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わたしの悪魔さん  作者: 雪田
第一章 幼少期
10/23

10.わたしの悪魔さん

 悪魔は語った。

 曰く、自分はダンディ天使の代わりである、と。


「契約者を見届けるまでが本来の役目なんだが、おっさんはお前の願いを叶えることを優先したからな」


(私の願いってなんだっけ……?)


 机の上に置かれた紅茶に手を伸ばし、口に含んだ。

 ノンノが仕事の合間に運んできてくれたものだ。

 やわらかな液体がのどを通り、胃におさまる。じんわりと温かく広がっていく甘味に、セシアはひとつ息をついた。


 記憶の混濁がある。話をしていて気づいたのはまずそれだ。

 セシアの身体が持つ本来のものだけでなく、“私”自身の記憶にも穴というか、強制的にモザイクをかけられて見えなくなっている部分があるのだ。

 おもに、生まれ変わる前後、とくに死ぬ直前の記憶が、ない。

 ベイゼル先生こと、自称天使、通称悪魔は全開になった窓の木枠に腰かけ、外へと足を投げ出している。

 なんとかは高いところが好きというが、いっそ、そのまま落ちてしまわないかな。

 そしてダンディ天使と交代してもらいたい。


「あのなー、全部聞こえてるんだけど」

(聞かないでください)

「声が出せないというのだからしょうがないだろう。ただでさえ、人間の思考はノイズが多すぎて読むのが面倒くせえってのに」


 ―― まあ、誰かさんのは読みやすくて助かってるが。

 会話において基本であるはずの本音と建前の垣根が、ない。

 思ったそばから相手に届く。

 遠慮も配慮も挟む余地がない。そんな心と心の会話は、拳と拳で語り合う、殴り合いの喧嘩のようなもので、穏便に進めることは不可能である。

 セシアは早々に友好的な関係を結ぶことをあきらめた。

 なんせ悪魔である。仲良くしたっていいことはない。


「第一、オレも来たくてここにいるわけじゃねーよ。おっさんにはめられたんだ」

(はめられたって?)

「騙されたんだよ、あのくそじじい」


 やはりあのセクシーな微笑みは、天使のそれではなく詐欺師の専売特許だったのか。

 驚きと納得の双方を飲みこむため、セシアはずずずと紅茶をすする。ミルクがたっぷりと入った、やさしい味だ。

 それを横目で見ていた先生は、自分の分のカップに後ろ手を伸ばし、口をつけた。

 喉仏が上下するのを見届けて、悪魔も飲食をするのか、と不思議な気持ちになる。


「この身体は人間のものだからな」


 セシアは小首をかしげた。


「おまえと違って、オレにはこちらの界に渡る資格がなかったんだよ」


 そういえばそんなことを、ダンディ天使も言っていた気がする。


「でも契約を履行するために、オレはおまえのそばに来る必要があった。そうしたら、ちょうど三年前に、この馬鹿医者センセが」


 と、先生は自分自身を指差す。

 

「召喚の儀を行ったせいで、この世界の扉が開いた。そこに条件を合わせて呼び出されてやった、というわけだ」


 やっぱり悪魔なんじゃないか。

 セシアが眉根を寄せると、悪魔はかっと笑った。何がおかしいのかよくわからない。

 いつのまにやら後ろ髪は解かれ、外された眼鏡は胸のポケットにひっかかっている。

 そうなるともう別人なのだった。曰く、中身だけの変化であるようだが。

 デジャブを感じた。最近、同じような追体験をしたばかりではなかったか。

 セシアは少し身を乗り出して、質問を重ねた。


(じゃあ、元の、ベイゼル先生はいなくなってしまったの?)

「いや、ここにいるよ。このセンセは、現世に絶望して余命と引き換えにオレを呼んだ。己の望みを叶えるためだけに。そこで、召喚されたオレは交換条件を示した。望みは叶えてやる、代わりにその身体寄越せってな。―― 了承を得て、オレはヨハン・ベイゼルとなり、おまえがこっちにやってくるのを待っていた、というわけ。ま、オレに医者の知識なんてないからな、センセもときどき起きては仕事してるよ。すげえ不満そうだけど」

(どうして? 命が助かって望みも叶うなんて万々歳なんじゃ)

「なー、そう言ってやれ。でも、このセンセは根っこが病んで腐り落ちてるんだ。生きてるように、死んでる。見えるのは妄執のかけらだけ。オレの献身的なカウンセリングの甲斐あって、大分まともになったけどな」


 そこまでして叶えたかったというベイゼル先生の望みとはなんだろう。

 セシアの疑問に、悪魔は唇の前に指を一本立てた。


「ないしょ。なんなら、本人が起きてるときにでも聞いてみれば。ただし、おまえについての詳しい委細は知らないから説明しろよ。勝手にロリコン認定されても困るんでね」


 勘違いしたことについては、謝罪を表明しよう。

 しかし見届け役というなら、もう少し素直に、正体を明かしてくれてもよかったのではないか。

 セシアはじいっと悪魔を見つめた。

 悪魔が愉快そうにこちらを向く。本音の読めない、茶化した表情。

 その奥にあるであろうものについて。登頂から麓まで、穴が開きそうなくらい見つめたが、何も伝わってこない。

 聞けば、セシアにもたらされたこの感応能力は天使の標準装備でもあるらしい。聞く・聞かないの制御も自由ということは上位互換なのだった。なんだかくやしい。


「おまえも物好きなこって。オレなら人間の思念なんて頼まれても触りたくないが。欲望と憎悪にまみれた汚物じゃねーか」


 セシアだってそうだ。そこの先生のように、望んで契約を結んだ記憶なんてどこにもない。

 おかしいなと内心で首をひねりつつ、しぶしぶとセシアは頷く。厄介という言葉に、そのとおりだと思ったのだ。

(なんとかできないんでしょうか、これ)

 悪魔は少し考えるようにしてから、セシアの頭へと手を伸ばした。


「すべてが聞こえるわけではない、ようだか。……ふーん、おっさんがなんか制限をかけてるんだな」


 鷲づかみにされ、ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜられる。

 あわてて距離をとろうとしたが、相手を喜ばせただけであった。

 小さな身体ではろくな抵抗をする間もない、脇に手を入れられ持ち上げられる。

 そのまま、悪魔の隣へと移動させられた。

 シーソーに座るときの要領で、窓枠をまたぐ。

 足の裏、樹木の葉を揺らしながら通り抜けていく風を感じる。

 正直、高いところは得意ではない。つかまろうにも、目の前にはにやにやと笑う悪魔しかいない。

 セシアは仕方なく、行き場を失った手をお尻の近くに着いた。


(……制限って?)

「知らね。契約書読めば書いてあるだろ」

(その、契約書ってどこにあるの?)


 やっと一番気にかかっていたことを尋ねるのに成功した。

 すると、悪魔は何言ってんだこいつというふうに不可解な表情をした。

 何、と言われても、ダンディな天使が最初に持ち出した、分厚い取り扱い説明書のような本のことである。確か、表紙には赤文字で重要とあった。

 特徴を説明しても、悪魔の表情は怪訝を表したままだった。

 

「…… 妙だな。契約書は、契約者が望んだときに自由に閲覧できるはずだが」


 大抵の場合、契約の内容は多岐に渡るので確認の意味合いもこめて、元本は天使の手元に、コピーは契約者に手渡される、らしい。

 もらっていない。

 目覚めたときそばにあったのはこの絵本だけだった。

 と、セシアが置いたままだった絵本を指差すと、悪魔は黒目でそれを確認し、そのまま室内をぐるりと巡らせた。

 なるほど、と合点したように声が漏れる。


「そうか、この世界特有の規則のせいか」


 規則とは。あちらの世界でいうところの、なんだろう。

 地球が丸いということか。

 一日が二十四時間であるということか。

 人のものを盗んではいけないということか。

 赤信号は止まれということか。

 幼なじみに初恋の話は厳禁ということか。

 さあ、どれだ。

 いきなり始まったクイズに、先生は一瞬教師らしいまじめな顔つきをしてどれとも違うと告げた。

 どうやら久しぶりに会話ができるという状況にちょっと舞い上がっているらしい。自覚をし、反省する。

 相手は悪魔のような天使だ。不用意な一言でまた一大事を招いてしまうかもしれない。冷静にならなければ。

 窓の下からチャキンという金属音が響いてきた。見れば、年老いた白髪の男性が大きな鋏を持って、低木の剪定を始めている。庭師だろうか。執事やメイド以外の召使いたちとはまだあまり交流がなかった。

 

(それで、規則って?)

「この世界におけるすべての文書は、自動的に収納されることになっている」

(どこに?)

「“ラビル”に」

(ラビル、ってなに?)


 音のまま意味が翻訳されない。ということは、あちらにはなかった概念ということだろう。

 ラビル、とセシアが唇を動かしてみると、近似値の意味を表す言葉が選択された。

 “出べそ(ラビル)”だ。

 …… 出べそとはあの出べそのことだろうか。おまえのかーちゃんに続く、有名なあの台詞の。


「“ラビル”は、図書館のことだ。世界の中心に立つ図書館、通称“出べそ(ラビル)”」


 図書館と聞いて、セシアは室内をぐるりと見回した。

 この図書室ですら、セシアにとっては充分図書館に見えるのだが、ラビルという図書館には、世界中から本が集まるという。具体的な収集方法については不明だが、その中に、セシアの契約書も紛れこんでいる可能性があるということらしい。

 どれくらいの大きさの図書館なのだろう。遠いのだろうか。貸出カードを作ったら子どもにも貸してくれるだろうか。


「ああー……、面倒くせえな。詳しいことはおまえのにーちゃんに聞いてみれ。専門家だ」


 にーちゃん=お兄さま、という式を理解するのに時間がかかってしまった。

 確かに、先ほどまでよほど教師らしくセシアにいろいろ教えてくれた兄だが、またそんな機会があるのかどうかが問題だ。明日には学校に戻ると言っていたし。 

 しかし目の前の不良教師はもうこれ以上授業をする気はないようだ。

 セシアの物言いたげな視線をさらりと避け、また荷物のように持ち上げられた。


「…… ひ、ひやあああっ!」


 という悲鳴は声にならなかったが、悪魔の耳には届いたようだ。顔をしかめられた。

 ぶらーんぶらーんと、足が風に吹かれるように揺れ動く。

 はるか下にある地面。今、手を離されたら一直線にあそこまで落ちるだろう。

 チャキン、チャキンと、足元では庭仕事のリズミカルな音が途切れない。

(い、今、この状況を見られたりしたらどう言い訳するつもりだ! ロリコン医者の烙印を押されるぞ!)

 と、脅してみても、まったく効果はなかった。 


「軽いなあ。ちゃんと食べてるのか」


 のんきな台詞と状況のギャップに、セシアは軽くめまいを覚える。

(……毎日おいしく頂いています。これからじょじょに肉もつく予定です)

 冷静に応じる自分もどこかのネジが一本外れてしまっているのだと思う。なんせ一度死んでしまった身の上なので。

 でも、もう一つの可能性を聞いてしまったから、セシアには必死にならなければいけない理由ができていた。

 強くつかんだ先生の手首は、思ったより太くてたくましい。

 それに比べて、小さくて軽い身体。

(この本来の持ち主は、いったいどこに行ってしまったのだろう?)

 悪魔は答えない。知っているだろうに無視をする。


「どうしてやろうか、これ」


 黒い瞳がきらりと太陽光を反射させた。

 セシアは、黒い、どうしようもなくどす黒いものが、お腹の中に波紋を描きながら広がっていくのを感じた。

 ダンディな天使の代理に出会えてほっとした。何も知らないこの世界で、おそらく唯一の味方。たとえ天使でなく悪魔だとしても、セシアにとっては救いの存在だ。

 でも無条件で受け入れる気にはならない、気に食わないのは、言葉の端々から感じるからだ。

 価値観の齟齬を。

 人の命をなんだと思っているんだ。


「なあ、ほんとに覚えてないのか?」


 その問いかけは、相手を必要としないもののようにセシアには感じられた。自分に向けられたものではないような。

 いぶかしみながら、契約書の中身についてはそもそも読んでいないからわからないのだ。

 そう説明を重ねると、ベイゼル先生は二回三回と瞬きをして、顔を伏せた。

 手から力が緩み本当に落ちてしまうかと危ぶんだが、部屋の中へと戻してくれた。

 足が床に着き、ほっと息を吐く。

(このロリコン野郎め)

 思わず漏れた悪口に、今度はちゃんと反論があった。


「オレに幼女趣味はねーよ」

(はいはい、そうですか)


 そもそも趣味趣向のような俗物的なものが悪魔にもあるのかどうか。

 そこからの検証が必要かもしれない。興味はないけれど。

 

「まあ、前の姿なら考えてみなくもないが」

(いったいなんのことを言っているんだ)

「今のおまえじゃなあ。何をするにしても、色気なし、声なしという二重苦は興醒めだし」


 セシアが無言でにらみつけると、再び手が伸びてきて髪をぐしゃぐしゃとした。

 おかげで、頭が鳥の巣穴のようになってしまった。手ぐしで整えながら、セシアは長く息を吐いた。


(……私の天使さん、せめてもう少しまともな代理は見つけられなかったのでしょうか?)


 顎に指を添えた悪魔はしばらくして、ふと窓の外を見やった。


「今夜は、満月だな」


 窓枠にふちどられたキャンパスの中、水色の絵の具がこぼれたような空に、円形の白い陰影を見つけた。

 この世界の月も、満ちたり欠けたり少しずつ形を変えるようだ。

 セシアはほんの少しの間、今は遠くなってしまったあちらの空へと思いを馳せた。



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