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わたしの悪魔さん  作者: 雪田
第一章 幼少期
13/23

13.わたしの夜の街

 月明かりに目が慣れてくると、この道はくねくねと蛇行し、街へと続いていることが見て取れた。

 馬車の轍の跡をなぞるようにして歩く。

 足の裏が冷たい。靴も借りてこればよかったと思い至ったのは、壁を乗り越え、着地に失敗し地面に尻餅をついた後のことだった。


 

(木登りなんて、久しぶりだった)


 振り返った丘の上、夜空の中でエーヴェリットの館はひっそりと佇んでいる。

 今、身につけているのは、黒地の一枚の布でできた衣装だ。胸の少し下あたりに切り替え部分があり、銀色のリボンが結ばれている。襟ぐりがゆったりと開いているので露出した首周りが寒い。同色のショールは薄布で、あまり防寒の役目は果たしてくれない。

 すべて、ノンノの部屋から拝借してきたものだ。

 最初は、お母さまの衣装部屋からと思っていたのだが、厳重に鍵がかかっていて開かなかった。

 シーツをぐるぐると巻きつけた格好は不審者以外の何者でもない。誰と出会うかわからない、家の中を歩き回るのはできるだけ避けたかった。

 途方に暮れかけたころ、ノンノが今夜は不在であるという情報を思い出した。

 部屋を訪れてみれば鍵が開いていて、主はまだ帰ってきていないようだったので、衣装箪笥から一着を借りた次第だ。後でこっそりクリーニングをして返却するのでどうか許してほしい。

 しかし、ノンノは結構おしゃれに気を遣う乙女であったらしい。

 棚の中にはかなりたくさんの洋服やアクセサリーの類が入っていた。

 いつも灰色の髪を二つ結びにし、化粧も最低限、そっけないくらい質素なイメージしかないので、意外だったが、公私を分けているのだろう。

 洋服選びで一番大事なのは気温だ。という意見は、おしゃれに一番重要なのは我慢だと、幼なじみに即否定された経験がある。

 どちらかというと、ノンノは後者寄りであるらしい。

「っくしゅん」

 くしゃみが出た。

 声が鼓膜を震わせる。久しぶりの感覚。

 道端にぽつぽつと白い花が咲いている。暗黒に支配される世界では、行く先を照らしてくれているようだ。

 きっと家の裏庭で咲いていたものと同じ。野生する種類には見えないので、風に乗ってここまで種が飛んできたのかもしれない。

 向こうでもらった名前の由来は、母が好きな花の名を、父が“私”に贈ったことだった。

 異世界で咲くそれらが同じ名前であることはないかもしれないが、“かすみ”は少し勇気をもらい、足の裏で力強く泥を踏みしめた。



 エーヴェリタは、港町。国でも有数の貿易拠点。

 得ている少ない情報をもとに、街に一歩目を踏み入れる。

 明るいほうへと足を向けると、人影が増え、街灯の数も増え、賑わいが耳を打った。 

 女性や子どもの姿はない。

 かすみは肩にかけていたショールを広げ、頭からかぶった。

 宵暗の刻を過ぎたら子どもが外に出るものではない。兄の苦い顔が思い浮かぶ。

 常識がわからないというのは、怖いことである。

 もしこのままだったらどうすればいいのだろう。知識もない、家族も友達もいない、この異世界で、女が一人で生きていく術はあるのだろうか。

 不安に支配されそうになる心を首を振って否定する。


(なんとしても、この街のどこかにいるはずの、医者を探し出さなければ)


 ―― 困ったときの悪魔頼みとはなんとも、本来ならすがりたくはない縁だけれど。





 エーヴェリタの街は、貝殻の形をしている。

 お父さまの執務室に飾ってあった鳥瞰図柄タペストリーを目にしたときに、そう思った。

 西南側が海に面しており、北方には大きな川が流れている。土地柄、昔から洪水被害に悩まされていたそうだが、百年ほど前に大きな治水工事が完了し、以来大きな被害は記録されていない。と聞いた。これもまたひいおじいさまの功績であるらしい。

 建物の隙間を縫うように、小さな水路がいくつも通っている。

 水路と陸路が交差する中心部では、商店、酒場、食堂、あらゆる商業施設が軒を連ねていた。

 夜更けだというのに、店はどこも盛況だ。店に入りきらない客たちが、地べたに座り酒盛りをしている。ビアガーデンを思い起こさせたが、もっと雑居だ。花見の宴席くらいか。

 適当に人をつかまえ、町医者の所在を尋ねる。

 そんなに高いハードルには思えなかったが、かすみが声をかけようと近づいた鼻先を、人が飛んでいった。

 そのままゴミ溜めの中に突っこんだ小太りの男は、大声で吼えた。


「てめえっ何しやがる?!」


 答えたのは店から出てきた色黒の巨体だった。筋肉が収まりきらず、腕からはみ出している。


「自分の胸に手ぇ当ててて聞いてみろ! それでわかんねえならたっぷり教えてやるよ! この下種豚!」

「雇い主に向かっていい度胸じゃねーか! 明日の飯の心配は大丈夫か? ははっ」

「うっせーなっ今夜は上も下もねえんだ! 萎えること抜かすんじゃねぇっよ!!!」


 どこかで酒瓶が割れる音がした。

 開戦のゴングとなり、渾身のストレートが小太りの男の顔面を打った。倒れるかと思った短い足が踏みとどまり、今度は全体重を乗せた拳が筋肉男の腹をえぐった。

 観客が沸く。いつのまにか賭けが始まっていた。帽子の中にチップを拾い集めるのに店員は忙しそうだった。

 かすみは思わず、回れ右をした。




 窓辺からの眺望では、海沿いに立ち並ぶ家々の白亜の壁は眩しいくらい輝いていたが、今は通りのあちこちに渡されたロープに吊るされた外灯で、橙色に染まっている。

 喧騒を避けていると、路地は段々と狭まり、階段が増えた。

 階段をくだった先にはおそらく海があるのだろうと想像できたが、思惑とは裏腹に人気は失われていた。

 一度折れた心を修復するというのは、難しいことである。


 橋を渡る。何個目の橋だろうか、どの水路も小舟がすれ違えるくらいの幅しかない。

 水面にパウンドケーキのような月が映っている。その下に、欄干に身を寄せている見慣れぬ女性の姿。

 かすみは、その感覚に少し笑った。

 見慣れないというか、馴染まないというか。

 ここで、この姿で息をしているというのが違和感があるのだ。

 おまえの居場所はここでないよ、と諭されている。そんなことはかすみ自身がよくわかっているというのに。

 どうしてこんなところにいるのか。答えは返ってこない。

 水路を流れる水はあまりきれいではないようだ。黒く濁り、泥臭い匂いが鼻を突く。

 

「だーかーら、渡橋代だよ」


 背後で声がした。

 剣呑な響きに思わず身を縮めたが、声の出所は少し離れた場所だった。

 向こう岸へと渡り終える橋の手前で男が数人、小柄な人間の行く手に立ちふさがっている。

 かすみはあわてて来た道を戻り、橋のそばに立っていた木の陰に身を隠した。


「……この橋が個人の所有物であるとは、知りませんでした」

「おう、今宵限定でな。トッセイ親分のものになるんだよ、覚えとけ坊主」

「そうでしたか。おいくらでしょうか?」

「そうだな、とりあえず、有り金全部ってところか?」


 なんだろう、その無茶苦茶な論理は。

 眉をひそめた脳裏に、学校で縄張りを主張する不良たちの図を思い浮かべた。実際人相のあまりよくない男たちだ。心の声が届く距離でなくてよかった。

 こちら側からでははっきりと顔までは見えないが、特に、絡まれている生徒のほうは若そうだ。

 子どもは懐を探り、取り出した皮袋ごと不良の手に渡した。


「素直じゃねーか…… って、なんだこりゃ、なんも入ってねーじゃねーか?! おちょくってんのかコラぁ!」

「有り金全部とおっしゃいましたので。嘘偽りなく今の持ち合わせはそれだけです」

「屁理屈抜かしてんじゃねえ」


 不良の手が乱暴に、子どもがかぶっていたフードをめくり上げた。

 子どもは頭にバンダナのような布を巻いていたが、隠し切れない金色の髪が額にこぼれている。

 後ろから覗きこんだ手下の男たちが、思わずというふうに口笛を鳴らした。


「なんなら一晩の相手でもいいぜ? 破格だろ」

「……俺は男なんだが」

「それでもいいと言ってるんだよ、坊主」

「さすが兄貴、懐がひれーや。恐れ入ります」

 

 声を殺して状況を見守っていたかすみは、高まる不穏な空気に周囲を見回した。

 助けを呼ぶくらいは傍観人の努めだろうと思ったのだ。

 しかし人一人すら通る気配はなく、民家の戸は固く閉ざされたままだ。

 こういうときこそおまわりさんの出番だと思うが、そういう組織があるのかどうかすら知らない。そもそも知っていたら、いの一番で医者の住所を尋ねるところだ。

 先ほどの酒場での喧嘩が思い起こされた。

 この街は、どうやら現代日本と比べてさほど治安がいい場所ではないらしい。

 と、結論づけるには刺されて死んだという経験が説得性に欠けていたが、今危険に瀕している子どもを助ける手段がないのは確かだった。

 かすみは何かないかさらに目を凝らしたが、映ったのは民家の下に転がっている漁師の道具、空桶や網くらいだった。

 子どもはいつのまにか欄干を背にし、周囲を男たちに取り囲まれている。

 中心にいた男が、子どもの冷静な態度が腹にすえかねたのか、胸倉をつかんだ。簡単に宙に浮いた身体がそのまま手すりへと押しつけられる。

 途端、男たちの下卑た笑い声が止んだ。はっと息を呑む気配がする。

 衣服から手を離した男は何かを畏れるように、二歩、三歩と下がり、顔色を変えた。


「おまえ、まさか―― 鍵持ち、か?」


 その言葉を受けた端整な顔が、薄ら笑いを浮かべた。

 ように見えたが、そのときのかすみに確認している暇はなかった。

 ばっしゃあっと渾身の力をこめて投げたそれらが、緊迫した空気を打ち破る。


「ひ、一人にたくさんは卑怯だぞ!」


 水浸しになり唖然とする男たちに向かってかすみは言い放った。そして、腕にかけてあった網も放った。

 おわっという悲鳴の上から降り注ぐ網の目。今夜は大漁だ。

 同時に、臭えっという抗議も上がった。確かに、あの水路の汚水は健康被害にも繋がりそうであると少しだけ罪悪感が募ったが、謝罪は心のうちに止めた。


「す、助太刀します」


 勇ましく宣言し損なった後、かすみは男の子の手を取り、一目散に逃げ出した。

 呆気にとられていたのは手の主も同じだった。

 一瞬迷いを見せた足に向かって、かすみは怒鳴った。


「走って!!」






 “私”は勇敢ではない。

 少なくとも、あんな場面で見ず知らずの子どもを助けようと思い立つほど、肝の据わっている女ではない。

 見て見ぬフリなど得意中の得意で、仕方がなかったと自分を慰めることなど朝飯前だ。

 男たちの追撃の足音に脅えながら、道を右へ左へと闇雲に走っていると、男の子が唐突に手を引っぱり、建物同士の間へとかすみを押しこんだ。

 数秒もしないうちに、通りをすごい勢いで罵声が走っていった。

 その間、かすみは頭にかぶっていたショールを広げ、男の子ごと巻きこむようにして抱えていた。黒の中に黒なら見えづらいだろうと考えてのことだった。

 腕の中の男の子は、子猫のようにおとなしかった。

 恐怖の余韻に身をすくめている、わけではないことは伝わってきた。どちらかというと驚きのほうが勝っているような。

 どうすればいいのかという戸惑いを、まっすぐに垂れ下がったままでいる腕から感じる。


「……、あの」


 ためらいがちな声が、正気を取り戻させた。

 怖がっていたのは自分だ。かすみは恥じるように、拘束をゆるめた。

 男の子は立ち上がり、一旦、通りの様子を確認した後、こちらに戻ってきた。

 外套の紐がほどけて、ちらりと覗いた胸元に、小さな青い光を見つけた。

 暗闇の中でも光を失わない、鍵の形をしたペンダントだ。

 月を背負うと、輪郭が金色に輝いて、まるでこの世界に落ちてきた天使のようで。



(どうしてこんなところにいるのだろう……?)


 トアレ・ツィル・エーヴェリット。

 海のような深い青色を秘めた双眸が静かに、かすみへと向けられていた。




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