15.わたしの月に狂ったお医者さま
“ジャック”というのは、“ヤモリ”のことだ。
こちらの世界の言葉では。
ヤモリにしてはずいぶんと勇ましい名前だな、というのが、絵本を読んでもらったときに抱いた最初の感想だった。
それを名乗っているトアレのことを思った。
前を行く、無口な後頭部を見つめながら、セシアのことを思った。
眼帯に触れる。
“私”は、薄々と感じていた違和感について、少し思い違いをしていたのかもしれない。
ダンディ天使が示した新しい“生”とは、世界の違う、別の誰かのものであって、まったくの無から生まれた命ではなかった。
だから、“私”とセシアの関係は、悪魔と医者のそれに近いのではないか。
悪魔から話を聞いてさらにその推測を深めて、セシアの意識も一緒に、同じ身体のうちに眠っているのだと理解していた。
でも今、こうやってかすみの身体がある。心身ともに揃った状態で、ある。
すると、そもそも“私”の魂はこちらの世界に来る必要があったのかしら、というもっともな疑問に行き着く。
だってこの身体はいろいろ傷ついていたり欠けていたりはするけれど、生きている。
生きているのに。
「あそこです」
声にはっと我に返ると、すでに街外れまで来ていた。
地図を広くと、エーヴェリットの家とは、街を挟んでほぼ対角線の位置。
最初のうちはまた不良たちと鉢合わせしないかと冷や冷やしていたが、郊外に向かうにつれ、じょじょに外灯が減り、人も減り、あたりからは家らしき建物の姿もなくなっていた。
森の手前に、ぽつんと建っていた一軒家。看板らしきものは出ていない。
偶然通りかかったとしても、まさか病院だとは思わないだろう。幽霊屋敷だとは思うかもしれないが。
見上げた家には緑色の蔦が巻きつき、外壁はところどころ剥げ落ちている。
「では、俺はここで」
去り際まで冷静なトアレ少年に、追いすがりたい気持ちを懸命に押さえこんだ。
「ト、…… ジャックくん!」
振り向いた彼に、かすみは深々と頭を下げる。
「どうもありがとう」
「あなたも、気をつけて。 ……妹さん、お大事に」
セシアの姿に戻れなかったら、これで会うのは最後かもしれない。
そう考えてから、ふと、戻れないということはいつ戻ってもおかしくない状況だったということを思い出した。トアレといるうちに、再びの身体の変化がなかったことは幸いだった。
小さくなっていく背中を眺めながら、かすみは無意識に腕まくりをした。
聞きたいことがいろいろある。でもまずは自分から。ここに立っている根本の理由から確かめなければいけない。
明かりは灯っていない。
もう就寝しているのかもしれないが、そもそも悪魔という種族が寝るのかわからないが、とにかく、このもやもやとした気持ちをすべてぶつけられる受け皿、もしくはサンドバックがほしい。
周辺に民家がないをこれ幸いと思い、かすみは大きく扉をノックした。ドンドン!
「すみませーん! こんばんはー! ごめんくださいー!?」
反応のない扉に、だんだん叩く音が乱暴になる。
「すみませえええん!!!」
何十回目の呼びかけだったか、そろそろ蹴破ろうかと準備をしていたタイミングで扉が開いた。
中から現れた男は相変わらず黒一色の装いに白衣を羽織っており、闇夜に浮かんだ白いマスクはホラー映画に出ても似合いそうだ。
「こら悪魔!! これはいったいどういうことだ?!」
「…… 花の押し売りは結構」
再び扉が閉じられていく。その隙間にトアレの靴を押しこんだ。
足が悲鳴を上げたが、構っていられない。
「あなたは私に説明する義務があるでしょう! あなたは天使代理ではないのか?!やっぱり悪魔か!」
悪魔だ! 悪魔に違いない!
断定する声がキンキンと夜空にこだまする。
返ってきたのは沈黙だ。かすみは無音の空間に向かってさらに吠えた。
「何がどうしてこうなったの? 私は死んだんじゃなかったの?」
「……」
「いきなり小さくなったり声が出なくなったり聞こえたり、元に戻ったり」
「……」
「全部、一から十までの説明を要求する!」
契約書を持って来い!
契約書はなんとかという図書館にあるというのならそこ行って取って持って来い!
最初によく見ずにサインした自分のミスを棚に上げて十の権利を主張する。
途中から、わけがわからなくなった。
不安と不満と疑念と困惑と憤怒と悲哀とあらかたの感情を吐き出すと、残ったものは空虚だった。
「………… なぜ、泣く」
疲労がピークに達して地面にしゃがみこむと、長い時間が経った後、頭上から質問が降ってきた。
すぐに答えが出てこなかったので、検索してみた。
導き出されたのはとてもシンプルな回答だ。
たぶん魂は知っているのだ、これは正真正銘“私”の身体であるということを。
抱いた気持ちに身体が反応して結果涙腺が刺激される。その連結がスムーズだ。
うれしいのかかなしいのか、どうしていいかわからずに立ち往生していた一ヵ月。消化できていなかったものが内側から溢れ出して、止められなくなってしまった。
失われたはずの片目、眼帯の下からもじわりとこみ上げるものがあった。
扉の向こうから現れた悪魔は仮面をかぶっているようで、表情豊かだったイメージに上書きされる。不思議だ、知らない人のように見える。
すんと吸うと鼻の下が痛む。
足も手も痛い。酷い格好をしているのだろう。それでも“私”だ。
扉は開いた。
悪魔は何も言わない。入ってもよい、ということだろうと解釈をした。
すっかり夜目がきくようになっていたはずなのに、家の中に入るとまた暗闇の濃度が一段上がった。
そこそこに広さのある室内に、窓は一つしか確認できない。元々そういう設計なのか、わざと塞がれているのか。
壁際には整然とガラス戸付きの棚が並んでいるが、どの段も空っぽだ。
灯りや、火の入った気配もない。
床を漂う冷気に、かすみはショールをかき合わせた。間違えて、冷凍庫の中に入ってしまったようだった。
唯一の窓のそばに、診療に使うのだろういくつかの器具が無造作に置かれた卓と、二脚の椅子、そしてまな板のような寝台があるだけで、他に家具らしいものは見当たらない。
(…… どうやって生活しているのだろう)
先ほどの秘密基地のほうがまだ人間らしい、営みの跡が垣間見えた。
悪魔には衣食住、どれもが必要ないのかもしれないが、今の肉体は人間であると言っていなかったか。
「…… 悪魔?」
人の気配を探して呼びかけてみたが、見える範囲には何もない。
代わりに音が答えた。キイ、キイ、キイ、という木が軋むような音だ。
かすみは暗がりの中を慎重に進みながら、診察室を出てすぐに、地下へと続く階段を見つけた。
まるで地獄への門が開いているように見えたが、下方はぼんやりと明るい。
かすみは唾を飲みこんでから階段にそっと足を下ろした。黒いショールを強めに身体に巻きつけて。
「悪魔? 悪魔さーん?」
恐怖をごまかすように呼びかけてみるが、返事はない。答えるのは老朽した階段の悲鳴ばかりだ。
下り終えた先にあった部屋の扉が、わずかに開いている。
街を照らしていたものとは、蛍光灯と白熱灯のように種類が違うのかもしれない。温かみのない、青白い光が漏れ出していた。
「悪魔、さん?」
男は、石畳の床に跪いていた。
それは、教会などで神様に祈りを捧げる人の姿を思わせた。
崇敬を宿す瞳の先にあるものは、女性だ。
正確には、かつて女性だったであろうもの。
水族館にありそうな巨大な水槽。これがあたりを照らす、青白い光の正体だった。透明な溶液が満ちた筒状の容器の中に女性は浮かんでおり、その魅惑的な肢体を撫で回すようにコポコポと音を立て蒼光を帯びた泡が下から上へとのぼっていく。
その身体にはいろいろなものが欠けていた。
手と足は揃っている、そのおかげで辛うじて人間だとわかる。しかし下半身にあたる部位はない。豊かに膨らんだ乳房の左側には穴があいている。何かをえぐりとられてしまったように、向こう側に闇を覗かせている。
一番大きく損失しているのは、首から上だった。
もしかしたら、突然の侵入者にも、やわらかく微笑みかけてくれたかもしれない顔が、ない。
明らかにそこに命はない。
悲鳴は声にならなかった。全身から力が抜け落ちた。
座りこんだ勢いで背に当たった扉が閉まる。
男が反応する。
その能面が一瞬で般若の面にすげ変わるのを目撃した。
かすみは危機を悟った。
鋭利な刃物にうっかり触ってしまったときのような、かすみはこのひんやりとした感覚を味わったことがある。
無我夢中で床を後ずさりしたがすぐに壁に着いた。逃げられない。
借り物の衣服がお腹のあたりまでめくれ上がっていたが、気にする余裕はない。相手も一切気にしている様子はない。かすみが何者である、ということを認識していない、そう感じた。
悪魔がやってくる。覆いかぶさるように、かすみに手を伸ばし、そして―― アラームが鳴り響いた。
焦燥感を煽るような、このメロディには聞き覚えがある。あれだ。救急車のサイレンだ。
かすみが当惑すると、混乱の発生源は目の前の白衣の中だった。
男は緩慢な動きでポケットに手を入れ、一冊の、古びた手帳のようなものを取り出した。
途端、音は鳴り止んだ。
「……“開扉する ”」
言葉に呼応して、掌の上を一陣の風が吹き、紙がめくれ、途中で止まった。開いた頁からしゅるしゅると文字が抜け出す。
以前、トアレが持っていた本でも同じようなことがあった。
あのときは確か紙面ごと空中に浮かび上がったので、まるで透明なパソコンのディスプレイのようだと感じたが、今回は文字だけが何もない空間に整列する。文章の形から、走り書きのメモのように見える。けれど当然かすみに内容は伝わらない。
読み終えたらしい男は一瞬だけ、苛立ちを声に乗せた。
「面倒な」
文字は先端に青い炎を引火させると、やがて燃え尽きた。
幻想的な光景に見とれていると、男は立ち尽くし、電池が切れたように動きを止めていた。
その視線は、かすみでも、また水槽の彼女に向けられるでもなく、闇の中を漂っている。
光の具合のせいもあるだろうが、血の気の失せた顔色に、医者の不養生という言葉がかすみのの脳裏をかすめた。
「お医者さん ……?」
つんと鼻を痺れさせる嫌な匂い。
消毒液のような匂いが立ち込める部屋の中、くたびれた白衣、そして眼鏡をしている男は、医者に間違いなかった。田舎医者、馬鹿医者、気狂い医者、いろんな形容のされ方をしていた。
医者はひどく気だるそうに首から上だけを動かして、座りこんだままのかすみを見下ろした。
頭からつま先まで確認した、ただの冷たい石ころのようだった目玉の、焦点が合う。
医者は再び床に跪いた。
先ほどの祈りを捧げるような敬虔さはない。性急で、焦れた動きだった。
ちらりと赤い舌が口元から伸びる。同時に、荒い息が漏れた。
かすみは唖然としながら、その一連の動作を見守ることしかできなかった。
黒い瞳はまっすぐかすみの膝小僧を捉えていた。先ほどきれいに拭われた傷から、新たに出血している。
舌が近づき、傷の周りにこびりついた血液を舐め上げた。犬のように。
時々歯の淵が当たり、肉を食い千切られる恐怖に足を引いたが、足首を掴まれ、びくともしない。
そろそろ皮膚がふやけるのではないだろうか、危惧したころに食事は終わりを告げた。
最後に、おまけのように傷口の中心へと柔らかな感触が落とされる。
(冷たい)
ああこの人、生きていないんだった。
己の望みを叶えるために、自分の命を投げ出し悪魔を召喚した人。
赤く艶かしい唇の端が、わずかに持ち上がる。
血液には極上の薬効成分が含まれているのかもしれない。顔色にはうっすらと生気が戻っているようにさえ見える。
あちらの世界でも、満月の光は多少、何かを狂わせるものだと言われているけれど、こちらではその効力がより大きいのだろうか。
今宵の出来事を順番に脳裏に浮かべながら、かすみは考えた
靄がかかったように霞んでいく意識の中で、ヨハン・ベイゼルは白衣を翻し背を向ける。もう興味を失ったとばかりに、また水槽の、不完全な彼女のもとへ戻っていく。
―― 生きているように、死んでいる。
今更に、悪魔の言葉が耳を打った。
朝の刻が告げられても、エーヴェリットの館は静寂に包まれていた。
小さな騒ぎが起きたのは、通いの召使いの中で一番早く出勤する年老いた庭師が、門にたどりついたときのことだった。
通用門の下に、黒い包みが置かれていた。何かがくるまれているようだ。
いぶかしみながら開いてみれば、金糸の一束。
今頃はまだ夢の中にいるはずの、小さなお姫様がすやすやと眠っていた。何も身につけていない、産まれ落ちたままの姿で。
セシア・ツィル・エーヴェリット。
一年という長い眠りから目覚めたばかりの、領主の幼き娘に起きた出来事は、庭師の機転により寝巻きを着た状態で野外にいたところを発見される、という筋書きに修正される。
小さな事件は内外に伏せられたものの、いろいろな憶測を呼ぶには充分で、セシアはその後のいくつかの満月を、家の中から眺めることとなる。




