春日井さんの、ばか! 1
次の日は朝から雨が降っていた。波も強いので一流のサーファーなら喜んで海に飛び込んでいくのだろうが、あいにく僕は五流か六流のスイマーなので行きたくない。まだ生きていたいからだ。
例によって及川は朝が弱いし、僕は弱いけど起きるのは早い。僕が目覚めた時には及川が隣のベッドでいびきをかいていて、一階に下りていっても誰もいなかった。昨日及川が買ってきた食パンを焼き、ジャムを塗って一人テーブルに着いた。
雨粒が窓をたたく音をBGMにトーストを口に運ぶ。はっきり言っておいしくなかった。雨粒や気分と同様に僕の味覚も落ちているのかもしれない。
雨の音だけが響く静かな朝だった。最後の一切れを口に運び、皿を洗い、窓の外を眺めて見た。雨が打ちつけていて、水の中にいるようで何も見えなかった。
ガラスに指を這わせてみると、冷たい感覚と共にパタパタという細かい振動が伝わって来た。不規則に叩く静かな音は、僕の心を少しだけ落ち着かせる。
階段を下りる足音が背後から聞こえてきた。外が明るい窓は鏡の役割を果たさないので振り返ると、春日井さんたち4人が下りてくるところだった。
「おはよう」
そう言った僕に対して永川さんは睨みつけ、日比野さんは2秒ほど僕を見つめて目をそらし、志井さんは僕を見さえしなかった。
「・・・・・・」
そして僕と春日井さんの目があった。しかし、春日井さんはすぐに目をそらしただけで何も言わなかった。どうやら日比野さんはそれに気付いたようだったが、彼女もまた何も言わなかった。
嘆息。
一晩考えたけれど結局僕も何も言う事が出来ない。そもそも及川の言葉が本当かどうかも定かじゃない。結局僕は何もできず、何も分からないままだ。
話しかけることは諦めて2階に上がることにした。このまま僕がここにいても空気を悪くするだけだろうし、僕を睨み続ける永川さんの視力が低下してしまうだろう。
「漆根君、これ・・・」
と思ったら、僕に声がかかった。驚くべきことに志井さんだ。さて、どうしたものかと僕は逡巡する。この場は渡りに舟とばかりにノリに乗ってノリノリになって会話を続けるべきか、それともこのアンニュイのままで行くべきか・・・。
僕は志井さんの方を向いて、彼女の手に会った何かを受け取った。
「・・・・・・」
玉ねぎだった。まごうことなく生玉ねぎだった。志井さんを見るが、目が明らかに「約束破ったんだから早く食えよ。もたもたすんじゃねえよ、ボケ」というセリフを語っていた。いや、こんなヤンキーチックじゃないかもしれないが、僕の立場からすれば同じようなものだ。
僕は玉ねぎを手に取ったまま、苦笑いを浮かべ、逃げるように階段を駆け上がった。
いや、無理でしょ?だって生玉ねぎって犬を殺すくらいの威力を持ってるんだよ!?死ねと?志井さんは問答無用で僕に死ねと言っているのか!?
背後で僕を撃退した志井さんがガッツポーズを決めた気がしたが、とにかく逃げだした僕は2階のリビングのソファーに深く腰掛けた。昨日及川と話したテラスが目の前にある。つくづく贅沢な間取りだと思う。僕の家だって決して小さいわけではないと思うけれど、さすがに2階にリビングを作ったら僕の部屋がなくなってしまうだろう。
リビングのテーブルには書置きがあり、及川の親父さんから及川に当てたもので、急用が出来て明日の朝まで出かけるというものだった。本当に忙しい人だ。それでも仕事の合間を縫って僕たちの送り迎えを買って出てくれたのだろう。
だけど、それを素直にありがたがれない僕がいた。「こんなことなら来るんじゃなかった」と子供のようなことを本気で思っている自分がいるのだ。
ソファーにもたれかかり、顔に掌を当てた。
目まぐるしい。こんなにも変わってしまった自分というものを自覚する。
さつきさんの影ばかり追っていた2年間はもちろん、それから今日までずっと僕はさつきさんがいるだけで幸せだと思っていた。その思いはさつきさんが行ってしまったあの日からも変わらない。
だけど今は違う。さつきさんと無関係のところで僕は明らかに悩んでいる。
「ああ!もう、めんどくさい!」僕は立ち上がり、頭を掻いた。
だいたい僕はこんなキャラじゃなかったはずだ。サバサバしているわけではなく、むしろネバネバしているキャラではあったけれども、4月まで何も悩むことはなかった。自分のやりたいようにやってきた。もっともそれは完膚なきまでに間違っていたわけだけれど。
だけど、何も考えなくて良かったあの頃の方が楽だったかと聞かれれば僕は全力で首を縦に振るだろう。なんせ自分の全てを肯定してくれる自分がいるのだ。いうならば僕を中心とした信教のようなものだ。僕という軸が中心で、否定するものは何もない。だからこそ僕は自分の行動に何の疑問も抱かず告白し続けたわけだし、周りの目を一切気にしなかったのだ。
じゃあ僕はネバネバしてればよかったのだろうか?ぬめっとしててねとっとしててふにゃふにゃしてればよかったのだろうか?
純粋にいやだ。そんな粘菌みたいな思考体型の一切を放棄した人生は歩みたくはない。ならば僕はこの変化を歓迎すべきなのだ。苦しみながらも飲み込むべきなのだ。
「じゃあ僕はどうすればいいんだ?僕が悪かったですと春日井さんに謝ればいいのか・・・?」僕はひとりごちる。
結局答えは見つからないまままたしても同じところに着地してしまったわけだ。
「あ・・・・・・」
しかし、この時ばかりは少し違った。なんと部屋に戻る途中の日比野さんに遭遇してしまったのだ。
「・・・・・・」
僕は何も言えなかった。彼女が春日井さんと永川さんからどんな話を聞いていて、どんなふうに考えているのかは分からない。しかし鈍い僕でもさすがに察しはつく。弁解はできないし、そもそも何に対して弁解すればいいのかもわからない。僕の視線は逃げるように下がり、テーブルの上で現在紙を抑えるおもりとして機能している生玉ねぎへと注がれた。なんだか玉ねぎまで僕を攻め立ててるような気がしてため息をついた。
「あの・・・漆根、君・・・・・・」
「ええっ!?」僕はソファーから転げ落ちんばかりにのけぞり、大声を上げた。幸いにして落ちることはなかったが、ずっと丸めていた背骨がきしむ音がした。
「ど、どうしたの・・・・・・?」
顔を上げると、向かいのソファーの背もたれに手を置き、身体を少し隠すようにしながらこちらを見ている日比野さんの姿があった。
「あー、日比野さんか。よかった」
ほっと安堵の息をつく僕を怪訝な顔で見ている。当然だろう。
いや、ほんとびっくりした。ずっと玉ねぎを見つめていたもんだから、玉ねぎが話しかけてきたのかと思った。悩み過ぎて精神に異常をきたしたのかと思ったよ。
「いや、玉ねぎってめちゃくちゃスライムに似てるなぁって思ってたら突然動きだしたように見えたんだけどそんなわけないよねっていうか僕は何の話をしてるんだろうね」
しかし玉ねぎではなく日比野さんが話しかけてきた理由がわからない。そして例によって例のごとく日比野さんは僕に話しかけたことを後悔しているだろう。
しかしなんと切り出せばいいかわからない。「何か用?」じゃ尖ってるみたいだし、「どうかしたの?」はどうかしてる僕が言っていい台詞とは思えない。
と思ったら、日比野さんが先に口を開いた。
「ちょっと、・・・いい?」
反射的にうなずいた僕を見、数秒間逡巡してから僕の向かいのソファーに腰掛けた。テーブルの上のメモを見て何かを思ったようだが、見なかったことにしよう。
「若菜がね・・・」脚をそろえ、その上に重ねた両掌を置き、日比野さんは言った。
「肝試しから帰って来てから様子が変で、なんていうか沈んでいるっていうか、落ち込んでいるっていうか、それで理由を尋ねても全然教えてくれないし」
「・・・・・・」
そうか、僕と同じように春日井さんも凹んでいるのか。それが及川の言う通りなのかは分からないけれど。
「由佳は漆根君が若菜を暗がりに連れ込んだと思ってるらしくて、ものすごく怒ってて、昨日から『漆根、死ね』って連呼してるし・・・」
「・・・・・・」
永川さんの性格から言って、それはそうだろう。僕の話も聞かないし、春日井さんが話さないのだから当然と言える。
「だけど、本当は違うんでしょ?」
僕は驚いて日比野さんの顔を見た。今度こそ本当に幻聴かと思った。驚き過ぎて言葉が出ない。ていうかさっきから何も喋ってないぞ、僕。
「どうしてそんな事が言えるのさ」
それだけを、精いっぱい絞り出す。
だってそうだ。僕の2年間は偽れない事実で、僕のイメージは完全に定着してしまっている。それは子供を救って死んでしまったけれどもそれでも「突き飛ばしたんじゃないか」と教師陣から不当な評価を受けた浦飯○助のように揺るがないイメージだ。そしてそれは日比野さんだって例外ではないはずだ。いや、4月を一緒の教室で過ごした日比野さんだからこそそのイメージはより強固なもののはずだ。ならば正しいのは永川さんだ。そして間違っているのは僕なんだ。
「わかるよ。クラスメイトだもん」
いつものしどろもどろな口調とはうって変わって、日比野さんの口調は力強かった。いや、口調だけではない。僕を見るその目も力強い。僕は思わず目をそらした。
「漆根君が何をしてきたのかは知ってるよ。高校に入ってから、その、いろんな人から話を聞いてたし。だけど、私は漆根君がそんな人だとは思えないよ」
「ちょっと待って」僕は日比野さんの言葉を遮った。
「春日井さんの話だと中学から僕の噂は広まってたらしいんだけど・・・」
そうらしい。僕は高校に入学した瞬間からクラスメイトから侮蔑の眼を見られていたし、教師陣から迫害されていた。いや、これは現在進行形だ。なんせ担任から夏休みに雑用をするために登校を命じられている身の上だ。なのだから、日比野さんだって前から僕を知っていてもおかしくはない。だとしたらそんな事を言えるはずがない。なんせ今の僕が当時の僕を振り返っても「うわあ」と引くくらいだ。
「あ、えっと、私は高校に入る前に引っ越してきたから」
「あ、そうなんだ」
まあ、そういうこともあるのだろう。
それでもやっぱりいろんな人から話を聞いてしまうんだな。まあ、4月当初の僕は人目をはばかることもなかったし。さすがに授業中に担任(生物教師)に告白はしていないけど。
「部活の先輩や友達にも、何人か、その・・・被害者はいたから、同じクラスになったって言ったら・・・」
「・・・・・・言ったら?」僕は息を飲みながら日比野さんの口元に注視した。
「追い込みかけようって」
「・・・・・・」
なんだか僕の方が引っ越した方がいいような気がしてきた。ああ、でも例えば沖縄とかに引っ越しても「私の親戚が君に告白されたから殺すね」とか言われそうだな。
「ちなみに部活って?」
手芸部とかならなんとか・・・いや無理だな。僕なんて縫い付けられて終わりだろう。
「剣道部だよ」
「まじか」
無理だ。むりむりむりむり。多分僕よりも胴着に繁殖したカビの方が強敵だろう。ていうか剣道部と言う事は日比野さんは来年入学してくる雫の先輩にあたるんじゃないのか?そして雫の先輩にも僕の被害者がいるという事だから雫もその話を聞いて僕は雫に殺されるんじゃないか?やばいな。ほんとにやばい。あいつならマジでやりかねない。今の内に警察にでも捕まってた方が安全なんじゃないのか?
「どうしたの漆根君?」思案にふけり始めた僕を訝しむような目で見た。
「ねえ、人に迷惑をかけずに少年院に入れられる犯罪ってないかな?」
「突然何を言ってるの!?」日比野さんは引いていた。
当然だ。僕の前にこんなことを言い出す人間がいたらソッコーで逃げる自信があるね。
僕だけど。
「ねえ、漆根君」
そんな事を考えていたら。日比野さんがまじめな顔つきで僕を見ていた。
「私、今、まじめな話してるんだけど」
「ごめんなさいっ!!」
僕は居住まいを正して日比野さんに向かった。さっきから僕の視界にちらちら入っては僕に恐怖を与える生玉ねぎにはソファの下に退散していただいた。
「えっと、それでね、とにかく若菜の様子が変で、でも私じゃどうすればいいかわかんなくて、その、なんとかしてくれないかなと思って声をかけたんだけど・・・」
「・・・・・・」
僕は親父さんの書置きに目線を落とした。とはいえその整った字を見ているわけではない。というか何も見ちゃいない。僕の両目のピントは虚空にあっている。もしかしたら寄り目になっているかもしれないが、日比野さんが「ふざけるな」と言わないので面白い顔にはなっていないようだ。
状況が全くわからない。春日井さんは怒ってはいないようだ。僕にももう苛立ちはない。だけど僕らの関係はぎくしゃくしたままで、なんの解決法も見出せないでいる。原因は既になくなったのに結果だけが残っている。そのせいで日比野さんも迷惑を被っている。どうすればいいのかなんて僕が聞きたい。
「だってもったいないじゃない。折角みんなで旅行に来てるんだから楽しくやりたいじゃない」
「・・・・・・」
それはそうだ。もちろん僕だってそう思う。できることならこの状況をなんとかしたい。
「日比野さんは良い人だね」
ぽつりとつぶやいた僕の言葉を聞いて、日比野さんは驚いたように顔の前で手を振った。
「そ、そんなんじゃないって。私はただ居心地が悪いのが・・・嫌で・・・・・・」日比野さんは勢いよく立ちあがった。よくよく見ると雫のように背筋が伸びている。なるほど、確かに剣道部員だ。
「そ、それじゃあ。私もできる限りフォローしてみるけど・・・・・・」
日比野さんの言葉尻は小さい。抜き差しならない状況であることは彼女も分かっているのだろう。
日比野さんは部屋へと戻っていく。僕はというと生玉ねぎをテーブルの上に残してにらめっこを再開した。
僕だってそうだ。どうにかしたい。昨日みたいに和気あいあい・・・だったかどうかは置いといて、楽しくやりたいと思う。
―――だけど、そんなのどうすればいいんだ?