04.わたしのお父さま
娘にとって男親の存在というのはどうも薄くなりがちだ。
別に、頭髪のことを指しているわけではない。
確かに登頂部は少しさみしげになって、それに年月の哀愁を感じないわけではなかったが、縁側で寝転がっていると、そっと隣にネコを置きたくなるような。
娘のやることに口は出さない、だから父のやることにも口を出さないでもらいたい、と背中は静かに訴えていた。
つかずはなれずくっつかず、でもそばにいる。
それが“私”の中のお父さん。
こちらの、姿の見えない父親を不思議に思っていたところ、王都に出張していたと耳にした。
王都とは、日本でいう東京、イギリスでいうロンドンみたいなものだろう。
目覚めて二週間くらいしたころに、馬の嘶きが響き、庭に何か到着したことを知らせた。
ちょうど、昼食の終わりかけの時間だった。
セシアは、背中に大きなクッション枕を挟めばなんとか一人で座れるようになっていた。
小さな座卓をベッドの上に置き、盆を引き寄せて、スープを口へと運ぶ。
まだ固形物は受けつけないので、毎日汁物ばかりを飲んでいる。
一日に三回の食事、メニューは、一度もかぶったことがない。
今日は、オレンジ色のポタージュだ。
舌に広がるやさしい甘みとこの鮮やかな橙色からして、にんじんが使われているような気がする。口当たりはあっさりしていて飲みやすい。この世界ににんじんってあるのだろうか。
最初は飲むのに夢中で、小さな口の端からだらだらとこぼれて汚してしまうことが多かった。
五歳児用の小さな食器というのはこの世界にはないようだ。
見かねて、すぐに次の食卓からはデザート用のスプーンとフォーク、そしてナプキンという名のよだれかけが用意されていた。
気の回るメイドさんである。
そしてかなり思ったことをずけずけと物申すメイドさんでもあった。
この若いメイドはノンノ、やや腰の曲がった古株らしいメイドがジュジュというらしい。
記憶を失っていると医者に診断されたセシアに、二人は改めて自己紹介をしてくれた。
住みこみのメイドは二人のみで、あと三人ほどが通いでやってくるのだそうだ。
ジュジュはお母さまの世話や屋敷全体を見る担当で、おもにノンノがセシアの担当になっていた。
お母さまは、おやつの時間のころにセシアの部屋にやってくる。
最初の二、三日はべたりとくっついて離してくれなかったのだが、今は滞在するとしても長くて小一時間ほど。
かわいい服を着せてくれたり、人形を連れて来てくれたり、お菓子を持参してくれたり、甲斐甲斐しいお土産攻勢が続いたが、一週間ほどが過ぎると、見る見ると元気を失ってしまった。
最近は、何かの使命感に背中をおされるように、半ば悲壮な顔つきで部屋を訪れる。
もともとあまり身体が強くないのかもしれない、そばにはいつも執事が付き添っている。
セシアも、なかなか五歳の無邪気な童心をあらわせずにいたので申し訳ないとは思っていた。
話すこともできないので、一方的な話題もすぐに底を尽いて、親子ながらに気まずいのだろう。
好意的に解釈をしていたところ、ノンノは言った。
「―― 飽きたようですね」
娘に飽きる母親とはこれにいかに。
詳細を問おうと熱い視線を送れば、ノンノはやはり不思議そうな顔をするのだ。
主人に対する爆弾発言のように思うのだが、こちらのメイドにとっては普通なのだろうか。
どうもわからない。
コンコンとノックの音が聞こえ、執事が入ってきた。
「旦那様がお戻りになられましたよ」
いきなりではあるが、美女と野獣という物語がとても好きだ。
あの野獣には、恐ろしい外見を上回る、女性を魅了するセクシーさがあるのである。
ゆえに、最後に普通のイケメン王子様に変身してしまうのは少々残念に思ってしまうわけだが。
さて、お母さまをお姫さま、ではお父さまは何と例えようか。一寸悩み、セシアは腕を組んだ。
でっぷりとしか表現できないおなかの肉が、ズボンの上に乗っかっている。
ここに来るまでの間に汗をかいたらしい。
胸ポケットにしまってあったハンカチーフを額に当てて、ふーふーと息を整えている。
ふーふーにあわせて、金色の前髪が持ち上がっては額にくっつくをくり返している。
どうやらそれは、五歳の娘を和ませようという父親にありがちな遠まわしなギャグ、ではないらしい。
「セシア、父様だぞ。わかるか?」
呆気にとられている娘を引き寄せハグし、軽く頬を合わせるとしっとりした湿った感触。
うらやましいくらいにお肌はツルツルだ。チクチクと刺さる髭が痛いのは減点だ。
「話すことができないと聞いたが、調子はどうだ?」
セシアは首を押さえながら左右に振った。謝罪の意味もこめて、軽く頭も下げる。
「よいよい、しばし安静にするがいい。本来、女性はしとやかなほうがより望ましい。口が聞けないくらいでちょうどよいかもしれん」
なんともポジティブに女性を蔑ろにする発言だ。
セシアは聞き流したが、後ろに控えているノンノの目がぎらりと剣呑な光を帯びたような気がした。
今にも声が聞こえてきそうで恐れたが、さすがの彼女の口も、時と場所を選んで開くらしい。
「早く全快し、これからは我がエーヴェリット家の名に恥じぬ淑女となるために努めるのだぞ」
セシアがうなずくと、にっこりと笑う。
七福神の恵比寿様のような面持ちだ。まぶたと頬が接して、目がなくなる。
もう一度ハグ。
短いセシアの腕では背にまで届かず、まるでおなかと抱き合っているようだ。
そして儀式は終わったとばかりに、背後に控えていた執事たちに声をかけた。
「ベイゼル先生と相談の上になるが、早急に遅れを取り戻せるよう各方面へ手配をすすめよ。お前に任せる、サンド」
「はい、かしこまりました」
「私は夕食まで休息をとる。軽い食事を部屋まで持ってきてくれ。ジュジュ」
「はい、かしこまりました」
お父さま、執事、ジュジュが順番に部屋を出て行った。
見送るノンノの肩をお父さまがぽんと軽く叩いていく。娘を頼むと言ったところか。
ベッド上でしばらく呆けていたセシアに、拗ねていると早合点したノンノがやさしく微笑んだ。
「旦那様は長旅でお疲れなのでしょう」
確かに、王都とここまでどれくらいあるかのは知らないが、あの体格で長距離移動はつらいだろう。
昼食の途中だった。残りをどうするか、悩む間もなく片付けが始まる。
にんじん風ポタージュは冷めてもおいしそうで心が惹かれるものの、作ってくれた人には申し訳ないことだが、なんだかおなかがいっぱいになってしまった。
皿を片しながら、ノンノは肩から塵を払い落とした。
「―― まったく、成金豚が知ったふうに女を語るなよ」
ノンノの評価は辛らつだ。
しかし言われて想像してみると、それしかないようにも思う。
(セシアのお母さまとお父さまは、お姫さまと金の豚)
どんな紆余曲折のラブロマンスがあって結ばれたのか、聞きたいような聞きたくないような気がした。
セシアの遊び場は、ベッドの上に限られる。
ついこの間まで気ままな大学生をしていた“私”にとって、それは退屈でしょうがない時間なのだが、自然と受け入れられるのは、身体から大きな影響を受けているせいなのかもしれない。
五歳の身体は、たくさんの休息を欲している。一日の半分くらいは眠っている気がする。
体調はまずまずと言ったところ。少しずつ力を取り戻しているように感じる。
起きて、着替えて食べて眠って食べて眠ってお母さまとおしゃべりして眠って、合間にメイドや執事や医者から話を聞く。
記憶喪失という診断は、セシアにとってありがたいものだった。知らなくても病気のせいにできるからだ。
それから声が出ない、というのも結果としてはよかったかもしれない。
疑問は降り積もるばかりだけれど、五歳を無理に演じる必要がなくて助かっている。
それでも持て余してしまう時間、退屈な夜と戦うためにセシアが何をしているかというと、絵本を読んでいた。
あの金髪に青い瞳の男の子が置いていったのだろう、絵本だ。
そういえば、最初の夜以来まったく姿を見かけないが、本当に天使だったのだろうか。天使だったらいいな。向こうにもいたのだからこっちにいてもおかしくはないだろう。
最初はその一冊しかなかったが、何度も同じものを読み返しているのを見て、ノンノが新たに何冊か持ってきてくれた。なんとこの家、図書室があるらしい。
そして気づいたこと。
セシアは話している言葉は理解しているが、書いてある文字を読むのはあやしいということ。
この世界で話されている言葉は、日本語ではない。
だから“私”にとっては未知の言語なのだが、セシアにとっては親しいもののようだ。頭上を飛び交う会話の中に知らない単語はあれど、理解できないものは少ない。
五歳のときの自分の学力レベルがどんなものだったか。
年の離れた弟妹もおらず、まだ子どもを産んで育てた経験もなかったため見当がつかないが、ひらがなならなんとか、というところだろうか。
絵本は、絵がメインなので文字を読まなくてもなんとなくストーリーがわかる。
子どもの目ってのはおもしろいもので、内容に集中しないと、絵のあちこちに視線が飛ぶのだ。
とくに最初の、天使の忘れていった一冊はそういう遊び心が満載の絵本だった。
話の筋に関係ないところでキャラクターが喧嘩をして、数ページ後に仲直りをしていたりして、見つけるのが楽しい。
ときどき、ノンノにせがんで本の読み聞かせをしてもらう。
ノンノはたぶん読み手としてかなり不適格だ。
たった一人の聞き手相手に声はうわずり、酸素が足りなくなるようで、変なところで間が空く。
今日も同じ一冊を差し出すと、笑顔を引きつらせながら、「かしこまりました」と、ベッドのかたわらに腰掛けて、咳払いを一つ、読み始めてくれた。
「えー、むかしむかしのあるところに、ちょっと意地の悪い魔女がおりました。ある日魔女が仕かけておいた罠に ―― 」
その反応が楽しいのが半分、言葉の勉強がしたいのが半分。
真剣な横顔に向けて、ごめんね、とセシアはこっそりと謝っておいた。
「お嬢様はこの本が本当にお好きでいらっしゃるのですね……」
絵本の題名は、いじわる魔女とゆかいな仲間たちシリーズのうちの一冊、『いじわる魔女とかわいそうなヤモリ』という。
ヤモリとは日本での呼称であって、こちらではなんだか勇ましい名前になっているが、この見た目にはやはりヤモリのほうがふさわしい気がするのでヤモリとする。
話は、魔女の罠にかかり囚われたヤモリが、隣国の王子に化けさせられ、人間の世界に放り出されるところから始まる。
王子は大いに悲しみ、魔女に懇願する、「どうかヤモリに戻してください」。
ちょっと意地悪な魔女は王子に約束する。
「お前が王女とキスを交わすことができたら元の姿に戻してやろう」、と。
それからいろいろあって、本当に王子は王女と恋に落ちる。そして打ち明けるのだ。
「ぼくは、あなたとキスをするとヤモリになってしまう!」
「まあ」
王女は大いに驚き、けれど、悲しまなかった。
すぐにちゅっと口付けをして、途端ヤモリになった王子を見て、王女は叫んだ。「―― まあ、なんて素敵なの!」。
二人から一匹と一人になっても、王子と王女は何度もキスを交わした。
面白くないのは、その様子を水晶玉を通して見ていたちょっと意地の悪い魔女である。
タクトを一振りし、ヤモリを一生王子の姿のままにする魔法をかけてやった。
高笑いをする魔女の顔のアップ、水晶玉の中でこっそり抱き合う二人、その横にめでたしめでたしという文字があり、話は結びとなる。
ノンノが、ぜいぜいと荒い息を吐いている。
五回ほど同じ話を所望した結果、疲弊してしまったようだった。楽しくてつい。申し訳ない。
その横で、セシアは一人絵本をめくる。
最後のページを開いた。
水晶玉の中で抱き合ってる二人の、表情がなぜか気にかかってしまう。
王女は幸せそうにほほえみ、王子は涙を流している。対照的だ。
もちろん、幸せなときにも涙は流れるものだとセシアは知っている。けれど、この場合もそうなのかどうか。
題名に作者の意図を深読みしたくなるのは、大人の脳みそが働いている証拠のように思う。
厄介だった。
真っ白に近い五歳の子どもの脳みそでないということは、スポンジのように吸収する、というわけにはいかないということだ。
言葉、とくに書かれた文章を読むことについてはこの先、前途多難な予感がする。
そして、ちらりと気になったのはこの世界についてだった。
この絵本もほかの絵本にも当たり前のように魔法が登場する。
もしかして、この世界、魔法がある世界なのだろうか。
疑問はこのほんの少しあとに、紐解かれることになる。