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わたしの悪魔さん  作者: 雪田
第一章 幼少期
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07.わたしの執事さん

 死んだらどうなるのか。


 きっと、生きている間に一度は考えること。

 “私”の場合、無になるのだと思っていた。きれいさっぱりなくなってしまうものだと。

 だからこそ、死とは恐ろしく、自分とはかけ離れたもので、唐突に訪れたときも現実として受け入れることができなかった。今だってそうかもしれない。

 死を迎えた瞬間、痛みを感じたかどうかさえ、記憶にぽっかり穴が開いていて、思い出せない。

 あのとき、夕方が近づいて人通りの増えてきた街を、夕ご飯はなんだろうな、そんなことを考えながらのんきに歩いていた。この道程が明日に繋がっていないかもしれない、そんな想像をするのは困難だった。

 唐突に途切れた道の先でダンディな天使に会い、そして、…… そして、何を話したのだったか。



 セシアはベッドの上で座禅を組み、トンチをきかすどこかの小坊主さんのように指で頭のつぼを押していた。

 夜に考えたことはろくな結果に結びつかない、経験上知っていても、思い始めると止めることは難しい。気になって夜も眠れない。安眠のためには、契約書だ。

 イメージする。頭の中の海の上でぷかぷかと浮いている、無数の紙切れたち。

 手を伸ばそうとするとするりと逃げ出す。波に翻弄される。でもなんとか、おぼれる覚悟でもって手を伸ばさなければ。そこになんと書かれていたか。思い出さなければいけない気がするのだ。


「セシアさま?」


 いぶかしげな声をかけられた。

 ノンノは何度かためらいを見せたあと、ちょっと失礼いたします、と断りを入れて、前髪をかきわけおでこに手を当ててきた。

 ひんやりとした、あまり潤いのない、カサカサとした感触の肌だ。

 向こうには、お気に入りのハンドクリームがあったことを思い出した。

 “私”の少ない趣味の中の一つに、人に何かをプレゼントすること、というのがあった。

 袋や箱から取り出したときの、うれしそうな顔を見るのが好きだった。

 ノンノには絶対あのハンドクリームをあげたい。香りは、バニラがぴたりだと思う。

 手のひらの下でそんなことを考えていると、ノンノは困ったように眉をひそめた。

 好みの香りではなかったか。バニラじゃなくてバラがいいだろうか。おすすめは柑橘系なのだが、清潔好きで働き者のメイドさんにはやわらかな癒しを送ってあげたい。そんな気分。

 ノンノはあわてて部屋を出て行った。


(ハンドクリーム、気に入らなかったのかな……?)



 やがて、見覚えのない人を連れて戻ってきた。

 先ほどと同じことがくり返される。手を額に当て、手の甲を頬に当て、口に指を入れられ開かれた。

 されるがままになりながら、ああ、先生かと思い当たる。

 よれよれ白衣と使い古された聴診器がないと、同じ人物と認識できない。

 長い髪を後ろできっちりまとめ、薄いフレームの眼鏡をしている医者は別人のようだ。

 とん、と肩が軽く押され、セシアはベッドに転がると上から布団をかぶせられた。

 

「―― 風邪だな」

「―― 風邪ですね」


 シーツの向こうで、二人の声が重なって聞こえた。




「…… 先生には貴重なお時間を割いていただいていますのに……」

「いえ。長い眠りから覚めたばかり、起き上がっているという状態を保つだけでこの小さな身体にはかなりの負荷がかかっているのでしょう。疲れが出て当然です」

「それもそうですわね……。ところで先生? 私、最近頭がひどく痛みますの、診てくださらないかしら?」

「それはいけませんね。セシア様のことで、見えない心労が蓄積されているのでは。奥様、きちんと睡眠はとっていらっしゃいますか?」

「先生、どうぞマーシュと呼んでくださいな。私は、娘をただ心配することしかできない、ダメな母親なのですから……」

「ほら、そうやって抱えこんではいけないと申し上げているのですよ……」


 まぶたというヴェールの向こうで、そんな会話を聞いた気がする。

 うっすらと開いた隙間から、部屋の中に医者、お母さま、執事、ノンノがいることを確認する。

(そういえば、今日から家庭教師がどうのと言われていたっけ……)

 けっして勉強が好きなわけではないけれど、この世界について情報を集める、ということはセシアにとって目下の命題である。

 なんと軟弱な身体なのか。

 ちょっと夜遊びしただけでこの体たらく。

 いまだ思い出せない契約書の中身だが、健康の項目にチェックを入れ忘れているのは確実だった。

 上気する脳みそで考えたことは、ろくな結果に結びつかない。わかっていても、思考が滝のように流れるのを止められない。

 たとえば、だ。セシアは、花どころか、まだこの世界の名前すら知らない。

 情けないことだが、世界や国の名前なんて知らなくても日々生活できるのが、五歳児の特権である。

 そんなことより、毎日会う人の名前や好きなもの嫌いなもの、使う道具や口にしたお菓子の名称、それらを覚えることのほうがよほど大事。それだけでも精一杯というのが現実だ。

 でも、そんな散々な有様であるのに、以前よりわかってしまう(・・・・・・・)ことがあった。

 たとえば、である。


「…… マーシュ様、そろそろお時間が」

「あらもう? 先生とお話していると時間があっという間に尽きてしまいますわね」


 お母さまは心底残念そうなため息をつき、優雅に立ち上がる。

 促され、渋々と足を進める後ろ姿に、奥様、と声がかかった。


「セシア様には長い時間が必要です。けれど、それには奥様の支えが不可欠なのですよ。どうぞ御身をご自愛くださいませ」


 医者が深々と頭を下げると、お母さまの頬が薔薇色に染まった。

 その視線をさえぎるように黒い身体が横入りし、扉が閉じられる。


「―― ただの田舎医者がえらそうに。素直なマーシュ様のお耳には毒だ。いっそ、ふさいでしまえたらいいのだが」



 このお屋敷には執事がいる。

 執事という役職につく人は総じて某アニメに登場するような、名前に爺とくっつくのがふさわしい人ばかりだというイメージがあったのだが、偏見であったらしい。

 サンドという執事は年若く、甘いマスクの持ち主で、母が好きだった韓流ドラマに出てくる俳優さんに似ている。

 この執事さん、この屋敷の女主人たる、つまりお母さまに懸想している。


 身分違いであるし、不倫でもある。

 そんな禁断の恋であっても、古今東西、どの世界にでも石ころのごとく転がっているようだ。

 お国柄によっては禁忌とされない思いなのかしら、と、最初のうちは考えてみた。文化の違いというやつだ。

 けれど、執事がつむぐ、人目をはばからない愛の言霊は、源泉からあふれ出す水のように止まらない。TPOを弁えることもなく、本人の前でもお父さまの前でも止まらない。

 お美しい、という容姿礼賛に始まり、お父さまと喧嘩して傷ついている姿を見れば、おいたわしいと同情し、心の隙間に自分の存在をアピールすることを忘れず、ときには欲望に直結するような過激なこともちらりと漏らす。一言一言、ドラマで耳にするような詩作に富んだ表現のオンパレードだ。

 耳をふさいでしまいたい。それは、こちらの台詞である。

 特に、五歳児の耳には毒だと思う。

 おろおろとしながら伺う、周りの無反応ぶりから察するに、これは文化の違いではなく、セシアにしか聞こえない声なのではないか。

 最近、ようやくその結論に達した。

 心当たりを探してみれば、


「相手の気持ちがわかる人になりたい」


 ダンディな天使を前に、格好つけてそんなことを口走ったような記憶が。

 もしも、あれがこの奇妙な力の原因なのだとしたら。

 契約書の内容を確認する必要があった。早急に。



 ノンノがコップに水を入れてくれた。

 こくりと口に含んでみれば、喉が渇いていたのだと気づかされる。

 表面上、このメイドが感情をあらわすことは少ない。

 たとえ心の中は毒にまみれていても、話さずとも気持ちを汲んで、楽をさせてくれるノンノ。こういう能力は、その人が持っている資質であったり努力であって、特別ではない。

 あえて言えば、“私”が望んだのはそういう力であって、思いを乗せた言の葉のかけらが直接脳に届くような魔法は、セシアを戸惑わせるだけだ。

 かつて、鈍感であるという烙印を押された経験のある“私”である。

 異世界に別人として生まれ変わったからと言って、急に心の機微に敏感になったとは考えにくい。

 昨夜の不思議の絵本のような、魔法のような、特別な力が加わっているのだと考えるのが自然だろう。

 脳みその中、あざわらうように契約書がひるがえる。

 無意識に、手を伸ばしてしまったらしい。

 ふわりと包みこまれた。カサカサとした感触に、母の指を思い出した。

 ついきつく握り、軽く揉んでしまったが、振りほどかれることはなかった。


「…… おかわいそうに」


 心の声ではない。

 その証拠に、寝台の近くで診察鞄を広げていた医者が反応を示した。

 ノンノははっとしたように口を押さえ、医者と目が合うと慌ててそらした。


「も、申し訳ありません。不敬なことを申し上げました」

「別に俺に謝る必要はないだろう。このお嬢様に対してはわからんが……、もう聞いていないようだぞ」


 半分夢の世界へと突入しながら、くだけた口調に違和感を覚える。


(……はて。こんな人、だったっけ?)


 まだ会って一ヶ月ほど。もちろんすべてを知るには足りないが、こんなに強く印象に残る人だったろうか。周りが強すぎたというのもあるだろうけれど。

 初対面の印象を覆すのは難しいことである。

 神経質そうな、枯れかけた学者さんのようなイメージを抱いていた。

 今、目の前にいるのは、どこかあやしい雰囲気を漂わせていて、白衣を身に着けていないと、とても医者とは思えない。きちんとした格好のせいか生気を吹き返したようだ。

 ノンノがぺこぺこと頭を下げている。それから二、三と言葉を交わす。

 医者が冗談を言ったらしい。ノンノが微笑む。めずらしい光景だった。

 執事はお母さまに片思いし、お母さまはこの医者に片思いしている。お母さまについては、心の声に耳を傾ける必要もなく、見れば誰でもそうとわかる。

 矢印の一方通行は、もっと複雑に交わったりするのだろうか。あまり知りたくないものだ。

 いい夢を見ることは難しそうだったけれど、意識が白く包まれていく。

 処方された薬が効いてきたらしい。

 誰かが部屋を出て行く気配がした。誰かが寝台のそばに寄ってくる気配もした。

 額に手のひらが当たり、頬に甲が当たる。ごつごつとした大きな手だ。

 口を開いたり鼻をつまんだり、好き勝手に動き回っていた指先がふと、左目の上のあたりで、止まった。


「またずいぶんと、かわいらしくなったもんだな」


 低い声が響いた。耳をふさいでも脳に届くような声。

 まぶたの上に湿った感触が当たった。

 意識が途切れた。



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