空白考
この作品は、「文学作品をもりあげよう」という趣旨の、文学作品4月1日一斉投稿の企画小説の一つです。よろしければ、他の方々の作品もご覧になってください。
私の目の前には空白がある。
それは、埋められるべき空白である。
それは、絵描きにとってのキャンバス、陶芸家にとっての粘土であり、創造という行為を可能にする、茫漠とした広がりを持つ何かである。
私は、一文字一文字を慎重に、おそるおそる、そこに書き付けていく。一文字は一語になり、一語は一文になり、一文は一頁となり、そうして、いつしか一つの物語を構築していく。
私は、語り部であり、作り手であり、その空白という世界を、己の色でいかようにも染め替えることの出来る絶対者である。
だから、私はその白い静寂に耳を傾ける。痛いほどの静けさに耳を澄ませ、その虚空に目をこらし、その匂いをかぎ、その味を舌先で転がす。そこから溢れ出る、どんな兆候をも見逃すまい五感を総動員して、言葉の降臨を待つ。
降臨はやって来るかもしれないし、やって来ないかもしれない。言葉は性悪な女のように、気の引く素振りを見せたかと思えば、捕まえようとした途端、ぱっと身を翻して逃げていく。指先にその感触を得たと思った一瞬あとには、はるか彼方にあって、どれだけ手を伸ばそうと、もはや決して届くことはない。
一期一会という言葉の通り、同じ出会いは一度としてなく、同じように語られる言葉は一つとしてない。その一瞬を逃したが最後、もう二度と、同じ出会いが戻ってくることはない。その場かぎりの情事のように、儚く、掴みがたく、燃え上がる、刹那の結合。
だからこそ気紛れな女神をその腕に抱いたなら、しっかりと捉えて、地面に組み伏せねばならない。己の胸の内で、その抵抗を絡めとり、ただその一瞬のみに与えられる快楽に身を委ねるために。
私は、そうして空白を埋めていく。少し書いては、指を止め、また少し書いては読み返し、そんな風にして残りの余白の反応をうかがう。それは、女の大腿に指を這わせるのにも似て、どんな粗略さも許されない作業である。壊れ物でも扱うかのように、細心の注意をはらって、なされなければならない。
息を詰め、はやる心を押さえ、探りを入れては反応をうかがい、ときに自分の残した軌跡を行きつ戻りつしながら、少しづつ高まっていく何かを育て上げていく。私の望みは、その未開拓の場所に自分を差し入れ、空の器を私という存在で満たすことだ。
孤独で、淫猥で、それでいてどこか厳粛ですらある儀式。忘我の境地の只中で、私は指を動かす。時間を忘れ、家族を忘れ、食べることも忘れて、悪い嗜癖に溺れていく。
空白は悪食で、言葉の女神よりもはるかに身持ちが悪い。それは喰うものを選びなどしない。
悪いともいいとも、上手いとも下手とも言わず、ただ自分にあてがわれる何物をも、その身に受け入れ、拒否する素振り一つ見せはしない。どんな美しい言葉も、醜い表現も、魂が打ち震えるような名文も、気がそがれるような駄文も、その空洞は平等に呑み込み、いかなる評価も下してはくれない。
空白は、自由で、奔放で、躍動的だ。言葉とは、彼女の純白の皮膚に刻み付けられるのではなく、彼女の内側から、溢れてくるものなのだ。
そう、全ての物語りは、彼女の裡で語りつくされている。
それは、たとえば、確率の問題に似ている。十面のサイコロを投げ続け、出た目の数字を記録していけば、沢山のランダムな配列の中に、ときおり意味のある配列を見出すことが出来るだろう。
もっとずっと長い時間、永遠の時間を同じ作業に費やせば、πだろうが、対数だろうが、黄金比だろうが、フィナボッチ数列だろうが、いや、私達の知る、知り得る、全ての実数が一つ残らず出尽くすことだろう。
同じように、永遠の時間、数字の代わりに文字列のついたサイコロを投げ続けたなら(ファンタジーエンの灰色の猿のように!)、全ての言葉、全ての文章、全ての物語は語りつくされる。
空白とは、永遠の時間、ふられつづけるサイコロである。それは、未知のようでもあり、既知のようでもあり、文字通り「全て」を内包する真理の祭壇である。
幾千幾万もの言葉が、その泉から探求者の手によって掬いだされ、そしてさらにもっと多くの物語が、そこで来たるべき誰かに掬いあげられるのを待っているのだ。
しかし、どんな絶頂にも終わりはある。私が果てたとき、確かに組み敷いたと思ったものは、空蝉のように虚空に掻き消えて、もはや私の隣にはない。
頂点に登りつめるのは、決して容易ではない。時には、何時間、何日、いや何ヶ月も、私はお預けを喰わされる。その間、私は空白を凝視して、彼女の訪れを待つのだが、待ち人がいつ来るか予想できる事は稀だ。いや、ひょっとしたら、もう来ないのではないのかとさえ考える日もある。
なんとなれば、新雪のような空白の媚態に心奪われることは、娼婦に恋をするかのように不毛で切ないものだ。金離れのいい常連の客に、彼女を奪われて、諦めきれずに未練たらしく窓の明かりを見上げる男のように、悲しく、辛いこともある。
恋はしてもいい。しかし、それがいつも報われるとは限らない。
私は机の前に腰をかけ、ちっとも埋まらない空白を見つめ続ける。コーヒーはすでに三杯目になり、吸った煙草の本数は数えることすら出来ないが、その時が来る兆候はまるでない。モニターに移る画面の白さは、ただひたすらに単調で扁平で、憎らしいほどにのっぺりとしている。どんな躍動も、どんな息づきも、感じ取れない人工的な白さに、果たして私が待っている何者かがそこに隠れているのかどうか、心もとなくなってくるほどだ。
それでも私の体は、その時の快楽が忘れられないでいる。身内を喰む焦燥は募る一方。もどかしさに気が狂いそうになる。満たされない欲望のやりどころを求めて、私はキーを叩く。
叩いて、叩いて、頁の半分ほどまで埋め尽くすと、私は、彼女の存在がそこに記されていないかどうか、淡い期待を抱いて、読み返してみる。
やがて、彼女の片鱗さえ感じられない、駄文の連なりに、がっかりすると、私は暫く、その醜い面相を美しくする方法を考えてみる。やがて、それはどんな化粧でも誤魔化せない、骨格からして救いようのない不美人だという結論に達すると、私はカーソルを動かして全文をハイライトし、消去ボタンを押す。
後に残されるのは、最初と同じ、残酷なほど静かな空白。
補足あるいは蛇足:ファンタジーエンの猿云々<−出典は、ミヒャエル・エンデ作の「はてしない物語」です。