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わたしの悪魔さん  作者: 雪田
第一章 幼少期
19/23

19.わたしのはじめてのおつかい

 屋敷から街へと続くなだらかな緑と茶色の丘陵に、白い点々が散っている。

 一瞬花が咲いているように見えたそれらは、近づいていくうちに、おびただしい数の風車が立っている姿だとわかった。

 風が吹いても羽は動かず、ちょうど十字の位置で固定されている。

 大きくはない。せいぜいセシアの腰の高さくらい。みんな海とは反対の方角を向いている。

 風車はこの大陸を象徴するもの。何か神聖なにおいを感じとって、セシアの目玉は自然と吸い寄せられる。


「セシア様、身を乗り出しては危ないですよ」


 小窓に張りつくセシアに、ノンノが注意をする。

 馬車なるものにはじめて乗った。車輪が小石に乗り上げただけでも跳ね上がる。その衝撃で車外に放り出される可能性は低くはなさそうである。

 セシアはおとなしく背もたれに背をひっつけた。

 アスファルトで覆われた道路ほどではないが、街道に出ると乗り心地が安定し出した。

 道路には定期的な整備が必要なのはどの世界でも同じで、なんでもこちらにはその道のスペシャリストと呼ばれる専門職があるそうだ。

 歩き、その足跡を記録する。そんな単純なお仕事。ただし、健脚に自信がある者に限る。

 “陸路の旅人(イーガー)”と呼ばれる彼らは、あらゆる道を練り歩く。不備あれば領主に報告し、死道となるのを防ぐ。

 そのような声なき者たちのたゆまぬ尽力のおかげで、我々の生活基盤は支えられているのです。

 馬車の中を満たす、低音ボイス。

 読み聞かせにも実に向いていそうだな。そうセシアは考え腕を組むと、頭の中で絵本のラインナップを考え始める。


(高くつくぞ)


 斜め向かいから、低く声が届いた。

 馬車は四人乗りだ。

 セシアの目の前にはノンノが座り、その隣に胡散臭い笑顔全開のベイゼル先生がいる。

 そして先生の前、セシアの隣に、ぴんと背筋を伸ばし反対側の車窓へ視線を飛ばす、心なしか不機嫌な横顔。

 唐突に馬車が大きく左に揺れ、セシアは派手に横方向へと転がった。

 膝の上に倒れこんできた衝撃に一瞬驚いたように目を見開き、何かと見当がつくとすぐに渋い表情が刻まれる。


「…… 前を向いて、きちんと座れ」


 セシアはあわてて体勢を整えて、ぶんぶんと首を縦に振った。

 車内には沈黙が降り積もる。


(―― なんだろう、この組み合わせは)




   * * *


 お父さまより公布されていた外出禁止令が解かれた。

 あの夜から数えてちょうど三月目のことであった。


「外で遊ぶ姿こそ本来の子どもらしさであるからな」


 がはは、と笑った肌質はツヤツヤとして、最近、商売が順調であることを語っている。

 セシアが執務室に入ったのはすでに話が決着した後のことだった。

 だから、お父さまと先生との間でどういうやりとりがあったのか、詳細は不明だ。ただ、今日も詐欺師の舌の回転はさぞ滑らかだったのだろうことだけは推察される。

 お父さまが作る完璧な恵比寿顔の裏側で、さまざまな脳内会議が開かれているのが見えた。

 簡単に分析してみよう。

 対先生へのお父さまの感情は、なんとか取り入ろうする下手からの思惑と、若造めと侮る上手からの矜持が半々くらいでせめぎ合い、ほんのりと全体に暗い色を落とす嫉妬、そして、底から湧き上がるような、消せない尊敬の念に包まれて構成されている。

 セシアにとっては最後の気持ちが少し意外で、不思議だ。



 右へ左へと忙しなく曲がることをしばらくくり返して、馬車は停止した。

 目覚め始めたばかりの街、民家の窓にはまだ夜の気配が残っていたが、道行く人の歩調は速い。

 向こうの通勤ラッシュの風景を思い出したが、カゴいっぱいの野菜を持っている人もいるので、すでに一仕事を終えてきたところなのかもしれない。

 セシアが乗降口から身を乗り出すと、手が差し出された。黒い手袋だ。

 よれよれ白衣を身にまとっていないので、本日は医者でなく先生モードであるらしいと判断する。


(こっちのお医者さんって、もしかして特別な存在だったりする?)

「あっちでも、先生って呼ばれる存在は、それなりに特別、だったろ?」


 手を借りながら問えば、先生は声をひそめて答えた。

 医者に教師に作家に弁護士に政治家、先生と呼ばれることのある人物像を思い浮かべていく。


(確かに、おおむね、えらそうではあるけど)

「こちらではそれがもっと極端だと想像しろ。知恵を多く持つ者ほど尊ばれる場所だからな」


 知恵を多く持つもの、と舌の上で言葉を転がしてみる。

 なんでも貴族と医者の地位は同等、ないしはもっと高いことすらあるらしい。

 会話に気をとられていて、地面へと降りるために用意された台の段差が少々急であることに気づくのが遅れた。

 バランスを崩しかけた身体の両脇に流れるように黒い手が差し入れられ、そのまま石畳の地面にとんと置かれた。

 一拍後に、後方からため息が届いた。



 外出禁止令が解けて早速、街へと繰り出すことになった。いざ行かん、エーヴェリタ。

 見つかれば同行すると言い出しかねないお母さまの長い身支度が終わる前に家を出、ちょうど朝の買い出しに行くところだったノンノを拾い、同じく外出予定であったらしいトアレを門のところで拉致することに成功し、そして、今に至る。


 白亜の建物たちの向こう、コバルトブルーの水面がきらりと輝く。

 街の大動脈である波止場へと繋がる大きな道は、市場通りと呼ばれる。

 網の目のようにはりめぐらされている水路の上を、道に沿うような形で小舟がきれいに整列している。

 舟上から溢れんばかりの、色鮮やかな果物や野菜たちの山々。

 エーヴェリタの朝の名物風景、水上朝市だ。

 思わずかぶっていた帽子のツバを持ち上げると、潮風に乗った明朗な声が耳に届いた。


「―― さぁて、課外授業を始めるとしましょうか」






「私の用事から済ますことになってしまい、申し訳ありません」


 少し後方を行くノンノが肩をすぼめて、先生に頭を下げている。


「いや、むしろこちらの用事に巻きこんでしまってすまないな。食材の買い出しはいつも君が?」

「いいえ、いつもは料理長自ら市場に出向かれるのですが、昨日腰を痛めまして、今日は代理です」

「腰を? はて、俺の耳には何も届いていないが」

「はい。その……、料理長は、旨いものでも食べて寝れば治ると言い張っておりまして」


 愉快そうに、先生の肩が揺れる。


「まあ、一理あるな。傷病克服の要点は栄養の補充と気力の回復だ」


 背中越しにやりとりされる会話に耳をそばたてながら、セシアはきょろきょろと忙しなく首を動かした。

 港街らしく海産物の店の前が賑わっているが、野菜や果物、生花や民芸品を売っている舟列もある。

 ある舟の屋台軒には、黄色くて細長い物体の塊が吊り下げられていた。

 見知った果物に似ている。先ほど犬が噛り付いているのを目撃したけれど、皮だけでなく中身までが黄色いようだった。想像どおりの味かどうか。

 もっとじっくり眺めたかったが、人の流れに押し出されるように、前へ前へと進むしかない。

 頬に水滴を感じると、板の上に並べられた魚群と目が合った。ここに水がないということを理解できていないように、大きく尾ヒレを振っている。

 驚きで目を丸くすると、店員がにかっと笑いかけてきて、「お譲ちゃん、新鮮取れたてだよー!」と声を張り上げた。


「……」


 一度フライングのように訪れてしまった夜の経験から、あまりいいイメージのない街だ。

 人相のよろしくない、体格自慢の男たちが大腕を振って闊歩しているのかと思っていたが、陽の下にある街は別の顔も持っているらしい。

 市場を賑わす半分くらいは女性、そしてちらほらと子どもの姿も見える。

 怒声や罵声ばかりの耳に痛かった喧騒も、今ははつらつたる生活の音に満ち溢れていた。


 セシアは、深呼吸した。凍てついていた空気もだいぶやわらかくなった。

 人間は植物とは違う。日の光を受けても酸素を取りこんでも、光合成ができるわけでもない。

 それでも、屋根の下に居るばかりでは見えないうちに根っこは腐り、葉はしおれてしまうのだ、きっと。 

 久しぶりの日差しをまともに受け止めることになった皮膚がちりちりとする。細胞一つ一つが叩き起こされるような、少し乱暴な陽光だ。

 この身体はあまり刺激に強くない。気をつけなくては。と、セシアは、帽子を目深にかぶり直した。

 ふと、後ろを振り返れば、先生の長身がすいぶんと遠のいていた。ノンノが隣にいるかどうかは見えない。ちなみにトアレは、街に着いてすぐに別行動となったので、今ここにはいない。

 向こう側からはすでに雑踏に紛れ、セシアの姿は見失われているだろう。

 このまま道をたどっていけばやがて海で行き止まるから、合流することはそんなに難しくないだろう、と大人の目線でセシアは考える。

(一周して最初の地点に戻ってもいいし、…… いいよね?)

 迷子という自覚も、はじめて目にする色鮮やかな品々を前に霧散していた。

(それに、やらなきゃいけないことはわかってるし)

 セシアは上着のポケットを探り、一枚のメモ紙を取り出した。

 馬車の中で、先生からあらかじめ渡されていたものだ。

 そこには今日の課題について記されている。ずばり、『はじめてのおつかい』だ。

  

 イイジストブゥスト、なる食べ物を手に入れてくること。

 ノンノのヒントによると、摩り下ろすと粘り気が出るそうなので、長芋のようなものを想像してみたが、実物はわからない。細かく説明してくれようとしたノンノを、先生が制止したからだ。

 本当の五歳の女の子であればかなりの難題であり、加えてセシアは話すことができないハンデがあった。

 とは言え、中身が大人なのだからそんなにハードルは高くないはず。

 セシアは比較的人が少ない一艇の店に目をつけて、軽やかな足取りで近づいていった。

 


「あー、お嬢ちゃんすまないねえ。あたしには、その字は読めないよ。口で言ってくれるかい?」


 申し訳なさそうに肩をすくめた店主に、カルチャーショックを味わった。

 セシアにも当然、この幾何学模様のような文字を読むことはできない。

 確かに、絵本に使われている文字はもう少し違う形をしている。

 先生が悪筆であるか、それともひらがなに対する漢字のような存在があるのかと推測したのだが。

 とりあえず、売り手にメモを見せれば楽勝だろうという発想は、浅知恵すぎたらしい。

 しばし放心後、首を振って悪魔の嘲笑を打ち消した。まだ諦めるのは早い。

 幼なじみがよく言っていた。

 話せないということは、見知らぬ国を旅したときの感覚に近い。

 言語と同じように、胸のうちにある感情を伝えるために編み出された手段は、他にもたくさんある。

 セシアは棚の一番端の商品に指を差し、首をかしげてみた。

 さっき犬が食べていた黄色い果物だ。不思議な顔つきをした店主に向かって、指を一本立て軽く左右に振る。


「ああ、それはバトウって言ってね。皮ごと食べられるんだ、すごく甘いよ」


 察しよく小さな客の意図を読むと、店主はバトウなる一つを手に取り無造作に割って、セシアに寄越してきた。皮も身も分かれ目が見えない鮮やかな黄色だ。

 促され、一口ほうばってみる。

 甘い。予想していた三割増しくらいの甘さだった。歯ごたえは果物のそれだったが、カスタードクリームのような味だ。


 六つほど問答を繰り返したところで、法則に気づいた。

 どうやらこの店では左から右へと甘さの順に品物が並べられているようである。

 すごく甘いという説明が、かなりになり、結構になり、やがてほのかに、と変わっていった。

 さて、イイジストブゥストは甘いのだろうか。果物か野菜かと当たりをつけてみたものの、魚かもしれないし未知の食べ物の可能性もある。

 セシアは腕組みをした。


(んー、全商品やるつもりかしら? 面倒くさいわねえ)


 さらに十個ほど質問を続けたところで、本音が漏れ聞こえた。

 最後まで笑顔を絶やさなかった店主に、セシアはぺこりと頭を下げる。

 何か買うことが一番のお礼になるのだが、相場がさっぱりわからない。というか、持ち合わせがない。

 あ、とセシアは気づいた。

 見つけたとして、文無しでどうやって手に入れればいいのだ。



 歩き続けていると、空と道の間を割くように青い水平線が長く伸び始めた。

 見る見ると広がっていく水面に、異世界だからといってピンクだったり紫だったりはしないのだなとふと考える。

(でも、やっぱり日本の海とは違うなぁ)

 例えば、セシアの瞳の色も青系統だが薄い空のような色だし、海の青ならばトアレの瞳のほうが近いように。

 碧がかった色合いが、異世界だとまでは言わずとも、知らぬ土地であることを強調している。

 セシアはあれから三艇の店で同じことをくり返したが、結局イイジストブゥストに出会うことができなかった。いったいどんな食べ物なのだろう。

 けっして多くはない体力が早くも底につきそうになっていた。

 ここには人が多すぎる。なんせ人の数だけ、たくさんの感情があるのだ。

 実感したときにはすでに遅し。四方から引っ切り無しに押し寄せてくる言葉の洪水は耳から浸水し、あらゆる穴からもう溢れ出さんばかり。

 ほとんどがたわいもない言葉ばかりだけれど、通り過ぎたすべての人と世間話をしたような疲労感が小さな双肩に重く圧しかかっていた。


 前方から、荷物をうず高く積んだ台車が結構な勢いで走ってくるのを視界がとらえた。

 あっちが避けるかこっちが避けるか、一瞬のためらいが生まれた。

 迫ってくる車輪の軋む音、危ないと叫ぶ声、短い悲鳴、音の爆弾がセシアを襲う。

 逃げろ! その意思に反して、身体はすくみあがった。

 目をつむった直後、腕をとられ何かやわらかいものにぶつかった。すぐそばを大きなものがかすめていくのを風圧で感じた。

 台車は大量の土ぼこりと、一瞬遅れて、邪魔邪魔邪魔だあ、という引き手の野太いがなり声を脳内に残していった。

 ほっと息を吐く。目の前のやわらかいものが同じタイミングで上下した。


( ―― ふっざけんな! この暴走能無し不細工馬鹿筋肉がっ!! そのままドブ川に落ちやがれ!!!)

「…… お怪我はありませんか? セシア様」


 見事に重なって聞こえた言葉の温度差に、セシアは放心したまま顎を落とすように頷く。

 すると、台車の行方から腕の中を見やった曇り空の瞳に一瞬穏やかな光が差しこむのが見えた。

 瞬きをする間に、いつもの無表情に戻っていたけれど。


 言葉で伝わること。行動で伝わること。

 表情で伝わること。体温で伝わること。


 人間の本当って何で伝わるのだろう。

 とりあえず久しぶりに耳を打った毒舌が、心地よくセシアに響いたことだけは確かだった。 




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