09.わたしのひいおじいさま
「さすがはエーヴェリット邸。見事な図書室をお持ちで」
対面したベイゼル先生の口から、何もなかったかのように言葉が紡がれる。
図書室がある別棟は二階建ての建物だった。
二階部分に上がってみれば、奥まったほう、部屋の半分くらいには、本がない。空っぽの棚がいくつか並んでいる。
一階に溢れそうになっていた書物をこちらに移せばいいのにと思ったが、整頓する人材がいないのだろう。
南側の窓のそばには、閲覧用に四人がけの机と椅子が置かれていた。
十分な採光もあり、先ほどの渡り廊下の眺めほどのダイナミックさはないが、街並と海も見える。
さあ窓を開けて換気しよう。それから、温かい紅茶とスポンジケーキを用意して生クリームをたっぷりと乗せて食べるんだ。
そして、本を片手にうたた寝ができたら、贅沢な休日を過ごせると思う。
背に針金が通っているように、まっすぐ腰かけている兄が、昼寝をするかはともかくとして。
セシアは二人が座り終わるのを見計らい、その隣の席へと滑りこんだ。
露骨に嫌な顔をされたが、防衛本能であるからしょうがない。妹の貞操の危機ですよ、とは言えない。
なるべく前を見ないようにするものの、眼鏡越しに感じる視線はきっと気のせいではない。
セシアはこっそりと机の下、幼なじみ直伝の、呪いの指文字を作った。
「いえ、たいしたものでは。ほとんどが曾祖父の遺産と、隣人たちからの寄付ですから」
「ハドラー・ツィル、ハドラー商会の創業者でいらっしゃいますね。氏は多方面において偉大な功績を残されていますが、さすがに書への関心も相当なものだ」
「そうだったようですね」
「…… あまり、お好きではない?」
「え」
きょとんという反応をしてしまい、トアレはあわててかぶりを振って否定した。
先生はにこやかに、いたずらが成功したような表情を隠さない。
「あえて言うなら、好きも嫌いもありません、としか。身内とは言え、直接会ったことがあるわけでもない。…… 物語に出てくる英雄のように、どこか遠い存在です」
少し言い方に気をつけながら述べると、セシアの前に置いたままでいた絵本を手に取った。ぺらぺらとめくって、また元に戻す。
お好きではない、かどうかはわからないが、あまり触れたくない話題ではあるようだ。
横からの視線に居心地が悪そうに顔をしかめながら、トアレは滑らかに説明を加える。
「この家のすべて、財も名声もハドラー・ツィル、曾おじい様一代で築き上げたもの。家名も、三等貴族という地位も、晩年の曾おじい様の働きが評価され、国より認可を受けた」
つまり、ひいおじいさまのおかげで今のこの家があるんだぞ、ということらしい。
セシアのひいおじいさまは、ずいぶんとすごい人だったようだ。
三等貴族とはなんだろう。と思っていると、トアレはさらに補足した。
この国の貴族には三種類あり、上から一等、二等、三等と階級が付く。一等は王族に縁故のある家系、二等は古くから王族に付き従う家系、三等は戦や様々な機会で国に貢献したとされる家系。ざっくりとした分け方の基準のようで、もう少し細かく枝分かれするようだったが、詳しいことは省略された。
まるで、先生のようだ。
セシアが感心していると、前方からくすぐるような笑い声が響いた。
「セシア様、街の名前を覚えておいでですか?」
窓の向こうを示しながらの唐突な質問に、セシアはうなずくとともに、唇を動かした。エーヴェリタ。
「セシア様の名前は?」
セシア・ツィル・エーヴェリット。
記憶喪失だと診断された後に、紹介されたセシアの正式な名前だ。こっちの世界の人はみなフルネームが長い。覚えるのが大変である。
「エーヴェリットとは、“エーヴェリタの親しき隣人”という意味です。この土地に愛され、慕われている領主という証拠ですね」
「今は、ただの名ばかりですが」
「これは、手厳しい」
トアレの硬い声に、ベイゼル先生が肩をすくめる。
小さく舌打ちが聞こえた。つい、反応してしまう自分に苛立っているようである。
ノンノがいれば行儀が悪いと叱られそうだと思いながら、兄の、十三という年相応らしい反応に、セシアは親しみを感じつつあった。
目の前の人物はどうも苦手である。この感覚を共有できる人がいるというだけでもうれしいものだ。
感情表現が不得意そうな兄には、呪いの指文字でも教えてあげようかと思う。
そんな機会は訪れなさそうだけれど。
「トアレ様は、試験休みなのでしたか」
「はい。…… あの、これだけでしたら、私はそろそろ失礼したいのですが」
立ち上がる、その裾を引っ張ろうとしたがそっと避けられた。
試験前なのだから忙しいだろう。気持ちはわかるが、今二人きりにされてはとても困る。
「そう言わず。もう少しお付き合いいただけませんか。トアレ様が今、何について学んでいるのか」
「それと、この授業になんの関係が?」
「彼女は記憶を失っています」
その言葉を聞いて、青い瞳に影が差した。
光の届かない、海の底へと沈んでいく。
溺れてしまいそうな息苦しさを、セシアは感じた。うまく酸素を取りこめなくなる。
身体が息を吸うことを拒むように。
「王立書院でのお話は、セシア様にとって有意義なものかと」
先生の明るい声だけが浮いていた。
セシアにはさっぱり文絡が見えないが、この頭の中にある箱を開けるヒントがあるのだろうか。
手を伸ばしてみても触れることさえ叶わない記憶の箱。
「司書学、と聞き及んでおりますが、もう専攻はお決まりですか?」
「…… お力になれず大変残念ですが、もう時間がありません。明日にはここを立たねばなりませんので」
「それはそれは。お忙しいところをお引き止めして申し訳ありませんでした」
司書学という単語を拾い、兄は本当に本が好きなのだなと思いながら、セシアはあわてた。
作戦がまだまとまっていないのだ。なんとかこのまま授業もお開きにする方法をひねり出さねば。
「セシア様、残念でしたね」
内心を見透かしたように、先生が言う。
「明日はエーヴェリタに行ってみようかと思っていたのですよ。よろしければトアレ様もご一緒に、と考えていたのですが」
思わず、ぴょんと効果音が付きそうな勢いで立ち上がってしまった。
先生はやわらかく笑み、視線を後方へと飛ばした。階段の手前で、トアレが立ち止まっている。
「…… 街に?」
「もちろん体調と相談の上、お父上のお許しを頂ければですが」
しばらく無言で見つめあった後に、トアレは軽く頭を下げ、階下へと消えた。
セシアの心はすでに窓の外へと向かっていた。
エーヴェリタ。色とりどりの屋根に白壁の家々、青い海に抱かれているような街だ。こんなに早く行けるとは思ってもみなかった。
「ご機嫌は、直ったようですね」
はっとした。
窓に張りつくようにしていたセシアはあわてて姿勢を戻そうとすると、椅子ごと後ろへとひっくり返った。
痛みをこらえながら立ち上がろうとすると、机の向こう側から届く言葉。
「―― なんと単純」
馬鹿にしたような、苦笑まじりの声だった。
心の声は、直接脳に響く。
エコーがかかって聞こえる感じだが、いつも唐突なので、実際に話した声と、聞き分けるのは難しい。
しかし今はどちらでもいいやと思い、セシアは少しむっとして、机の下から頭を出そうとした。
「―― しかしたまらなくかわいらしい」
背筋がぞくりとした。
黒曜石のような眼球の中に小さく映りこんでいるのは、金髪の、見慣れない女の子。セシアだ。
一刻も早くあの目の光が届かぬところへ逃げ出さなければ。
セシアはすぐに腰を落として、じりじりと後退し、階段へのルートを確認すると一気に駆け出そうとして、三歩目、再び床へと転倒した。今度はスカートの裾を思い切り踏んづけてしまった。
五歳児の身体は頭に重心があり、身体は急な動きへの対応が鈍いという事実はわかっていても、順応するまでが難しい。“私”ははっきり言って不器用である。
まともに顔から床へ落ちてしまい、おでこの真ん中がひりひりとする。痛い。泣きそうだ。
「っく」
セシアは顔をもたげた。
床に座りこんでいるので、ちょうど机に妨げられて向こう側の様子は伺い知れない。
けれど今、この部屋にいる人間は、セシアともう一人しかいないはずだ。
木枠の淵をつかみ、恐る恐る覗いてみた。
机に突っ伏すようにして、小刻みに肩を震わせている。
医者であったり先生であったりロリコンであったり、ずいぶんと忙しい身の上らしいが、黒づくめの男はセシアと目が合うと一瞬間を置き、吹き出した。
「はっはっは!! おかしい。もうダメだ、死にそう」
セシアは呆然と、目の前で体を折り曲げ目じりに涙を浮かべる人を見ていた。
涙はかなしいときに流れるばかりではない。セシアは知っている。
男は笑い続けている。
出会ったばかりの人だ、もちろん“私”にとっては。
しかしセシアにとってもまた同じであることを否定できない。田舎の町医者と言っていたのは執事だったか。違うだろうと思う。
知らない人だ。
そこまで考えて、“私”はこの得体の知れなさに触れたことがあることに気づいた。
(―― あなたは、なに?)
「オレ? オレは天使だよ」
オレオレ詐欺のようなことを言わないでほしい。
会話ができることをさして不思議と思わずに、セシアは眉をひそめた。
(それに天使というより、悪魔じゃないだろうか)
指摘を受け、男は自分の身なりに目をやる。
別に服装や見た目だけのことを指してのことではないんだが。
心のツッコミは聞こえているのかいないのか、男は立ち上がり、床に座りこんだままのセシアに手を差し伸べた。
どこぞの紳士のような、文句のつけようのない優雅な仕草だ。
仕方なく、差し出された手に手を重ねる。
握った手のひらから体温が伝わってくる。
けれど、天使だという。
“私”は、天使というものがどういうものであるのかよく知らない。だから、唯一の既知である天使に触れたときのことを思い出してみた。
違和感があった。
最期のとき、抱きついた身体の、見た目どおりのたくましさと一緒に流れこんでこなかったもの。
びっくりしていると、ダンディな天使は苦笑いして耳元でささやいた。
天使は、人間のように生きているわけではない。
人間の目の前に現れるときには魂の理想を反映した姿をとるだけで、本来まるで違うものである、と。
自称天使は、顎に手をやり何かの思索にふけっている。
まるで、ひとつひとつの動作が映画のワンシーンのようだ。
作り物めいていて、美しい。
でもたぶん、この肉体は刃物で刺したら血が流れて、抱きしめたらきっとあたたかいのだろう。
「まあ、それもいいか」
何に肯定されたのか、一瞬わからなかった。
首をかしげるセシアに、切れ長の目がすっと細められた。
魅入られたら地獄の底へと突き落とされそうな、悪魔の微笑だった。