六章 甘苦い逢瀬
「えっと……どうしよう……」
お財布を握り締め、ケーキ屋のディスプレイの前で立ち尽くす事十分。私はすっかり途方に暮れていた。
『ケーキ』と言う名前の美味しいお菓子がある、そう以前大人が話していたのを聞いた事があった。ここは街で唯一のお店だ。入ってみたい。でも、もしも追い返されたら……。服には所々染みがあるし、髪の毛だって他の子達みたいに綺麗に切り揃えていない。貧乏でみすぼらしい子には売れません!そう言われそうで、怖い。
「何してるんだ、お嬢ちゃん?」「っ!!?」
右側面から声を掛けられ、反射的に左へ数歩飛び退く。
相手は薄い茶色の髪と目をした、二十代半ばの大人の男の人だった。腰には剣を差しているが、特に抜く気は無いようだ。
「あ、済まん。驚かすつもりは無かったんだが」
彼は軽く頭を下げ、ポリポリ頬を掻く。
「さっきからずっと食い入るように見てるけど、中入って買わないのか?好きなんだろ、スイーツ」
「すいーつ、って?」私が買いたいのは『ケーキ』だ。
「?ケーキとかクッキーとか、菓子全般の事だよ。母親とか、お嬢ちゃんの周りはそう呼ばないのか?」
「え、ええ。初めて聞きました」
「そっか。まあ呼び方なんて人それぞれだしな」
男性はにんまり笑い、私の隣でディスプレイされたケーキのレプリカを眺め始める。
「へー、苺フェアか。お嬢ちゃん、ここのプリンタルトは本気で宇宙一だぞ。朝産みたての有機卵と絞りたて牛乳を惜しげもなく使っているからな。食べた事無いなら是非一度お試しを」
言いつつ口元を綻ばせ、目をキラキラ輝かせた。この人、本当にスイーツが好きなんだ。大人なのにまるで子供みたい。
「ところでお嬢ちゃん。この辺りで怪しい男二人組を見なかったか?」
ズボンのポケットから端の破られたメモ用紙を引っ張り出す。「あいつめ、一体何処に」
「見つけたよ、おにーさーん!!」
「強く掴まないで下さい!そんな事しなくても逃げませんから!!」
五歳ぐらいの蒼い髪の男の子に袖を引かれ、今朝会ったばかりのハイネさんが現れた。そして、二人の後ろから燐さんも……。知り合いなのか、茶髪の男性の顔を見るなり舌打ちする。
「何時からロリコンに転職したんだ手前は?ティーから離れろ」
「こんな偽造の手紙寄越しといていけしゃあしゃあと―――ティー、だって?」振り返って私をまじまじと眺める。「この子が、例の……?」
「ええ。こんにちは、ティー。今日はよく会う日ですね」男の子の手をサッと振り払い、旅人さんは私の前に屈んで挨拶した。「もう何か買ったんですか?」
「ええと……まだ」勇気が出なくて。
そう答えると旅人は顔を上げ、パティスリー、女性はやっぱり皆お菓子が好きなんですね、微笑みながら呟いた。
「入らないの、お姉さん?」今度は少年が両腕を後ろで伸ばしながら尋ねてきた。「早くしないと、お兄さんみたいなカンミチュードクシャが店ごと買っちゃうかもしれないよ?」
「こらオリオール!どう言う想定だよそいつは!?」
男性に首根っこを掴まれ、ブンブン振り回される。わー!ジドーギャクタイ!言葉とは裏腹にとっても楽しそう。
(あんな人達に囲まれて……幸せなんだね、燐さん)
心底羨ましい。私には、誰もいないから……。
「もしかしてお嬢ちゃん、一人で入るのは初めてなのか?」
「え、ええ」どころか入る事自体が。
「何だ。それで緊張してたんだな。―――おい燐、一緒に行ってやれよ」
思いがけない提案に吃驚仰天し、思わず一歩下がった。
「そ、そんな、私……」
一度は止まった筈の鼓動が早まる。
「あ、そうだ。ここ、確か中で食えるようになってるからさ、ゆっくり茶して来いよ。な、ハイネ?」
「ええ。ケーキの箱を傾けずに村まで戻るのは大変です、ティー。お金は渡した分で充分足りるので、遠慮せず好きなだけ食べて来て下さい」
バクバクバク。高鳴りは最高潮。そんな中手を握られて、一瞬卒倒しそうになった。
「ならお言葉に甘えて。後は頼むぞ、苦学生」
「ええ、分かっています」未だにじゃれている二人に顔を向け「こちらの仕事はきちんと済ませておきます」
「ああ。―――んじゃ行くかティー」
「は、はい!よ、宜しくお願いします!!」
身体中熱いまま、彼に連れられてファンシーなピンクのドアを潜った。
「美味いな」「は、はい!とっても……」
俺達以外誰もいない、ショーケース奥の喫茶スペース。広場を見渡せる窓際を二人で占拠し、優雅にコーヒーとケーキを楽しむ。
蕾が綻ぶような笑顔で、ティーは小皿の苺のショートケーキを頬張る。二人の間の皿には先程まで二つのプリンタルトが乗っていたが、既に双方の胃の中だ。
彼女が赤い果実を惜しむように食べ終わるのを確認し、再び連れ立ってショーケースの前へ赴く。
「コーヒーのお代わりは如何ですか?」
「ああ、頼む」
席に行った店員が食べ終えた皿を片付けている間に、俺達は次に食うケーキを物色する。
「燐さん、あれは?」茶色い三角形を指差す。
「ん?ああ、紅茶のシフォンケーキだな。少し大きいから半分ずつにするか」
「はい。あ、こっちのも美味しそう!」
真四角のガトーショコラを示す彼女に、不意に記憶が被さった。
『そのケーキを取って、かあさま』
『ふふっ、勿論よ。まーくんはホントチョコレートに目が無いんだから』
きっかけが何だったかは未だ定かでない。ただ何時の頃からか、坊やをぼんやりと外から眺める『俺』と言う人格は存在していた。
鳥籠に囚われた小鳥を想起させる坊やは、記憶を失って尚無垢で綺麗だ。今は意識の奥底で静かに眠っているが夢の中、そこを漂う小舟まで降りれば何時でも抱き締められる。
『ずーっといっしょだよ』
時折“黒の絶望”はそう零す、恐らくは真なる願望を。勿論今現在、俺は全くのノーマルだ―――少なくとも表面的には。でなければ目の前の少女に惚れ、いっそ死んでしまいそうな程胸が苦しくなる事も無いだろう。
『まっくらでもこわくない。ふたりなら……なんにも』
幼児的なイントネーションで、昏々と眠る誠に『俺』はそう囁き掛ける。完全にそっちの気がある変態で、しかも酷いヤンデレ。あの聖族を非難出来る資格は、正直一ミリも無い。
「燐さん?」
「っ!あぁ、ごめん」
完全に内側へ行っていた心を引き戻す。
「ごめんなさい」
ティーは悲しげに目を伏せ謝る。
「もしかして私、無理に付き合わせちゃいましたか?」
「いや。時々なるんだ。こう見えて貧血持ちでさ」
「え!?あ、だから肌が普通の人よりずっと蒼白いんですね。立ったままで大丈夫ですか?」
優しい子だ。何故四天使は、こんな娘を“死肉喰らい”に……。
「もう治った。次は~と、アップルパイなんてどうだ?」
香ばしい色に焼けたパイ生地は、ケースの外からでもサクサクだと分かる。見た目はパーフェクト。さてお味は?
「はい、お願いします」
戻って来た店員は裏から菓子を出し、潰さないよう新しい皿へ丁寧に乗せた。
「御注文は以上で宜しいですか?」
「ああ。食い足りなかったらまた取りに来る」
書き足された伝票と皿を手に、俺達は席に戻る。
カチャッ。ズズズッ……。「これも美味い」「ああ」
この少女は俺とそっくりで、けれど余りにも対極の位置にいる。健全な精神は眩しいぐらい輝き、今日にもこの地上から失われてしまうとはとても思えなかった。
―――殺したくない。仮令代償に何を犠牲としても。
『かあさま』
皮肉な物だ。同胞を助けるたった一つの方法が、やっと逃れた“炎の魔女”の掌に戻る事とは。
(裏切ってなんかいないさ。ティーを治すまで、たった数ヶ月の辛抱だ)
止むを得ないんだ。きっと心優しい坊やなら笑って赦してくれる。
「ティー」
「?何ですか?」
俺だけなんだ。この儚い笑顔を守ってやれるのは。
「―――何も心配しなくていいからな」
そう宣言し、俺はパイの欠片がくっ付いた口角を精一杯上げてみせた。