「∵」←こんな顔をしている妹 1
時は過ぎること十数分。Gに触れないように鋏を使ってゆっくりとチップスターの筒を腕から外した。これが僕の腕にはまる最後のチップスターかと思うと感慨深かったが、考えてみればそんな感慨は小学生の時に終えているべきというかそもそもチップスターの筒は腕にはめるものではないので、そんな感慨自体普通存在しないはずだ。
空腹のあまり包丁を掴みだしたさつきさんの口には冷蔵庫の奥の方で眠っていた魚肉ソーセージ(賞味期限ぎりぎり)をつっこみ、つむぎの命令通りシャワーを浴びた後に中断していた料理を再開する。野菜を水につけ過ぎてふにゃふにゃになってないか心配だったが、そこは僕の妹こと漆根家専属シェフのつむぎが絶妙のタイミングで出しておいてくれた。
「ちょっと味付けが薄いんじゃない?あと片栗粉を溶くときにちょっと手を抜いたでしょ?ほら、ここダマになってる」
「・・・・・・」
妹のダメ出しを一身に受けながら自作の中華丼を口に運ぶ。勝利の後だと何でもおいしく思えるから不思議だ。
さつきさんは言うといまだ魚肉ソーセージを初めてのお小遣いで買ったうまい棒のように大事に食べていた。怨みがましい目でこちらを見ていないという事は中華丼よりも魚肉ソーセージの方が美味だという判断だろう。
ちっ
まあいい。この後僕特製の中華丼が食べたいと両手を(Gが這った後の)床について頼むことになるのだからな!
「ついでに言うとあたし、今日は酢豚の気分なんだけど」
「文句を言うなよ。ぶん殴るぞ」
安全だと分かった途端元気になりやがって。さっきまでの殊勝なお前はどこへ行った。
そんな感じで食事を終え、つむぎがお風呂に入ったのを確認し(脱衣所を見たとかそういう意味ではない)、さつきさんに中華丼をふるまった。
「ほう、待ったかいがあったな。耕太のくせに以外と美味いな」
「『のくせに』は余計ですよ」
褒める時は普通に褒めてほしいものだ。
「耕太、以外と美味いな」
「僕は食用かっ!?」
「自分で言ったではないか!」
「そうだった!」
完全に墓穴を掘った。しかし、『のくせに』を取っただけでこうも意味が変わるとは日本語って複雑だ。
「そんなことはないぞ。日本語というのは実に単純にできている。試しにいろいろな単語の頭に『伝説の』とつけてみろ」
「たとえば、中華丼にですか?」
「伝説の中華丼」
「かっこいいー!間違えなく今この目の前にある中華丼のことではないと思いますけど。えーと、じゃあ次は・・・シャワー」とりあえず思いつく単語を並べてみる。
「伝説のシャワー」
「なんですか、まるでナポレオンが常時使っていたかのような荘厳な響きは!きっと黄金とか出てきますよ。『吾輩の辞書に水道水はない』とか絶対言ってましたよ!」
ふむ。これはなかなか楽しいぞ。日本語が実はすごく単純な言語というのが全然ショックじゃないもんね。
「それじゃあ、漆根耕太!」
「伝説の漆根耕太」
「うわー。なんなんですか。その人絶対僕じゃない人ですよ。だって伝説ですもん」
「いや、君は十分伝説だと思うが・・・」
「それは伝説ではなく悪名というんです」僕は即答した。
僕の悪名については今更解説するまでもないだろう。
過去バナ過去バナ
「やれやれ、反省の色がない。これだから溺死体は」
「溺死体!?僕もう死んでるの!?」
それは初耳・・・だが、今の発言を被害者の会のメンバー(とくに春日井さん)に聞かれたら本当になりそうだ。
「溺死体と言えば」
「言えばっ!?」
いまだかつてそんな過酷な『言えば』を聞いたことがない。
「確か明日はあの女史と泳ぎの練習をしに行くのではなかったか?」さつきさんは漫画のように中華丼をかっかっかと掻きこむと、テーブルの上にドンッと置きながら言った。きちんと唇の横に米粒を付けるのも忘れない。
そこにちゃんとつっこめなかったのは僕の不覚だ。
「あっ、そうだった。明日は僕の命日だ!」
「なぜ死ぬことが決定している!?」
さつきさんのつっこみにも微動だにせずに中華丼のおかわりをよそい、さつきさんの前に置く。さつきさんはお礼も言わずにかっ込み始めた。
「いやいやちょっと考えてみてくださいよ。春日井さん+僕+海水浴ですよ?イコール?」
「あぁ・・・死ぬな」
「そうなんですよ。僕もまさかあの旅行のあの発言が本当だとは思わずにオッケー出しちゃいましたけど、いざ本当になるとどうすればいいのか・・・」
「飯うっめ!」
「聞けよ!」
このさつきさん、僕の命がかかっているというのに、中華丼を堪能してやがった。
「というか今更こんなことを言うのもあれだが、先ほど2Fから鳴ったダッサい着信音は君のではないか?」
「ダサいとか言うな」
最初から設定してあった着信音だから別にいいけどさ。
「ああ、あれもしかしたら春日井さんのかもしれないですね」
でもあれは電話の着信だったから、違うと思うんだけど。仮に春日井さんからの着信だったら僕は溺死ではなく焼死になる。
「どちらにしても死ぬのだな」さつきさんは中華丼に入っているウズラの卵を箸でつかみ、じっと見て、一口で食べようか半分に噛もうか悩みながら言った。
「とりあえず確認してきます」
Gが死んだ今、この僕に怖いものはない。勇敢にも電気をつけずに階段を上がり、部屋に入って携帯を掴み、悠々と一階に戻った。
その様、まさに―――威風堂々。
というのはさっきやった。
着信は母さんからだった。留守録に残っていた情報を要訳すると、「会社の友達の家に泊まっていく」とのことだった。
「ははは」
母さんもタイミングが悪いな。母さんの天敵。いや、宿敵。いやいや、仇敵のGは既にこの家にいない。母さんの遺志―――じゃない、意志を継いだこの僕こと伝説の漆根耕太が排除したのだ。あの死闘の前にこのメールを見ていたら絶望のあまり気が狂っていたかもしれない。つむぎだったら悶死か憤死とかいう歴史上の人物しかしたことのない意味のわからない死にかた(断っておくが彼らの人生を否定しようという意味ではなく、死因は悶絶や憤りじゃなく、ストレス性の脳溢血とかなんじゃないかという意味だ)を披露していただろう。
だが、今となってはどうということはない。両親ともに帰ってこないことなど、僕らにとっては日常だ。いや、そんな頻繁にあることじゃないけど、そんな軽口も叩けちゃうね。
僕がもしマフィアのボスだったら葉巻をぷかぷかふかせながら『で?』とかいってるだろうね。
「メールは伝説の春日井さんではなかったようです」
僕は携帯の画面をさつきさんにつきつける。しかしさつきさんは首をかしげた。
「着信音は2回聞こえた気がするが?」
「まじで!?」
僕はあわてて携帯を操作する。
・・・が、そのような着信はどこにもない。
まさか、もしかして、誤って消してしまったのか?
もしそうだったとしたら僕は死ぬぞ!?
「嘘だ。てへっ」
さつきさんは軽く握った拳で自分の頭をこつんと叩いた。
「殺すぞ」
「怖い!」
さつきさんは勢いよく椅子を引いた。しっかりと中華丼と箸を手放さないあたり、さすがさつきさんと言わざるを得ない。
「しかし、君はあの女史にビビりすぎだろう。友達なのではなかったのか?」
「いいですか、さつきさん。この世に友達が2人しかいない人間を思い浮かべてください」
「いや、そんな奴いないだろう」
いるんですよ、目の前に。
「その友達が気まぐれでちょっとしたことで自分の命を狙ってくるじゃないですか?」
「いや、質問されても知らないが」
「しかし、そいつはその友達の注文に応じないと残ったスキンヘッドのマッチョしか友達がいなくなるわけなので、応じるわけです」
「もう一人の友達に関しては強気なんだな」
「ほら、どうなりますか?」
「言いなりになるしかないな」さつきさんは中華丼をかっこみながら言った。
「ね!」
ほんともう、どうしましょうという感じだ。
「それで、あの女史でないというのなら、電話の相手は誰だったのだ?」さつきさんは空になった丼の底を見つめ、『おかわりしようかなあ。どうしようかなあ。でも夜にあんまり食べると太るしなあ。あっ、つまり寝なければ永久に食べてていいのか!私はやはり天才だな』とか考えながら言った。もちろん口には出していないが多分そうだ。
「ああ、母さんからでした。なんでも友達の家に泊まるから帰ってこないそうです」
「ふむ。なるほど。つまり今夜は耕太とつむぎしかいないわけだ。チャンスだな」さつきさんはうつむいて両目を強くつぶりながらも、丼をまっすぐ僕につきだした。
「はは、何のですか」給仕係の僕は迷いなく中華丼のおかわりを盛る。多めに作ったはずなのだが、なくなってしまった。料理人冥利に尽きるというものだ。
「禁断の愛だ」
「ぷぷ。笑っちゃいますね。妹が恋愛対象とかおとぎ話でしょう」
「ちっ、なぜそんなに余裕なのだ。腹立つな」
立ったり減ったりと忙しいさつきさんのお腹だ。たっぷりご飯も食べているんだし、いい加減落ち着いてほしい。