03.わたしのお母さま
頼まれ、母親のクラス会の通知文をパソコンで打ちこんで、プリントしたら誤字があった。
それと気づかずに発送してしまって、今朝、ちくりと母が文句を垂れたのだ。
「気づかなかった私も悪いけど、最後にチェックしてから送ってねって頼んだのに」
頬を膨らませてブツブツと文句を言った娘に、母ははぁとため息をついた。
かちんと来た。
あとは、売り言葉に買い言葉で喧嘩をし、外出した。
それは日常の小競り合いで、特別区切りになるようなものではなかった。
ため息をついた母が、最後の記憶になってしまった。
最初に気づいたのは、聞きなれない言葉。呪文のような言葉だった。
何度も呼ばれるそれがなんであるのか、わからないままにまどろんでいた。
(あ、名前か)
「…… シア?」
はじめて目に映ったのは母の顔、ではなく金髪に青い瞳の男の子だった。
きれいな顔立ちをしている。多くの人が思い浮かべる天使像はきっとこんな形に違いない。
先ほど出会ったダンディな顔とは似ても似つかない。
と、比べてみようとしたら、モザイクがかかったようにうまく思い出せなくなっていることに気づいた。
もともと人の顔を覚えるのは得意ではないが、若年性認知症の始まりだろうか。
「シア、セシア?」
動物の鳴き声のようにも聞こえるが、シア、セシア、覚めない意識の中でも何度も聞いた言葉だ。
おそらくこの身体の名前だろう。
ずっとまぶたを閉じていたのに、いざ開けたら目玉は乾いているという不思議。
貼りついてしまったような痛みがあった。何度も瞬きをくり返していたら涙がこぼれ落ちた。
表面が潤い、視界がわずかにクリアになる。
覗きこんでくる男の子に、何かを言おうと口を開いた。
声が出ない。
喉元に手を持っていくと布のようなものが巻かれている。包帯だろうか。
怪我でもしたのか。過去の記憶を探ってみるが、うまく引き出せない。
今、頭の中に三つの記憶が居座っていることを確認した。
向こうの世界の記憶と、おそらくこの身体の記憶、そして今まさに積み上がっている記憶だ。
鮮明なのは三つ目のみで、後の二つはそこにあるだけという感じ。
身体の記憶については触れることすらかなわない。箱の中に大切にしまわれている感じだ。
だから、目の前の天使のような男の子が誰なのかもわかっているようで、わからない。
青い瞳にまっすぐ見つめられ、困った“私”は首をかしげた。
海のように深い青だ。吸いこまれそうだと錯覚をする。
男の子は、しばらくすると何も言わずに部屋から出て行った。
人を呼びに行ったのかもしれない。
あたりは暗い。夜のようだ。
ベッドサイドにある卓の上には明かりが灯っていて、椅子の上に本が逆さまに伏せて置いてあった。
読書をしていたんだろうか。
表紙にイラストがついている。薄く、少し大きめのサイズの本は、絵本のように見える。
興味を引かれたが手を伸ばすことができない。起き上がることさえ難しそうだ。
明かりに向かって手をかざしてみる。
小さな手。
手は赤い輪郭を持って暗闇の中に浮かび上がり、血液が通っている人間だと教えてくれた。
鏡がないので全体像はわからないが、ずいぶんと幼いようだ。
縮んだ、というよりは身体ごと違う感覚だった。
首元にもう一度手を這わせる。
(セシア、か)
どんな女の子なのだろう。
目を閉じるとまたとろとろと睡魔がやってきて、もう一度夢と現実の狭間の世界へと意識を手放した。
てっきりすぐに周りで動きがあると思っていたがそんなことはなく、朝を迎えた。
鳥の鳴き声が窓のカーテン越しに聞こえて、けれど自分で起き上がる気力はまだ戻っていなかった。
やがて、部屋の扉が開き、一人の女性が現れた。
白いレースのエプロンに、ふんわりとふくらんだ紺色のスカート。
細い両腕に掃除道具を抱えていて、今から仕事に取り掛かるようだ。袖をまくっている。
メイドさん、だろうか。物珍しさに、その動向をしばらく目で追いかける。
てきぱきとした動きには無駄がない。毎日やることの手順がしっかりと決まっているのだろう。
この広い部屋を掃除するのは大変だろうな。
日本の平均的家屋のリビングよりよほど広いのではないだろうか。
しかし、家具や余計な装飾品が少ないせいか、殺風景にも見える。
今眠っているベッドは、セシアの身体に比べてかなり大きく、ダブルベッドくらいのサイズである。
とりあえず、カーテンを開けてくれないかな。
と思ったが、なかなか叶えられない。
メイドは、ベッドを中心にコンパスで描いた範囲を避けるように、近づいてこなかった。
そういう決まりでもあるのかもしれない。
驚くべき速さで掃除を終えると、最後に、花瓶に白い小さな花を生け、ベッド横の卓に置いた。
こういう類いの花だけで飾るというのも珍しいような気がするけれど、小さな花が集まり一つの大きな花のように見え、きれいだ。
椅子の上で開きっぱなしになっていた絵本も花瓶のすぐ横に置かれた。
じいっと見つめていると、やっとメイドの顔がこちらを向いた。
はじめて、ベッド上で目を開けているセシアに気づいたように。
「セシアお嬢様、おはようございます」
お嬢さまという呼び方に戦慄を覚えつつ、こくりとうなずきを返すと、微笑みが戻ってくる。
一拍置いて、キャーーー!!! という甲高い悲鳴が家中に響き渡った。
悲鳴でかけつけてきたのは、同じような格好をした、やや腰の曲がったメイドがもう一人と、おそらく組み合わせ的に執事だと思われる男性だ。若い。
そして、最後にきらびやかな女性が登場した。
朝だというのにこれから舞踏会に出かけるのかいシンデレラ、という装いである。
しかしこれがここの普通であるのかもしれない。
メイドも執事も、日本にはいなかったし。お姫さまも当然いなかったから。
「………… セシア!!!」
声とともに、抱きしめられた。
なんてきれいな人なんだろう。セシアはドキドキとした。
まるで洋画の世界から飛び出してきた女優さんのようだ。
いい香りがする。甘いかおりだ。
セシアがこっそり鼻をきかせていると、キスの雨が降ってきた。
ひやっと飛び上がりそうになったが、抱きすくめられているので動けない。
白粉と紅と香水と、いい香りが混ざり合い酔いそうだ。
「セシア? 本当に? ああどうしましょう!」
「奥様、落ち着いてください」
執事らしき若い男性が興奮したお姫さまの肩にそっと手を置いた。
お姫さまはなんとか呼吸を整えると、その手をそっと握り返した。そして何度もうなずく。
「旦那様に早急に知らせを」
「そうね、そうね。それから先生にもお伝えしなくては。あとはあとは、ああ、どうしましょう」
間近にすると、お化粧の必要性がまったくなさそうな顔立ちだった。
ゆるやかにウェーブのかかった栗色の髪に碧色の目は飛び出す心配をしてしまうほど大きく、まつげは長くくるんと上を向いて、鼻は高く筋がすっと通っており、唇はふっくらとして熟れた桃を連想させる。
淡いピンク色のドレスがよく似合っていた。後は頭にティアラが載っていれば完璧だ。
「セシア、母様ですよ? わかりますか?」
このお姫さまが母親なのか。
愕然とした。この現実を受け入れるのには時間がかかりそうだ、とセシアは思った。
しかし、そう思いながらも、こくりとうなずいた。理解はしたのだ。
(セシアのお母さまは、お姫さま)
特大の涙が緑色の瞳からこぼれ落ちた。まるで宝石のようだった。
頬をなでる指の滑らかな感触がくすぐったい。
思わず身を引くと、嫌がられていると思われたらしい。手がすぐに離れていった。
セシアの持つ、“私”の一番古い記憶は、母親の手だ。
母の親指を触るのが好きで、握ったまま眠ってしまうこともよくあったそうだ。
カサカサに乾いた指紋の触り心地が好きだったのだ。
お母さまの手は今まで一度も泥遊びをしたことがありません、という手だった。
滑々とした石鹸のようで、やはり触られると少しくすぐったい。
何も話そうとしないセシアにお母さまは困惑したようだった。あからさまに肩を落としている。
セシアも意地悪で口を聞かないわけではないのだが、声の出し方を忘れてしまったようである。
そして、先ほど抱きしめられて揺すられて気づいたが、この身体、骨が溶けてしまったように支えがきかない。
おそらく筋力が衰えているせいだと思うが、お母さまが手を離した途端、顔からベッドに倒れこんでしまった。
小さな悲鳴を上げてお母さまが驚いていた。ショックと顔に書いてある。
ずいぶんとわかりやすい人らしい。
「先生、どうです?」
白衣に聴診器、というのはこの世界でもお医者さんの記号であるらしい。
セシアの身体のあれこれを診て、医者は難しい顔をした。
「まだ目覚めたばかりとのことで断言はできませんが、記憶を失っているようですね」
「ああなんてこと……!」
この世の終わりというように頭を抱え、お母さまはよろめいた。
執事がいいタイミングで後ろから背を支え、代わりに口を開く。
「記憶を喪失する病。各地で流行っていると聞き及んでおりますが、そちらとの因果関係は?」
「“迷える悪魔の気まぐれ”、ご存知でしたか。図書館でいくつかの文献に目を通したことがありますが、これだけでは肯定も否定もいたしかねます。アレは奇病の類。いまだ原因を特定できず、予防も治療も有効な方法はありません。ただ、一時的なものにせよ一生のものにせよ、記憶を失うというのは昔から見られる症状です。いろいろな要因を視野に入れた上で、経過を診ていきましょう」
よくわからない単語があったが、病名なのだろうと推測する。
記憶喪失が流行っているのか。伝染するようなものには思えないけれど。
「先生、セシアは、私は、これからどうすればいいのでしょう?」
「現状は周囲がしっかりと支えてあげることが肝要でしょうね」
「では声は、声のほうはどうなのでしょうか?」
「喉の傷については治癒していると見受けられます。こちらも精神的なものが原因なのではないかと」
というような、二人のやりとりを聞きながら、どうやらセシアというこの女の子は一年ほど前から意識不明の状態であったことを知る。
今年で五歳。
確かに、何歳からでもいい、と言ったような気がするが、五歳からのスタートとなるとは。
そして、次に気になったのはこの子自身の意識のことだ。
今のところ、医療器具らしきものが聴診器くらいしか見当たらないので、意識不明というのがどれくらい深刻なものなのか、判断しかねた。
心臓を動かしながら眠り続けていた、というところなのだろうが。
そこに“私”が入りこんだりして大丈夫なのだろうか。
頭の中の、この触れない記憶の箱がこの子なのかな。何か違うような気もする。
そういえば、生まれ変わる先の情報については、契約書にちらりと書いてあったような。
きちんと読まないからですよ、と叱られた気がした。すみません。
いろいろ考えにふけっているといよいよお母さまの顔色が深刻になってきた。
それに気づいた医者が別室で休むようにと伝えた。
執事に細い両肩を支えられながら、部屋の外へと出て行く。
その様子を視線のみで追いかけていたメイドが一人、残された。
灰色の髪に灰色の目をした、朝、掃除をしてくれていたメイドだ。
ふぅとため息のようなものをついた後、セシアと目が合うと慌ててぺこりとお辞儀をする。
仕事モードに切り替わったように見えた。働き者なのだろう。
新しい寝巻きを持ってきて、着替えをさせてくれる。
ふにゃふにゃの身体なので苦労したが、慣れた手つきでサポートしてくれた。
いつも身の回りの世話をしてくれているんだろうか、ありがたいなぁ。
思ったことを言葉にできないというのは、もどかしい。
喉の傷と言っていた。こんな小さな女の子がどうしてこんなところに怪我をしたのだろう。
セシアがもぞもぞしていると、声が降ってきた。
「―― おかわいそうに」
不意に届いた言葉にセシアはぽかんと顔を上げた。
メイドは視線の意味をはかりかねたように首をかしげる。
「お嬢様、どうかされましたか?」
空耳だったようだ。びっくりした。セシアは首を振った。
メイドは不思議そうにしながらも、黙々と作業を続ける。
あまり口数は多くないようだ。といっても、話せる相手がいないのだから当然か。
セシアはおとなしくベッドに横になった。
「―― あんな女が母親なんてかわいそう」
メイドが退出をする際、今度は閉じる扉から滑りこむようにはっきりと耳に届いた。
ぱたり、と扉が閉じてしまう。
…… こんなに堂々とした悪口をはじめて聞いた、とセシアは思った。