08.わたしの先生
まるで迷路のよう。
セシアは絶望とともに眼前にそびえたったそれを見上げた。
小さな身体の低い視界にはまだなじめず、ときどき遠近感が狂ったような光景に出会う。
今もそうだ。書物が四隅なく詰まっている書架が並ぶ姿は、壁が迫ってきてそのまま押し潰されてしまいそうな錯覚を起こさせた。
背後から、足音が近づいてくる気配がする。
セシアはあわてて、棚と棚の間に身を滑らせた。右、左とくねくねと曲がると、部屋の最奥部までたどりついた。
よほど、読書が好きなのか。
天井の小さな明かり窓からわずかに光がとられているものの、あたりは薄暗い。
この前の夜のことを思い出し、目に優しくなさそうだと少し呆れる。
しかし、今はおかげで助かったとも言える。セシアは知らずほっと息をついた。
唐突に現れた闖入者に、露骨に眉をひそめた主は、手に持っていた本を閉じた。
「なんだ」
セシアはその身体めがけて一直線に突進し、そして失敗をした。
華麗な足取りでもって横へと避けられる。勢いをつけすぎて書棚にぶつかりそうになった。
しかし通路は狭く、逃げられるような広さはない。
セシアは振り向きざまに手を目いっぱいに伸ばして、脚へとしがみついた。
「おいっ? …… なんなんだよ、いったい」
蹴飛ばされるのではないか。と、思えるくらい強めの力で引き離されそうになったが、兄の抵抗はすぐに止んだ。
足音が追いついてきたのだ。
「これはトアレ様。お騒がせして申し訳ありません」
「ベイゼル先生? ということは、今は授業中ですか」
「左様で。ただ、お嬢様は椅子の上でじっとしているよりも、走り回るほうがお好きなようですね」
驚いたように、トアレはまとわりついた妹を見た。
セシアはたぶんこの外見のままの、おとなしい少女だったのだろう。
そう察せられたが、今、この状況で取り繕う余裕はない。
人間は多面体でできた生き物であると思うからして、こういう一面もまたセシアという女の子なのだと受け入れてもらえないだろうか。
セシアがぎこちなく微笑むと、トアレの瞳はますます奇怪な生き物を映すように窄まった。
「よろしければトアレ様、ご同席されませんか」
「いえ、私は」
みなまで言わせまい、とセシアはぎゅっと脚に抱きついた。
言葉の代わりに懇願を表情に乗せる。裾を強く引っ張りながら。
はあ、という深いため息が返事の代わりとなった。
* * *
目覚めたとき、寝巻きの背中側が汗で濡れていることに気づいた。しかし、気分はすっきりとしている。
おでこに自らの手で触れてみれば平坦な印象、熱くもなければ冷たくもない。
処方された薬が効いたらしい。医者に感謝の念を抱いた。
そして、同時に思い出した。まぶたの上に落ちてきた感触のことを。
ノックの音が響き、扉が開いた。
ノンノが出迎え、応じている。
上から下まで黒の装いだ。思えばいつも黒のような気がする。今日は、申し訳程度に首から聴診器がぶら提がっている。
セシアは診察を受けながら、耳をすましてみた。
心臓の音を聞くように、心の声が聞こえないものだろうか、と思ったのだ。
「この調子なら、今日からでも授業を始められそうですね」
診断結果は良のようだ。
ほっと胸をなでおろしつつ、どうもよくわからない能力だとセシアは首をひねる。
聞こえないように、ということが不可能であるように、聞きたい、ということもまた制御できないものであるのか。検証が足りていないようだ。
セシアは、じっと視線を飛ばした。
長く伸びた黒髪はご婦人のように艶やかで、後ろでそっけなくまとめてしまうのがもったいないように感じる。
ヨハン・ベイゼル、エーヴェリット家かかりつけの医者はやさしげな微笑を浮かべた。
「医師の見解としては、君に欠けているのは休息で、足りているのは時間と診うける。つまり、無理をする必要はどこにもないということ。どうしますか?」
イエスかノー、どちらかで答えられるような質問は親切だ。
セシアは首を横に振った。ノー、だ。
「授業を受ける、か。では、午後からにしましょう。何か希望は?」
さて、ではジェスチャーで応じ難い問いにはどうやって答えればいいのだろう。
いろいろ方法を考えているが、筆談は困難であるとして、この世界には、手話のようなコミュニケーション手段があるのだろうか。言葉に代わる手段があるなら学んでみたいものだ。
向こうの“私”は少しだけ手話が使えた。それは幼なじみのおかげである。今ごろ、元気でやっているだろうか。お別れもできずにここにいるのだなと少しの間感傷に耽る。
うなだれた少女に、先生は別の意味を汲んだようだ。
「声を出さずとも言葉は伝わる」
真摯な響きだった。
まっすぐに射抜かれたような気がして、セシアは思わず先生の顔を正視した。
「安心なさい。いくらでも方法はあるし、君はすぐに話せるようになります」
なんと医者らしい言葉なのか。
セシアがコクコクとうなずくと、先生は満足げに笑って、ベッドの上に置いたままになっていた絵本に目をやった。
「一時間目は…… 図書室を覗きにいくとしましょうか。許可はもらっておきます」
セシアは目を輝かせた。
現在行ってみたいリストの上位にある場所だ。
ノンノに聞いたところによると、なんでも、図書室とは言え、住居とは切り離された別棟にあるのだそうだ。それはもう図書室どころではなく図書館なのでは、と思わずツッコミたくなった。
セシアは特別本が好きなわけではないが、珍しいものを見るのは好きだった。
やっと絵本を返しに行ける。
ベッドの上でおとなしく、に飽きてきていたというのもある。
上機嫌になったセシアの、開いていた寝巻きの前あわせを先生の指が留めてくれていた。
いけない、診察を受けてそのままにしていた。
いつも思うことだが、小さい子どもを連れている夫婦などを見かけると、成人男性の長くて太い指は、子ども用に作られている小さな細工を扱うには不自由そうである。
しかしさすがに医者の指先は器用で、一度ももたつくこともなく、ボタンを上まで締め上げほどけたリボンも結んでくれた。
その指が、かすめるようにむき出しの二の腕に触れ、すっと背筋を撫でていった。
セシアはわずかに震え、ゆっくりと視線を上げた。どちらかというと、冷たい印象さえ感じさせる切れ長の目。
その目じりがやや下がる。少し、お母さまの気持ちがわからないでもなかった。
艶のある果実の皮のように、甘みを予感させる黒い瞳だ。セシアは唾を飲みこんだ。
しかしセシアは今、成人女性などではなく、少女であった。まだたった5歳の、少女なのだ。
「着替えを」
「かしこまりました」
後ろに控えていたノンノが応じる。
ゆっくりと離れていく手。耳は相変わらず、声なき声をとらえない。
けれど、セシアは怖気を感じ取って身をすくめた。
ロ リ コ ン は 死 ね
穏やかな空気が漂う昼下がり、近所のお気に入りのカフェで、そんな物騒な台詞を主張したのは、そういえば幼なじみであった。
声を大にして、一文字一文字を指が形作っていく。
恋人の部屋を片付けていたら、ベッドの下からそういうグッズが発掘されたのだそうだ。
詳しくは聞かなかったが、それとわかる漫画だとか映像資料だとかフィギュアだとかそういったものだったらしい。
そのとき“私”は確か、幼なじみの怒りをなだめるためにこう言ったはずだ。趣味嗜好くらい好きにさせてあげてもいいんじゃない? と。
その言葉に偽りはない。
思っているだけなら自由であると、セシアは今も考えている。
でも現実として、まだ親元から自立してない小さな女の子に何かしら邪な感情を抱いてしまったとして、それを何らかの形で外に出してしまったとしたら。
幼なじみの、言葉よりも雄弁だった鬼のような形相を思い出す。
今、ここに鏡があったとしたら、同じ顔が映っているのではないか。
胸に、使命感のようなものが芽生えかけていた。
セシアという女の子を守るのは、“私”の義務であると思うのだ。
図書室にノンノたちは同行しないと聞いて、セシアは不安をあおられた。
ワガママを言ってみようか、と画策したもののこういうときに限って声が聞こえる。ノンノほかメイドには、セシアが手を離れる時間を使ってやらなければいけない仕事があるようだった。
ベイゼル先生は、ずいぶんと周りから慕われているようだ。
目線や、それこそ幼なじみの指文字のごとく、なんとか抱いた危機感について説明しようと思ったが、誰のどの首もが傾くばかりだった。
たまたま外出をする前だったらしい、お父さまに至っては、娘を頼むだとかなんとか重い言葉とともに、先生の手のひらへと、鍵を落としていた。
あのでっぷりと膨らんだお腹の中には、商売人であるだけあって様々な思惑が蠢いているようなのだが、先生に関しては真っ当な評価を抱いているようだ。信頼のようなもの。
お母さまのあの態度に腹が立ったりしないのだろうか。ちらりと気になるが、夫婦のことについて娘がすべてを知る術はないので、とりあえず横に置いておく。
(…… 勘違い、だろうか)
自信がなくなってきた。
いろいろな心の声が聞こえるせいで、少し過敏になっている可能性はある。
昨日の夜の出来事が勘違いならば、表向き、先生の言動は普通の範囲、かもしれない。
裏向きの声が聞こえたわけでもない以上、過剰反応は控えたほうがいいだろう。そもそも、聞こえるはずのない声は判断材料としていいものか、よく考えなければ。
警戒はしよう。そう思いつつ、昼食を済ませたセシアは、先生とともに図書室へと向かった。
長い長い廊下があった。図書室のある別棟へと続く道だ。
敷き詰められた柔らかな絨毯が、足の裏を押し返してきて、セシアはぴょんぴょんと飛び跳ねるように歩く。
足が弾むと、一緒に心も弾むのをおさえるのは難しかった。
勝手知ったる我が家ではない。まるで、遊園地のアトラクションに迷いこんでしまったみたいだ。
廊下の片側には窓があり、その向こうには、パノラマ風景が広がっていた。小高い丘に立つ屋敷からは、街並みが見渡せる。ミニチュアのような家々、その先に広がるコバルトブルーの海。港町だ。
「エーヴェリタです」
思わず足が止まっていたセシアに、後ろから声がかかった。
振り向く前に、横をすり抜けた手が、窓を開け放つ。
街を指差し、もう一度先生が言った。
「エーヴェリタ。国内有数の港町、この国の貿易と交通の要所です」
頬をなでるのは、潮風だ。
低音の声は風に乗り、遠くまで響いていきそうだった。
「セシア様のお父上はエーヴェリタの領主であり、町一番の貿易商でもいらっしゃいます」
大きな家であるとは思っていたし、お父さまがよく仕事で出かけているのは知っていたが、なんとこのあたりで一番えらい人だったらしい。
商人であり領主でもあるという。二つが両立できるものなのか、日本の生活にうまく置き換えることができず不思議に感じる。
セシアは、何時間でもここから風景を眺めていたい気持ちになっていたが、本来の目的を忘れてはいけないだろう。
ちらりと後方を伺うが、先生は黙って立っており、急かすつもりはないようだった。
(エーヴェリタ)
心の中で、呟いてみる。
いつかあの街にも行ってみたい。リストに追加して、セシアは先へと足を進めた。
簡単なことのようで、この短い足ではなかなか道のりは遠そうだと思いながら。
大きな扉があった。
渡り廊下を進み、回廊をぐるぐると下った先、まるで法廷へ続くような木製の扉の先が、図書室であるようだった。
鍵穴に鍵を差しこむと、おや、と先生は呟いた。
セシアが覗きこめば、軽く微笑みが返される。扉は開いた。
ギイときしんだ古びた音に、少し緊張する。
空気圧が違うのか、部屋の中からひんやりとした冷気が漂ってくる。少しほこりっぽい、かび臭い匂いもした。
「どうぞ、お先に」
うながされ、足を踏み入れる。
天井に迫る高さの書架が何層も、部屋の奥のほうまで連なっている。
同じ名前でも、学校の図書室よりももっと雑多な雰囲気だ。どちらかというと、倉庫のようだ。
書架は、人一人通れるかどうかのスペースを保ちながら並び、本は棚に隙間なく縦や横置きとなり詰まっている。部屋の広さに対しての本の量が見合っていないような気がする。キャパオーバーというやつだ。
目に飛びこんでくるのは見慣れない文字ばかり、どの本も埃をかぶり、薄汚れている。
ほうっとセシアは思わずのため息を漏らし、持っていた絵本を取り落とした。
絵本コーナーはどのあたりなのか、聞いてみようと振り返れば、ばたんと重い音を立てて、扉が閉ざされた。
いつのまにかすぐそばにあった黒い影が、小さな身体に覆いかぶさるようにして足元から絵本を拾い上げる。
途中、耳にそっと息がかかった。
「―― やっと、二人きりになれたな」
そして、時は冒頭に巻き戻る。