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わたしの悪魔さん  作者: 雪田
第一章 幼少期
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06.わたしのお兄さま

 早めにベッドに横になったせいか、目が覚めてもまだ夜が続いていた。

 この世界にも時間という概念はある。

 しかし時計は高価なもののようで、玄関ホールに一つ、振り子式の置時計があるだけだ。

 朝と昼と夕、それぞれの食事の時間に合わせるように、家中に鐘の音を響かせる。長さと高低とメロディが微妙に違う音色は子ども心をくすぐる仕掛けだ。

 夜には、無音の鐘が鳴り響く。

 その鐘は“宵暗の刻”と呼ばれ、この時刻を過ぎると、すべての用事を終え、部屋に戻らなければいけない。そんな習慣があるらしい。

 みんな一斉に失礼しますと言って去っていくのだが、今のところセシアの耳には何も聞こえない。

 はたして、高周波の電波でもキャッチしているのか、優秀な体内時計でも隠しているのか、その謎はまだ突き止められぬままだ。

 ちなみに時計の文字盤には、四つの区切りしか示されていなかったので、こちらと向こうの一日の長さが同じかどうかもわからない。

 セシアの体感としては、この世界の夜は長い。



 ベッドから起き上がり、窓に近寄りカーテンを開けると、月が出ていた。

 ほんの少し丸みを失った白い月。まるで墨をこぼしてしまったような漆黒の空に、ぽつんと浮かんでいる。

 しばらく呆けたように眺めてから、下方に目を向けると、すべてが停止した夜の中、動いている人影があった。

 セシアの部屋は二階にあり、一階部分は裏庭に面していた。

 ふと思いついた。

 白い花の生けられた花瓶の横、伏せられたままのそれを見て、


(―― コレを返しにいかないと)



 バルコニーの隅から繋がる螺旋階段があること、前から狙いをつけてはいた。

 思っているだけで、医者からの外出許可はまだ下りておらず、計画段階だったのだが。

 だから今、窓を開け一歩バルコニーに出たことで、セシアははじめてこの世界の外の空気に触れた。

 深呼吸して肺に満ちたのは、なんだか甘ったるいにおい。

 これは早速、初体験リストに書き留めなくては。

 ちなみに、現時点でリストに登録されているのは、ダンディな天使に会った。お嬢さまと呼ばれた。両親にハグされた。兄弟ができた。などなどだ。

 “私”は、ひとりっこだった。


 階段の入り口には、鉄の門扉がついていた。

 小さく落胆しながら、押してみれば、キイときしむような音を立てて開く。

 気分が少し、高揚していた。

 かなり慎重に下りていったので、着くころにはもういないかもしれない。

 そんな予感にとらわれながら、たどり着いた裏庭の片隅に、その人影はまだあった。

 甘いにおいの正体は、庭園を埋め尽くす花の仕業だったようだ。

 ハーブのような種類なのかもしれない、近くを通り過ぎると濃厚ににおい立つ。めくるめく誘惑の手を避けながら、セシアは足を進めた。


 このお屋敷とも呼べそうな大きな家は、小高い丘の上に建っている。

 裏側は、断崖とまでは言わずともそこそこに急な斜面になっており、これ以上進めないようにと、柵で囲われている。家と柵までにあるわずかなスペースが、庭園として整備されているようだ。庭の隅には小屋があり、おそらく倉庫のような役割を果たしているのだろうと思う。

 二階にあるセシアの部屋からは、柵の向こう、今は夜の帳に沈んでいる先に、輝く水面が見えていた。

 湖なのか池なのか判別できなかったが、甘いにおいに混じり、わずかに潮のかおりを嗅いだ。海が近いのだ。


 目当ての人物がいるあたりには、白い、小さな花弁がたくさん付いた植物が群生していた。

 まだ名前を知らない花。あちらの世界にある花の面影を感じるが、おそらく違う名前なのだろう。

 トアレお兄さまは、その花壇のすぐ横に置いてあった椅子に腰かけ足を組み、膝の上で本を開いている。下向きに流れている髪は、闇の中でも輝きを失っていない。けれど、夜は広く深く、その淡い光では淵まで照らすのに充分ではない。少なくとも字を追うには心もとないだろう。

 近づくにつれ、やわらかな明かりが兄の手元を丸く包みこんでいることに気がついた。


(本が、光ってる?)


 よほど集中力があるのか、かなり至近距離まで近づいてもトアレは顔を上げなかった。

 光る本という珍しさに好奇心が抑え切れず、セシアがもう一歩近づくと、開かれていた頁に濃く影がかかった。

 ぱんっと勢いよく本は閉じられ、風を切るような速さで顔が持ち上がった。セシアはその勢いにあおられ、一歩二歩とあわてて後方に下がる。

 青い瞳が真ん丸になっていた。


「おまえ」


 どうやって、どうしてここに?

 つぶやききれなかった疑問はもっともで、セシアはまず背後の下りてきた階段を示した。

 どうやっての説明はこれでいいとして、どうして、に対して答えも用意する。

 背中に隠していた絵本を差し出した。


「…… これを?」


 こくこくとうなずく。

 トアレはしばらく、絵本と妹をじっと見据えていた。

 鋭い眼光だった。事件の裏側にあるチリ、ホコリまで見逃さないような名探偵の目つきだ。

 思わず、何も企んでいませんとアピールするべく、セシアは表彰状を受け取った生徒のような姿勢をとった。

 変な緊張感に包まれたあと、ふっと息がつかれる。


「…… 声が、聞けないのだったか」


 セシアはうなずいた。


「それは、図書室のものだから戻しておいてくれればいい」


 心得た、とうなずいた。


「宵暗の刻を過ぎたら子どもが出歩くものではない」


 ごめんなさい、という気持ちをこめてうなずいた。

 しかし、あなたも子どもではないのか。

 と、ツッコミを入れたくても、身振り手振りで表現するには難易度が高かった。

 話せないというのはやはり不便だ。

 ノンノやお母様や医者と話すときにもなかなか意思が伝わらず苦労している。

 文化や人種、年齢や性別、そういったものの間にある壁を取っ払うのに一番役立つのが言葉なのだ。

 痛感するものの、はたして言うべき言葉が何であるのか、と問われれば、セシアはたぶん少し困ってしまう。この世界に対して、首から提げた準備中の看板を外せていないからだ。

 首元を触っていると、視線を感じた。

 つらつらと難しいことを考えていたので、神妙な面持ちになっていたようだ。

 妹の表情に浮かんだそれを不服と読み取り、トアレは続ける。


「俺は、もう十三だ。自分の責任くらい自分でとれる」


 十三なんてまだ義務教育のうちで、両親の手の中でぬくぬく守られて暮らしているものだと思う。

 しかし、お兄さまの志としては違うらしい。

 結果として、なぜか伝わってしまったツッコミに対して、セシアは承知したというつもりで、またうなずいた。

 反比例するように、だんだんとトアレの表情は険しさを増し、やがてまたため息となって散った。

 凹凸のはっきりした顔立ちは、憂いなどの負の感情を倍増させて伝えてくれる効果があるらしい。

 きっと今、この十三歳の少年は、幼い妹に使うべき言葉について悩んでいるんだろう。

 年の離れた兄妹の独特の距離間はくすぐったく感じられ、セシアは視線をずらした。

 トアレが手に持っている本に向けて。


「なんだ? これが気になるのか?」


 ぶんぶんと勢いよく首を振って肯定する。


「ただの本だが」


 開くと、ほわっと紙が光を帯びた。

 あれだ、パソコンや携帯電話の液晶画面に少し似ている。

 画面が3Dのように、宙に浮かび上がって見えるのが少し異なっているが。

 ああ、と、ひとり納得したようなつぶやきとともに兄は立ち上がり、セシアに向けて手を差し出した。

 意味がわからず、とりあえず手のひらの上に手を重ねてみたところ、またため息をつかれた。

 不正解だったらしい。握手したまま、セシアは弱って首をかしげた。

 トアレは訂正を口にすることはせず、反対側の手でセシアが脇に挟んでいた絵本を引っこ抜いていった。

 絵本の名前は、いじわる魔女とかわいそうなヤモリ。

 トアレは目を閉じて、そっと表紙の上に手のひらを当てた。そして、題名のあたりを指で一本、すっと擦った。マッチでこするみたいに。


「“開扉するアフラクト”」


 言葉とともに、月の光が一筋、蜘蛛の糸のように落ちてきて、本に灯った。ようにセシアの目には見えた。

 トアレの手の中でぼんやりと輝き出したそれは、開けばもうただの絵本ではなかった。

 一頁めくられると、最初の場面、やすらかに眠る魔女の寝顔が立体的に立ち上がった。ぱちん、ぱちんと鼻風船が膨らんでは消える。

 ゆっくりと引き、やがて巻き貝の形をした天蓋つきのベッドが映った。その間も、ぱちん、ぱちんの音は絶えず続く。

 もう一頁めくられ、ぱちんと風船が割れるのと、ぱちりと魔女の目が開くのと、ベッド横で混沌を映していた水晶玉がぱっと映像を切り替えるのが同時だった。

 玉の中には、巨大な貝にしっぽをばくりとはさまれ、暴れているヤモリの姿。

 魔女は立てかけてあった箒を無造作につかむと、窓から飛び出し、柄の部分に鉄棒の要領で一回転して飛び乗った。そして、びゅーんと一閃、セシアの頬のすぐ横を飛んでいった。

 セシアは思わず振り返る。どこまでも続く墨色の空に光の筋を残して、魔女の後ろ姿は彼方へと消えた。

 もう一頁、めくられることはなく、ぱたんと絵本は閉じられる。


 突然の劇の終幕に、えーと残念な声を漏らしそうになる。喉は音を震わせないが。

 兄が無言で絵本を差し出したので、セシアはつばをごくりと飲みこんで受け取り、おそるおそる開いた。

 ただの絵本だった。

 先ほどのように、絵が飛び出してくることはない。キャラクターは勝手に動き出さず、音は鳴らず、ぼんやりと光る紙の中でとどまっている。


「おまえ、もしかして文字が読めないのか?」


 これにも是と答えるしかない。弱弱しくうなずくと、兄は眉間にしわを寄せた。


「記憶がない、とは聞いていたが、“(キラル)”もなくてしまったのか」


 キラル、とはなんのことだろう。脳みそが、鍵という意味に近いと翻訳してくれたが、おそらく日本語で代用がきかない言葉なのだ。音がそのまま生きて聞こえる。

 セシアは首をかしげながら、ぱらぱらと絵本をめくる。

 確かに、まだすべての文章を読むことはできない。でもこの絵本に限っては、どの言葉がどの文章かわかる程度に記憶していた。

 ノンノの献身的な犠牲のおかげで。

 だからまったく読めないわけではないんだぞ。

 と、よくわからない意地が張りたくなり、兄にもう一度絵本を差し出した。

 険しい顔にさらに不機嫌さが上塗りされる。


「読めってことか? 勘弁してくれ」


 すぐに終わるから付き合って、という気持ちをこめて、袖を引く。

 やっと視線が下を向いたところで、開いた頁の、とある一文字を指さした。


「なんだ? あ?」


 思いどおりの音が発音されたことに気をよくし、セシアは頁を行きつ戻りつしながら文字を指で示していった。


「り、が、……」


 と、う、も順番に指したが、読み上げてはもらえなかった。

 けれど、伝わっただろうか。

 この絵本を貸してくれてありがとう、と言いたかったのだ。

 忘れたのか置いていってくれたのか不明だが、長い夜を過ごすのにとても役に立った。

 たぶん、この世界での感謝の言葉にきちんと変換できていたと思うのだが、反応を見ているとどんどん自信がしぼんでいく。

 トアレは表情を消していた。

 やがて下からの視線に気づくとはっとしたように、わずかに頬を強ばらせる。


「…… “閉扉するリシエクト”」


 聞き覚えのない単語とともに絵本は光を失った。そして、やや乱暴にセシアに押しつけられる。

 セシアはあわてて受け取り、そして気づいた。

 目の前に立っている人が、この世界に来てから一度も微笑んですらいないということを。

 さっきの食事の席でも、今も、肖像画の中ですら笑っていなかった。

 どうしてだろう。

 問いかけたい欲望が目覚めかけたが、拒否するように背中がくるりと後ろを向いた。


「お子様は早く寝ろ。俺も邪魔が入ったからもう寝る」


 かちんと来る言い方だった。

 きっと普通の兄妹であればこのまま口喧嘩に発展するに違いない。

 けれど、この二人の間でそうなることはない。この先もずっとなのだろうかと少しさみしく納得する。

 性別の差も、年齢の差も大した問題ではない。

 今ここにいるセシアは、セシアではない。兄と妹ではないのだから、怒るのもどうしてと疑問に思うことですら、資格がないような気がしてならない。

 むしろここにいるのが“私”なら、言葉を受け取った“私”として、怒る権利がありそうなんだが。

 どっちつかず、覚悟ができていないと感じる。だから、声も出せないのではないだろうか。


 ぎゅうと抱えこんだ。

 まだじんわりと熱を帯びている、不思議な絵本。

 はじめて外に触れた夜、ここが異世界であることを強く意識した。


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