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わたしの悪魔さん  作者: 雪田
第一章 幼少期
12/23

12.幕間 2 ― 幼なじみと幽霊 ―



  * * *


 このお笑いコンビの名前はなんだっけ。

 思い出せないでいたクイズ番組の上に、ニュース速報のテロップが流れ始めた。

 人身事故か政治家の汚職事件か。先回りしながら、ぼんやりと文字を読み上げる。

 

 人通りの多い帰宅時間を狙った繁華街での無差別殺傷事件発生


 予測とは多少ズレたものの、たいした誤差ではない。

 運ばれてきたきしめん定食に意識を戻そうとして、目が画面に吸い寄せられた。

 思わずリモコンを探した。巻き戻し、もしくは他のニュース番組にチャンネルを合わせてくれ。

 店主に願い出そうになって、思い出した。

 携帯電話があった。

 インターネットに繋げれば、ニュースソースを確認することなどたやすい。

 そして、考えてみればもっと簡単な方法があった。

 連絡をとってみればいいのだ。反応が戻ってくれば、すぐに笑い話にできる。

 そうすればいいと思うのに、安心感をすぐに得られる方法があったのに、選択せずに、すぐに勘定を済ませ店を出た。

 被害者たちが運びこまれたという、病院の門構えに見覚えがあった。



 同姓同名なんて、ありふれている。

 毎日ニュースになる事故や事件は多数あり、ニュースにならないものも含めれば星の数だ。

 それでも自分とは無関係だって、対岸の火事、だから迫りくる炎を見ても冷静に怖いとかきれいだとか幻視して、そして、ときどき罰が当たる。

 バスの乗り換えのルートを最短距離ではじきだす脳みそが、妙に冴えていた。

 昇降口が開かれ、ステップに足をかける。

 ポケットに入れたままだった、携帯電話が震えた。




 あの夜のことを思い出すと、冷凍パックされた血液が全身をめぐるような感覚に陥る。


 病院に到着すると、待合室のソファに、散々見慣れた顔と、よく似た輪郭を持つ女性を見つけた。

 ひどくやつれた横顔に、記憶とは正確なものではなく、小さな箱で上演される脚色された演劇のようなものだと思い知らされる。

 実際、彼女の母親がそんな姿になってしまうのはもう少し後のことだ。

 何度目かの見舞いで訪れたときに、簡易イスに座っていた背が一回り小さくなったと感じた。その記憶が上塗りされているのだ。

 病室のベッドに横たわる、何本もの管が繋がり液体を行き来させる、つい昨日ランチを一緒にしたばかりの、幼なじみ。


「…… よう、元気か」


 きっと驚くだろう。

 そう思い、飛び起きてくれないかと願い、声をかける。

 小さな希望は今日も沈黙によって裏切られる。

 しかし不思議と、おだやかな表情に慰めを感じたりもする。

 幼なじみの寝起きが悪いのはずっとそうだったから、こんなふうに寝顔を見る機会は何度でもあった。

 そのせいかもしれない。

 待つということに違和感が少ない。きっと自分はずっと待っていられるだろう。


「さあて、これはだれでしょう?」


 喉が震え、搾り出すはじめてのクイズ、回答者は不在だ。

 この先何度もイエスやノーを聞くことができたとしても、きっと確信に届かない。答えを知りたい一番の声はその中にはいないのだから。

 ずっと深い眠りの世界に入って、戻ってこない。


「なあ」


 聞いてくれよ。

 かすれた、こんな低い声。

 周りのやつからはイメージと違うってはっきり言われた。


「おまえは、どう思うかな?」


 



 

 ―― 手術を受けませんか。


 あきらめることには慣れていた。

 だから幼なじみの友人・知人の中で一番早く日常を取り戻したのはたぶん、自分だろうと思う。

 この耳には声が聞こえず、この口からは声が出せない。小学校に上がったばかりの頃に高熱を出してその後遺症だと聞いている。

 長い付き合いだ。そうなると、もうハンデではなく、自分の一部だった。チビとかデブとかみたいなもの、短所みたいなもの、個性みたいなもの。

 マイナスをプラスに変えるような努力はしない。目標はゼロだ。人並み、だ。

 そんな謙虚な目標を掲げた人生から、突発的な不幸な人災によって、数少ない、唯一とも言える友人を奪われた。神様は容赦がない。

 人生のどん底の味とはこんなにも味気なくて、張り合いのないものなのかと、敵の不甲斐なさをなじる。自分の無力さを嘆く。

 そんなときに、医者の唇が動いた。


 ―― 治るかもしれません。 


 医者は数ある可能性について、より幸福なほうを口にはしないと知っている。

 いつだっていくつもの予防線の向こう側にいて、やや身体を斜めに傾け腕を組み眼鏡のフレームを押し上げ、可能性のあるいくつかの不幸についてしか口を開かない。先生と呼ばれるやつにろくな奴はいない。

 なのに、思わずぽつりと漏れてしまったような本音。降ってわいた幸運。

 人生の中で、与えられる幸せの総量は決まっているもの、らしい。

 そんなことをよく、幼なじみはしみじみと言っていた。

 嫌なことがあったのなら、後はいいことばかりだ、みたいなことを。

 さてその場合、幸運と不運の量の測り方は、相対的なものであるのか絶対的なものであるのかが問題だった。

 だって、世の中の構図は、一人勝ちと一人負けばかり溢れているじゃないか。

 自分がそのどちらになるかなんて、考えてみなくてもわかることだ。


「手術を、受けませんか」


 医者が正面を向いて、もう一度問うてきた。

 怖くなかったと言えば嘘になる。けれどほとんど即答に近かった。


「―― 受けます」


 そう、言葉にできない声に代わって、よろしくお願いします。深々と、頭を下げた。






 目下フリーター。

 大学には進学せず一日中バイトをする暮らし、ある程度の金が貯まったら空っぽになるまで海外を歩き回る。ノープランな人生。

 外国はいい。話すことができない、という能力がなんの特別でもなくなるから。手話が世界共通語だったらもっとよかったのだが。

 障害持ちのくせに未来のことを一切考えないおまえはある意味すげえなあ。よくわからない一目の置かれ方をすることも、多々ある。

 声を失うことも、友を失うことも突然で、準備する余裕なんて与えちゃくれない。

 そう、思い知っているだけなのだが、外から見れば奇異に映るらしい。

 そんな、唯一の趣味と呼べた旅行も、あの事件の日以来、どこにも行っていない。

 おかげで使い道のない金だけが貯まっていく、そんな日々。 

 現在の勤め先は、健康グッズなどを扱う通販の会社だ。

 とある商品がネットでの口コミで人気に火がついたとかで、社員全員、末端のアルバイトに至るまでボーナスが配られた。

 そろそろまじめに就職活動をしたほうがいいか、と思い出した矢先の出来事だった。

 商品担当の先輩に、飯を奢られた。

 この商品が生まれた、そもそものアイディアのきっかけは、宴席で漏らした愚痴だという。

 確かにそのとき隣に座っていた記憶はあるが、相槌すら満足に打てない壁役の自分が何の役に立てたのか。

 おまえのおかげだ。酔いの回った先輩からは感謝の言葉が絶えず、口にした酒は骨に染み渡るようなうまさだった。

 翌日のこと、おそらく先輩から口添えがあったのだろう。社長から、正社員にならないかという打診を受けた。

 返事は、保留にしてもらっている。


 また、姉の結婚が決まり、来年には姪っ子も誕生予定だという。

 買ったまま引き換えるのを忘れていた宝くじでは十万円が当たり、壊れた携帯を買い換える資金になった。

 散々一人暮らしに反対していた両親は、ついに折れた。

 好きなところに行けばいいと、今まで積み立てていたという預金通帳をひょいと寄越した。

 昔から険悪だった親子関係。

 居心地が悪くていつも幼なじみの家に入り浸っていた、その口実の種がまさかこんなふうに開花することがあるなんて。


 あちこちに種を蒔いておくんだよ。


 口癖を思い出す。



 病室の花瓶に生けられた花が、枯れかけている。

 ここ最近、彼女の両親はそれぞれに、仕事に忙殺されているようだ。

 唐突に訪れた周囲の好景気は、いったいどうしたことだろう。

 雪が散ったような、小さな白い花びら。花束を作るときにも決して主役にはならない、幼なじみの好んだ花だ。水気が足りないのか、重たげに頭を下げている。

 しばらく人の訪れた気配がない室内に、不義理は感じない。

 むしろ外に出ていたほうがいいのだと、彼女の家族については思う。

 日々やつれていく横顔を見るのは、他人の目から見ていてもつらいものがあった。

 犯人が自首をして逮捕され、報道が減り、やっと落ち着きを取り戻してきたのだ。

 本来は休息が必要なのかもしれないが、最愛の娘が目を覚まさない限り、本当の意味でのそれは難しいだろう。だったら、思い悩む暇もないくらいに忙殺されて、目を閉じたらすぐに眠ってしまえるくらいがちょうどいい。

 ―― というようなことを、幼なじみならば主張するのではないか。そう考え、代弁する。

 声を取り戻した理由、それが最初の役割であるような気がして。



 肩ほどまで伸びた髪、そのうち切り揃えてやろうと手を伸ばす。

 小中高とずっと優等生で通していた幼なじみは、兄弟のいない一人っ子で、甘えるのが下手くそだ。

 その反動が、たぶん今来ているのだ。

 みんなにどれだけの心配と迷惑をかけたのかを知ったら、この下がり眉がどこま下降線をたどるのか、今から記録更新が楽しみだった。その軌道を軽く指でなぞりながら、ふっと息を吐く。

 ゆっくり休めばいい。

 ただ、前へ前へ、世界がこの部屋だけを置きざりにして進んでいくようで、


「さみしいぞ」


 声に出してみたら、思いのほか強く共鳴した。言葉と身体と心って連動するんだな、厄介だな。

 そんな初めて訪れた感傷に、少し酔っ払ってしまったらしい。

 唐突にまぶたが重くなり、視界が暗くなった。





 まぶたを開くと、波立っているシーツが目に飛びこんできて、心臓が跳ねた。

 酒の力で記憶をなくすのは幼なじみの特技であって、どちらかと言えば、溺れる者を救うワラ的な存在だと自負していたのだが。

 気がつかないうちに、眠ってしまったらしい。

 クリーム色のカーテンの隙間から、外がすでに濃紺色に染まっているのが伺える。

 空調が効きすぎているわけでもないのに、肌にアワが立っていた。

 この病院は近代的な造りで、個室の隅々まで清潔が保たれていて、おどろおどろしい雰囲気は感じられない。それでも、夜の病院とはなんとも独特な雰囲気があるものだ。

 幼なじみは、怖い話の類が大の苦手だった。苦手のくせに、好んで読んだり見たりしていた。

 機械の小さな振動音さえ聞こえない。室内は静まり返っている。

 一瞬、懐かしい感覚にとらわれた。再び、音のない世界に舞い戻ってきたみたいで。


 ベッドに目を向ければ、白いシーツにいくつかの波が立った痕跡だけを残して、空になっていた。

 代わりに、頬に風を感じた。

 カーテンが揺れる。

 窓から光が差しこみ、床へと落ちた濃い陰影がゆらりゆらりと踊っているように見え、今夜はそういえば満月だったと思い出す。

 まるで、世界からこの部屋だけが取り残されているような。すんと、鼻が感傷の残り香を嗅いだ。

 この感覚は、半覚醒の夢を見ているときに似ている。

 ときどき、夢の中で夢だと気づくときがあるが、ちょうどそんな感じ。


「…… かすみ?」


 呼びかけに応えるように、カーテンが丸く膨らみ、ふっと途切れた。

 風の隙間から現れた、小さな影。

 縁取りが月の色だ。

 夜の病院につきものの幽霊は、振り返れば女の子の姿をしていて、金色の髪が小さな身体を覆うように風になびいた。

 ここは日本のどこだっけ、と脳みそが軽く混乱する。とりあえず、尋ねようかと口を開いた。


 五本の指をそろえて、頬を軽くこする。


「…………」


 正直、まだ話すことがあまり上手くない。だから、ときどきこんな失敗もする。

 ぺしんと、口より先に動いた手に突っこみを入れた。

 薄い色、夜空にある月の周りでぼんやりと光る雲のような色をした瞳が、ぼんやりとそんな自分をとらえているのを感じた。

 長い沈黙が訪れた。

 遅れをとった言葉の言い直しをしてもよかったが、待つことにした。待つことなら少し、自信がある。

 時計の秒針が三周くらいする間に、何度か逡巡を重ねたのち、女の子の唇がゆっくりと動いた。


「あなた、だれ?」


 紡がれたのは、きれいな日本語だった。



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