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わたしの悪魔さん  作者: 雪田
第一章 幼少期
14/23

14.わたしの秘密基地

 怪我を、と曇った表情を見てはじめて、身体のあちこちが痛みを訴え始めた。

 腕はすり傷だらけで、どこでぶつけたのか膝小僧はすり剥けふくらはぎに向かって血が滴り落ちている。

 借り物の服だというのに、スカートの裾部分にはほつれができていた。

 心のうちでノンノに平謝り、後でジュジュにこっそり頼む方法を思案する。今の姿なら自分でもなんとかできるかもしれないが、針と糸の調達さえままならないのだ。第一お金はどうする。

 青ざめたかすみの耳に、ため息が届いた。 

 

「こちらへ」

「え?」

「手当てが、必要でしょう?」 

 

 そう言って、狭い路地のさらに奥のほうへと入っていく。

 この道はどこかに続いているのだろうか。すぐに行き止まりそうな細い路地だが、説明もなく、トアレは暗闇の中へと消えてしまう。

(……どうやら、お兄さまは、他人を前にすると益々言葉が少なくなる傾向があるらしい)

 確認して、かすみは急いで後に続いた。


「ぎゃ」


 足に当たった木箱が、鈍い音を立てた。

 路地には至る所に物が置いてあり、先ほどから高確率で避けるのに失敗をしている。

 原因としては、元のサイズに戻った身体を把握するのに手間取っているのと、半分になってしまった視界が挙げられる。遠近感がまるでつかめないのだ。

 いつのまにか立ち止まったトアレは、しばらく考えあぐねた様子を見せた後、頭に巻いていた布を取り去り、二つに豪快に破いた。それを、かすみに向かって差し出す。

 さらさらと流れた金色の髪が、そっくりさんではなく本人であると主張する。


「足にこれを巻いてください。気休め程度にはなるでしょう」




 案内されたのは、複雑に入り組んだ道だった。

 壁にできた穴を通り抜け、水が枯れた水路を進み、朽ちかけた橋の下、ちょうど周囲から隠れる部分に木製の扉があった。

 ノックをしたが、返事はない。

 それを確認した後、トアレは扉を開いた。鍵などはかかっていないようだった。

 土管の中のような暗い道を進み、しばらくするとぽっかりと開けた空間に出た。

 何かの倉庫だろうか、部屋の半分には物が散乱している。

 中央に大きな円卓があり、多様な形をした椅子がいくつもあり、ワインセラーのような棚があり、暖炉もある。

 部屋の隅には大きな天蓋つきのベッドまであった。生活のにおいがする場所だ。

 半球を模した天井の、中央部分には屋根がなかった。そこから月光がたっぷりと降り注いでいる。


「少し待っていてください」


 そう言って、トアレは奥へと向かった。ほかにもまだいくつかの部屋があるようだ。

 かすみは迷い、部屋の隅にあった壊れかけの椅子に腰かけた。

(まるで、秘密基地みたいだ)

 降りてきた感想にときめきを覚えた。子どもの頃にこんな場所を見つけていたら、大人の目を盗み毎日通っただろうと想像する。

 足をブラブラとさせながら、ふと思い立ち、布を取り去り、足の裏を見た。

 真っ黒だった。硝子などを踏んで傷がつかなったのは運がよかったのだろう。トアレに感謝をしなければいけない。布は、洗って返すでは済まない酷い有様になっていた。

 怪我の具合も確認しようと屈むと、さかさまの視界の中で、トアレがなんと声をかけようか躊躇しているのが見えた。そそくさと姿勢を戻す。

 

「水を、持ってきました。薬を塗る前に、先に泥を落として傷口を洗ったほうがいいと思います」

「……ご親切に、ありがとうございます」


 道具を受け取ろうとすると、トアレはごく自然に膝をつき、濡らした布を足の裏に当てた。

 かすみは驚いたが、慌ててスカートを膝の上あたりまでたくし上げた。借り物をこれ以上汚すわけにはいかない。

 足の裏を拭い終えると、一度盥で注ぎ、今度はふくらはぎへ。血痕をたどり膝小僧に着いたとき、少し痛みが走った。

 布きれの折り目を変え、傷口に当てる。じわりと滲んでくる赤色に、トアレが顔をしかめた。

 結構深い切り傷のようだ。盥の水が黒と赤で嫌な色に染まっている。

(しかし、見知らぬ男の子に足を拭いてもらっているという状況はいかがなものか)

 “セシア”としては肉親なので気にすることでもないかもしれないが、今は“かすみ”なのだ。

 改めて考えてみると、あまり常識的でないように思え、かすみは話かけた。

 

「あー、あの」

「なんですか」

「ありがとう、助かりました。その、後は自分でできますので」

「……では、水を入れ換えてきます。それから、薬も」


 トアレはごく冷静に同意し、立ち上がった。

 齢十三にして女性の扱いも心得ているようだ。いつか、お父さまが言っていた男子の嗜みというのに含まれるのかもしれない。

 年上である自分のほうが先に恥を意識してしまったことをふがいなく思っていると、盥を持ち上げるときにちらりと見えた耳の端が、朱色に染まっているのに気づいてしまった。

 優秀な兄への劣等感は気にしないようにしていても、常に妹について回るものである。だから、ちょっとした年齢相応ぶりが嬉しく思えたりもする。

 再び一人になった部屋で、かすみはふふと笑ってしまった。


 突然轟音が鳴り響き、扉が開いた。

 何事かと身を構えれば、入ってきたのはかなり背の大きな、派手な身なりの男性だった。身をかがめて入り口をくぐる。

 持っていた荷物を乱暴に床へと置き、ソファ椅子へと腰かけ後ろにのけぞった。

 頭にかぶっているのは三角帽子だ。動くたびにじゃらじゃらと音を立て色とりどりの石のついた首飾りが揺れる。

 白いシャツに日に焼けた黒い肌は映え、ウェーブのかかったこげ茶色の髪からは太陽のにおいがしそうだ。

 男は帽子を取り、室内にゆらりとめぐらせた視線を、途中で止めた。

 

「……どちらさん、だったかな?」

「えええっと」

「俺の客です」 


 いつのまにか戻ってきていたトアレが答えた。

 頭には新しい布が巻かれている。


「ジャックか。シーザーたちが血眼になって探していたぞ」

「はい、ここに戻って来る予定はなかったんですが」


 ジャックと呼ばれたトアレがかすみを一瞥し、男もそれにならった。


「何か、事件があったようだが。もしかすると、部屋がなんだかさっぱりしてんのもそのせいか?」

「いえそれは、俺が。しばらく来ないうちに大分汚れていたので。いろいろ処分しました」

「ははー、それで野郎どもを怒らせたのか」

「割れた酒瓶と食べ残しの残骸少々、異臭を放っていたものを捨てただけなんですが」

「他人の目にはゴミとしか映らなくともその者にとっては宝、ということは間々あることよ。だが、いつもどおりおまえが正しいんだろうな、ジャック」

「いえ、シーザーたちの言い分も機会があれば聞いてみようと思います」

「無駄な時間を使わんでもよろしい。食い物の恨みなんてどうせ一晩立てば忘れるさ。それよりも重要なのは、そこのお嬢さんだ」


 呆けていたかすみは思わず身をすくめた。

 男の声には妙な迫力があった。年齢不詳だが、かすみよりはずっと年上だろう。


「おまえが女を買うなんて珍しい」

「買ってません。……助けられました」

「助けたのではなく?」

「旧橋の前でトッセイアニキとやらの部下数人が通せんぼをしていて、払う金がなかったので」


 トッセイと呟いて、一瞬男が獰猛な笑みを結んだように思ったが、気のしすぎかもしれない。


「ふむ、お嬢さんが乱入したおかげで焼き払う前に逃げることになった、か。確かにそれは助けられたな、豚どもの命などどうでもいいが橋の修理費は馬鹿にならん」

「お詫びに怪我の手当てと、お礼を考えましたが、…… あなたを紹介するのが一番いいかと思って」

「いいな、実にいいぞ。買おうじゃないか。女、言い値を支払おう。仲間を助けてくれた礼も含めて受け取ってくれ」


 男は長い足を動かし、あっという間もなくかすみとの距離を詰めた。身をかがめると、かすみの身体を楽々と肩に担ぎ上げる。

 子どもか荷物か、大差のない扱われ方に目をむくと、下ろされた場所は、大きな天蓋つきベッドの上だった。

 髪が後ろに流れ、明かりのもとに晒されたかすみの頬に大きな手が触れた。輪郭をなぞり、目の上で止まる。


「隻眼、ということは罪人か?」


 突然の展開に頭も心も置き去りにされていた。

 抗議の声が喉まで出かかっているのに、近づいた眼光の鋭さに身体が硬直する。


「黒い瞳に、黒い髪。見事な髪だな」


 触れながら、甘い囁きが降ってくる。


「どうせ、貴女の美しさに嫉妬した魔庭の女神が烙印の雷を落としたのだろう、かわいそうに」


 奥歯がかゆくなるような台詞も、目の前の人のような口から飛び出るならば、様になっている。

 けっして清潔ではない伸び放題の髭、酒と汗が入り混じったような匂いが鼻をくすぐる。

 それは太陽でなく、潮の、海の匂いだ。

 かすみは咄嗟に顔をそむけ、目線で懸命に訴えた。

 男の突然の奇行に呆れたような視線を送っていたトアレは、目が合うと首をかしげ、口を開いた。


「オリヴァー」

「なんだ?」

「彼女の手当てがまだ済んでいません」

「……それを早く言え」

「いきなり盛るとは、予想外だったので」

「三ヵ月も海の上だったんだぞ。珍しく朴念仁が用意してくれた気の利いた逸品なのに食べ損ねるわけにはいかないだろう」


 はあーと大きく吐き出された息とともに、巨体が横へ動いた。

 その隙を逃さず、かすみは小走りにトアレの背後へと回る。

 自分よりもはるかに年下の男の子を盾にするのは気が引けたが、なりふりかまっている余裕はない。


「おいおい、妬けるな。おまえのほうをご指名だとか」

「俺には、払える金がありません」

「昔から船乗りの世界ではな、女心の理解できんやつに海は渡れないと言われていてな」

「なんですかそれ」

「なんでも無償はありえないってことだ。助けられたんだろ? おまえはこのお嬢さんに対価を支払わなければいけない。金がないのなら別の、彼女が望むもので」


 低い舌打ちが聞こえた。

 肩から漂ってきた不機嫌なオーラに、かすみはあわてて言い募った。


「あの、お礼なら、結構ですから。これだけ親切にしていただいただけで充分です」


 そもそも、本来の目的から大分離れてしまっている。

 今が何時くらいなのかわからないが、タイムリミットが近づいているように思う。

 朝までにベッドの中に戻らなくてはいけないのだ。それも、この身体ではないほうで。


「金はいらないと?」


 トアレが理解しかねるといふうに、振り向いた。


「お金はほしいですけど、もらうほどのことはしていないかと」

「一時の金よりも長期的な利益、一応の上客の紹介を礼としたつもりだったんですが、それすら不要だと?」

「お客さんですか? ええと」

「その様子だと、そもそもお嬢さんは宵の華ではないのか?」

「よいのはな?」


 意味をとらえかね、かすみは首を傾けた。

 トアレが説明する。


「宵暗の刻以降に外を出歩く女性の多くは、花を売るのが目的だとみなされます」

「え」


 かすみはうろたえた。

 宵の華が隠語であることに気づいたのだ。

 

「妙に慣れていないので新鮮だったが、そういう娘を融通する店もあるからな。もしくは働き始めたばかりなのかと思ったが」

「よ、宵の華ではないです。勘違いさせてすみません。ごく普通の、一般市民です」

「そんな普通のお嬢さんがこんな夜更けにどこへ?」


 もっともな質問に、かすみは少し考えた。

 トアレが偽名を使っているということは、真実を語るに相応しい場面ではないのだろう。

 第一真実を話したとして、こんな作り物めいた話を理解してもらえる気もしない。

 むしろほしい情報をもらう、絶好の機会なのではないか。

 かすみはこくりと唾を飲み下して、切り出した。

 

「あの、妹を、お医者さまに診てもらおうと思って」

 

 何度も練習していた台詞がやっと使えた。

 実際には助けてほしいのは妹でなく自分自身なのだが、大きな違いはないだろう。

 トアレは少し目を見張り、男はふむと頷いた。


「なるほど、事情はわかった。俺でよければ、医者のところまで案内しよう」

「いえ、場所だけを教えてもらえれば後はなんとかどうにか」

「満月の夜に女の一人歩きは捕って食われて屍にされても文句は言えぬが」


 ぴしゃりと言い切られる。

 言葉に甘えていいものか悩んでいると、トアレが一歩前に出て隣に並んだ。


「その必要はありません。俺が行きます」


 宣言したトアレに、男が面白そうに片眉を持ち上げた。


「珍しい。おまえはあの気狂い先生が苦手だろうに」

「恩人を送る礼くらいはします。 ―― 支度をするので、少し待っていてくださいますか。それからこれを」


 差し出されたのは靴だった。先ほどまでトアレが履いていたものに似ている。

 トアレの足元はと見れば、古びた、不揃いの靴に変わっていた。


「少し大きいかもしれませんが、どうぞ。それからすみません、薬は切らしていたので」


 かすみはかろうじて首を横に振った。

 感謝を口にしようとすると、今度はトアレが首を振る。


「それも、必要ありません。靴を履き忘れるほどのことです。急いだほうがいいでしょう」


 虚をつかれたかすみに、トアレは相変わらずの無表情を保ったまま部屋を出て行った。 

 ベッドの上からそのやりとりを眺めていた男は大きなあくびを一つ、帽子を手に取ると、入り口に向かって歩き始めた。

 無言でいるのも変かと思い、かすみは声をかけ頭を下げた。


「勝手にお邪魔して、申し訳ありませんでした」

「いいや? 別にここは誰のものってわけでもない、ジャックの客なら問題はないさ。あー、俺は出かけたって伝言を頼めるか」

「はい。あのどちらへ」

「夜の花摘みに?」

「……すみません、いってらっしゃいませ」


 ひらひらと手を振って、扉の外へ出て行く。

 なんとも謎めいた匂いをさせる男だと思った。会話から船乗りのようだと察せられたが、トアレとの関係は読み取れなかった。

 そこで、ふと気づいた。先ほどからまったく心の声が聞こえなかったことを。

 かすみは改めて部屋を見回す。

 来たばかりでは気にならなかったが、大きな円卓の正面にあたる壁には黒板のようなものが取り付けられている。その横にぶら下げられている大きなタペストリーには、見覚えがあった。

 貝殻の形をした街を空から見下ろした図案。お父さまの部屋に貼られていたものによく似ている。

 そして、―― 少しえらそうな態度の船乗り男と、偽名を使う領主の息子。


 かすみはぷらぷらと足を揺らしながら、ぴったりとサイズの合った靴の先を見つめた。

 月の光が満ちた部屋で、秘密のかおりを嗅いだ気がした。




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