11.わたし
図書室の一角にひっそりと、絵本のコーナーはあった。
上から見るとアルファベットのCの形をした書棚だ。真ん中を埋めるように、円形のマットが敷かれている。
隅に、ぬいぐるみが一つ、転がっていた。いびつな形で、縫い目が思い切り外側に出ている。ついでに中身も少し出ている。
動物を模しているように見えるが、種類まで特定できない。犬かもしれないし、狸かもしれない。ここの主かもしれない。
セシアはそれをつんつんと指で突いてから、ちょっとお邪魔しますよと断り、靴を脱いでマットに上がった。
いじわる魔女シリーズがそろっている。
棚の一段目、三分の一くらいを占領した同じデザインの背表紙に、こんなにたくさん出ているシリーズだったのかと、驚いた。
セシアは知らず目を輝かせながら、絵本を端から何冊か適当に引き抜いていった。
一、二、……、十冊。両手で抱えようとしたが、持ち上がらない。
請うように目線を上げれば、唇の端が持ち上がった。
「自分の手に抱えきれない荷物は持ってはいけない、らしいぜ?」
どこの哲学者の言葉だ。
とはいえ、助力が得られないなら、選ばなければいけなかった。
ぺらぺらとめくり、最後のページで止まる。本の最後には必ず刻印が押されていた。あちらの世界でいう奥付に該当するのではないかと推理している。つまり、本の情報が記されているのだろうと。
どうせなら、出版された順番に読みたいものである。
この世界の文字はいまだ読めないが、簡単な数字くらいならなんとか判別できるかもしれない。
じっと眺めたが、あいにくと一巻、二巻にあたる表記は見当たらない。ただ、同じ文字列が何度も出てくることに気がついた。
(ええと、…… ミ、メ、イ?)
ミメイと読める。作者の名前だろうか。表紙にも背表紙にも同じ文字列を見つけた。
改めて見てみると、本棚に並んでいるのはこの作者の作品が多いようだ。
色鉛筆と水彩絵の具で表現される世界、やさしい色合いで描かれる世界はわりと残酷。
大人向けの絵本のように思える。
(…… ひいおじいさまがファンだったのかも)
故人のことを思う。
会ったことがないから物語の英雄のようなものと、お兄さまは言っていた。
家族四人で晩餐会をした部屋、壁にあった肖像画たちの、一番目立つところに髭面の老人がいた。あれがひいおじいさまか、と話を聞き終わった後に思い出した。
健康的な褐色の肌が、いまいちここの住人たちと繋がらなかったのだが、自ら海を渡って交易をした大商人だと知った今なら納得だ。
でも、姿形だとか偉業だとか目に見えるものではなく、また遺伝だとか目で見えないものでもなく、こういう場所にふと残っているものなのかもしれない。ひいおじいさまのかけら。
時折拾って触れて、人は、もう居なくなってしまった人を偲ぶものではないかしら。
セシアは絵本を見た。表紙の片隅が黄ばんでいて、ヨレヨレになっている。
何度も何度も読み返し、大切に扱っていたものなのだろう。
誰が、と問えば、鳥のぬいぐるみの少し取れかかっているボタンの目が、セシアを見返してきた。
そうかもしれない。本によって、紙の手触りは様々だ。
この絵本の紙は滑らかで、セシアの小さな指の腹にぴたりと吸いついてくる。
その後、読むわけでもないのに、ぺらぺらと頁をめくり続けるセシアに、ベイゼル先生は特に何を口を挟むこともなく、一回目の授業は終わりを告げた。
夜、悪魔の予告どおり、濃紺色に染まった空の中、雲の切れ間から顔を出す、まん丸のお月さまがあった。満月だ。
この世界でも月が月と呼ばれているのか、知らなかった。
けれど、丸い表面に浮かぶ影は、こちらでもウサギが餅つきをしているように見える。
そして早速、新しい絵本を楽しもう計画は頓挫した。
部屋に戻ると、ジュジュがいた。ノンノは、今夜は別の仕事があるので、外出しているらしい。
ジュジュは基本的にお母さま付きのメイドだ。この家では、先代から仕える一番の古株の召使いらしい。
奔放な女主人の要望に応えるのはなかなか大変な仕事のようである。しかし、他のメイドには頼めてもジュジュ相手だとむつかしい。セシアがそう感じるように、きっとお母さまにも同様の効果が見込まれるのだろう。絵本はまた今度にしようと、セシアはせっせと用事を済ませた。
腰が直角に近く曲がっている老体は、洗濯ものがつまった重たいカゴを持つのには不向きだが、手先が器用で、繕いものなら街の仕立て屋よりも、ジュジュに託したほうが安心らしい。
今は椅子に腰かけ、図書室からつれてきたぬいぐるみの修繕に取りかかっている。
ぬいぐるみは最初迷いなくゴミ箱へと捨てられた。コミュニケーションの壁に阻まれ、危うく不幸なすれ違いが起こるところだった。
裁縫道具さえあればセシアにもなんとかできる自信があったのだが、持たせてもらえなかった。幼女に針道具の組み合わせは、あちらの常識でもあまり好ましくないので仕方がないだろう。
ジュジュの仕事ぶりは見事だった。あっという間に完成し、セシアの手元に飛んできた。
「これは、梟でしょうかね」
フクロウであったか。
ホーという鳴き声が今にも響いてきそうだ。満月の夜は深い。
セシアはベッドの上、簡単なストレッチをしていたのだが、ジュジュに視線で咎められ、仕方なく一冊の絵本を手に取った。いじわる魔女とかわいそうなヤモリ、また借りてきてしまった。
開くときに一瞬、緊張が漂う。めくる指先に力が入る。キャラクターたちが外に飛び出してこないだろうか。
期待してめくり、裏切られる。
あれはなんだったんだろう。
魔法のようなもの、でいいのだろうか。少なくとも、向こうの世界では見たことがなかった。
ノンノが読んでくれたときは普通の絵本だった。トアレお兄さまにしかできないのだろうか。
次の授業があるなら、そのときに先生に聞いてみよう。また兄に聞けと言われるかもしれないが。
「さあ、宵暗の刻です。お嬢様、よい夢を」
いつのまにか大分時間が経っていたらしい。
セシアはあわてて絵本を卓の上に置き、シーツの間に身体を滑りこませた。
就寝の準備を終えないと、メイドたちが退出できないのだ。
枕の横に、きれいに直ったフクロウが一羽、すでに寝ていた。
ジュジュにまだお礼を伝えていないと気づいて、フクロウをつかみ、指差した。そのタイミングで部屋の明かりが落とされた。続けて、ぱたんと扉が閉まる音もする。
「……」
言い出すのが、遅かったらしい。暗闇の中では、ジェスチャーで何かを伝えようにも無理だ。
セシアは気まずくフクロウと目を合わせてから、おとなしく布団を引き寄せた。
目をつむると、疲れていたことがわかった。今日の出来事が走馬灯のように頭を過ぎる。
医者は先生となりけれど先生ではなくまた天使でもなく悪魔だった。
エーヴェリタ、潮風に包まれる港町。
今は、窓にカーテンが引かれて見えないが、いつだったか、眠れない夜に眺めていたときには明け方近くまで、街の端からも光が失せることはなかった。
そして、ラビル。世界の中心に立つという図書館。
どうやら、契約書を確認するためにはそこまで足を伸ばさなければいけないかもしれないらしい。どれくらいの道のりだろうか。
遠い。
あまりにも遠い場所。
どこに来てしまったのだろう。
どこに行ってしまうのだろう。
不安は絶えず小さな胸を締めつけて、安眠妨害をしてくる。
でも訪れた眠気に逆らう力は残っておらず、するりと夢の世界へと入っていけた。
夜半に目が覚めた。
動きの鈍い身体をせっついて、起き上がる。鼻が甘い香りを嗅いだ気がした。
一番近い窓の、カーテンがわずかに揺れている。
セシアは、ベッド脇の床へと足を下ろした。
ひんやりとした冷気が寝巻きの裾から忍んでくる。やけに寒い。むき出しになった膝小僧を思わずこすり合わせた。肌に少し鳥肌が立っていた。
そっと窓へと近づく。
ふと、違和感に触れた。
何か、違う。起き抜けだから寝ぼけているのか。まぶたが重く、片方の目はまだ開かない。
それに、と背後の部屋を見回して気づいた。景色が違う。目線が高い。
今、ベッドから下りるときにも、ジャンプする必要がなかった。
こちらの寝具はどれも大きめに作られているようで、小さな身体には余りがあるはずなのに。
カーテンを開けると、外では夜が繁栄の刻を迎えていた。ちょうど月が天頂に届く頃。
窓辺には月灯りがたっぷりと満ちていて明るい。磨かれた窓に、人影が映った。
「え」
対面した“私”が驚いていた。
確かめるように手を伸ばし、頬の輪郭をなぞった。
記憶の中にある姿よりも痩せている。喜ばしく思う前に、片目に触れた。
眼帯。
半分欠けた視界の中に、口を半開きにした、実に間の抜けた顔が映っている。
あわてて下を見ると、先ほどまで足首まであったはずの寝巻きがへその下あたりで途切れ、Tシャツのようになっていた。
つまり下半身にあるのは下着のみだ。下着は伸縮性があったおかげかかろうじてまだ身を守っていてくれた。
勢いよくカーテンを引いた。
今、見られたらまずい、と思った。何を、どう言い訳をすればいいのか。
というよりも何よりも、おかしいだろう。どういうことだ。
“私”は、死んだのではなかったのか。
では、ここにあるこの身体はなんなのだ。
混乱を極め、セシアは頭を抱えた。
「…… 違う」
“セシア”ではない。
もう一度、かなりの勇気をふりしぼって、カーテンを開いた。
もともと下がり気味だった眉は、今や山を転がり落ちる勢いでカーブを描いている。
ショートだった髪は、肩ほどまで伸びていた。黒い髪だ。そして黒い瞳。
片目を覆う白い眼帯に、記憶がよみがえる。
刺されたのだ。刃物で、左目を。
そう、ダンディな天使に告げられたことを思い出す。
実際に刺されたときのことは覚えていない。覚えていない、ということを確認する。正直、ほっとした。
幸いなのか、痛みは感じない。
どちらかというと背中、お尻のあたりに何か皮膚が突っ張るような感覚があり気になった。恐る恐る触れてみると、瘤のように膨らんだ傷痕らしきものがある。見るのはやめておく。治っているのかどうかもよくわからない。無理はできないだろうと思う。
これは、“私”だ。
死んだはずの、“葦辺 かすみ”だ。
どこか懐かしさすら感じる姿の向こう側に、眠らない街、エーヴェリタの灯りが小さく見えた。
12/8/1に誤って全部削除してしまったため、投稿し直しました。
削除してしまったのはこの話までです。
内容は以前のままですが、更新通知などが必要な場合、URL変更になっていますので、お気に入りの再登録をお願いします。
お気に入りや評価、感想などせっかく頂いていたのに、大変申し訳ありません。
今後はこのようなことがないように気をつけていきたいと思います。




