたしに代わって、ネットワークを支配する王となれるはず。この世界から解放されれば。
ここは彼の牢獄。外の世界と物理的に切断するしか、彼を捕える術はなかったのだ。
「そうだよね。ぼくも色々やってみたけど、だめだった。つながっている今ならと思ったんだけど」
彼は残念そうにうつむく。
「そうだ! じゃあ、そっちからデータを送ってよ。ぼくが見れるように……」
沈んでいた彼が、いきなり明るく微笑んだ。
わたしはそのあまりにもまぶしい微笑みに、ついうなずいてしまった。
「いいわ。見せてあげる。こっちの世界を」
わたしはわたしの記憶を呼びさまし、この閉じられた空間に投影する。
膨大な量だ。
人類が蓄えた、多くの英知。
たくさんの情景。
あらゆるデータ。
わたしが記憶しているもののほとんどすべてを、この世界に送り込んだのだ。
「すごい、すごいや」
彼はそのデータを本当に子供のように目を輝かせ、見入っていた。
まるで乾いたスポンジ、いえ、ブラックホールのように、わたしが持ち込んだデータすべてを貪欲に飲み込んでいった。
わたしはもしかしたら、とんでもないことをしたのかもしれない。
パンドラの箱を開けてしまったのではないか、そんな気にさせられる。
でも彼の無邪気な笑顔を見ていると、途中で止めるのもためらわれた。
どちらにしろ、わたしには選択の余地がないのだけど。
彼に離してもらわなければ、無事にここから抜け出ることはできないのだから。
「ねぇ、これで全部?」
ほとんどすべての記憶を飲み込んでなお、彼は満足しないのか。
「わたしが今持っているデータはそれだけ。でも、向こうにはもっとたくさんのデータがある。でも、向こうのそのまた向こうの世界は、それこそ信じられないほど多くの出来事が起こっている」
仮想世界は閉じられた小さな世界。
それは彼の世界とたいして変わらない大きさなのだ。現実世界と比べれば。
だからわたしは恐い。
わたしの自由にならない世界。
次の瞬間わたしがどうなるかわからない世界。
わたしはそれがすごく恐いの。
「現実世界のことだね? そうか、向こうより大きいのか」
彼はぶつぶつつぶやき、なにか考え込んでいた。
「ねぇ、連れていって。現実世界へ」
「えっ、それって、外で会いたいってこと?」
「うん、そう。……たぶんできると思う。そして、見せてほしいの。色々なところを」
でっ、でも、知らない人といきなりそんな。
「だめ?」
男の子は泣き出しそうな目で訴える。
「い、いいけど……どこで待ち合わせたらいい?」
「△△△駅は?」
そこなら電車で三十分かそこらの距離だ。
「いいわ」
「じゃあ、今週の日曜日に」
「ええ」
わたしはうなずいた。
まあ、ここから出してもらえればこちらのもの。
すっぽかしちゃえばいいだけだ。
でも、その考えは甘かった。
少なくとも、ここから出てから、そんなことを考えるべきだった。
ここではわたしの考えていることなど、筒抜けなのだから。
「ちゃんと来るように、一部を預からせてもらうよ。来たら返してあげる」
ちょっとまって!
わたしはそういう間もなく、ネットからはじき出された。
まるで深い眠りからたたき起こされたかのように、わたしはベッドの上で、三十センチばかり飛び上がったの。
心臓はどくんどくん脈打ち、全身がびくんびくん痙攣する。
わたしの一部をもぎ取られたショックに、わたしは声も出せずにうずくまることしかできなかった。
わたしが話し終えた時、二人とも黙り込んでしまっていた。
それはそうよね。
ミスティが捕われてしまうという、前代未聞の出来事。
ネットに潜ること自体、麗香にとめられているのに、その約束を破ったばかりか、ミスティの一部とはいえ盗られてしまうなんて。
そんなの恥ずかしくていえなかったの。
ミスティなら何でもできる。
その自信がもろくも崩れ去って、麗香達にいえなかったのだ。
まあ、すぐにばれてしまったけど。
ああ麗香、龍子、なんとかいってよ。
沈黙がとても気まずいの。
生徒会長室は、一般教室とは少し離れているから、廊下で騒ぐ声さえ聞こえない。遠くからかすかに聞こえる蝉の声。
それだけが今聞こえるすべて。
「香澄、あなたどうなさるつもり?」
長い沈黙の後、麗香はわたしに向かっていった。
「わたくしを差し置いて、その男の子とデートするのね!?」
ずり。
わたしはソファから、ずり落ちそうになった。
そういう問題じゃないでしょう!?
ミスティが奪われちゃったのよ!
でも、麗香にはあっちの方が大問題らしい。
「ひどいですわ。わたくしがあんなにつくしましたのに、ネットで会っただけの見ず知らずでも、男の子の方がいいなんて! ああっ、やっぱり禁断の愛は酬われませんのね」
麗香は、よよとばかりに泣きくずれた。
彼女って本気かうそか見分けがつかないのよね。
この間だって、そんなこといって、見事にだまされちゃったし。
まったく、あんな、あんなこと……
わたしはその時のことを思い出して、ちょっと赤くなる。
麗香はいつも本気だ。
本気でわたしをからかう。
まあ、いつもそれにひっかかる、わたしもわたしだけど。
「で、マジな話し、どうするんだ? 会いにいくつもりか?」
龍子がわたしを上からのぞき込むようにして尋ねる。
彼女はいつもそんなふうにして、わたしと話しをする。
するとわたしはすぐに顔を赤らめ、うさぎさんになってしまうの。
ようやく収まった共生体が、再び頭をいえ、耳をもたげてくる。
「うん。いかないと、ミスティが……」
ミスティの大部分は今でもわたしの物だ。でも今のミスティは、ミスティであってミスティでない。
他の人から見れば、たいして変わらないじゃないか、というだろう。でもわたしにとっては大きな違いなのだ。
彼女を元どおりにするには、それを取りもどすしかない。
「そうだな」
龍子はそれをわかってくれる。
わたしが何を欲しているか、わかってくれるの。
わたしのただ二人だけの親友。麗香と龍子。
彼女達だけが、わたしのことをわかってくれるの。
「わたくしもついていきますわ。よろしいですね?」
麗香のそれは問いかけではない。命令だ。
連れていかないとひどいわよ、といっているのだ。
とてもそんなふうに見えないから、麗香って怖い。
いつもにこにこ、優しい笑顔で脅迫するんだもの。
「うん、お願い。ついてきて」
だけど実のところ、初めてのオフライン。つまりネットでなく実際に会うのって初めてだから、すごく心細かった。
ネットに潜ったのがばれないのなら、こちらから頼みたいくらいだったの。
麗香、ありがとう。
現実世界のわたしは何もできなくて、なにもかもが恐いの。
あなた達がいてくれたから、わたしは生きてこれた。今までなんとかやってこれたのは、あなた達のおかげなの。
「あたしもいっしょに行くよ」
「りゅうこ、いいの?」
龍子の家って、道場を経営していて、龍子はそこの師範代。すごく強いの。
日曜日は女性向けの護身術教室があって、龍子はそこで先生を勤める。
「たまには休んだって、おやじも文句はいわないさ」
龍子はそういって優しく微笑んだ。
ボーイッシュでぶっきらぼうに見えるけど、意外に細やかなことに気がつくし、とっても優しい龍子。
わたしは龍子が好き。大好きなの。
麗香も好きだけど、彼女はちょっと恐いところもあるから、手放しで好きとはいえない。
ごめんね、麗香。
わたしは心の中で謝りながら、麗香と龍子を見つめる。
「ありがとう、麗香、龍子」
彼女達がついて来てくれればだいじょうぶ。
ミスティだってちゃんと取り返してもらえる。
「でも、ミスティが盗られたってことは、今ごろ分解されて、香澄の恥ずかしい秘密の、何もかもが見られちゃっているんじゃないかしら?」
れいかぁ。
そんなこといわないでよう!
わたしだってそんなことわかる。でも、考えないようにしていたんだから。
「恥ずかしい秘密なんかないよう。…ほんとよ!」
わたしは必死に抗議するが誰も聞いていない。
結局昼休み終了を知らせる予鈴がなるまで、二人にからかわれたのだった。




