なにを言っているんですかさつきさん。彼女は春日井若菜ですよ? 2
そしてきっかり一時間後、さつきさんのせいで無残にもよれよれになってしまった数学の問題集を一心不乱に進めている僕の姿があった。
「はっ、僕は一体何をしているんだ・・・?」
口元に手をあてがってみる。意思と反したゆがんだ表情。違う、これは笑みだ。絵美ちゃんじゃなく笑みだ。
そうだ・・・僕は確かに笑っている―――。
「だけど、そんな・・・」
ちらと窓の外に目をやる。昨日と変わらない晴天。うだるような暑さ。扇風機が音を立てて回っている。何も変わっていない世界。そう、僕だけが、この状況に置いて僕だけが異端―――
「でも・・・僕は、僕は・・・」
「一人芝居かっ!!」
パン、と後頭部を丸めた雑誌で叩かれた。
「いたっ!」
痛かった。結構本気で。どれくらい痛かったかというと、僕が今まで溶け込んでいた真夏の昼の夢から覚めるくらい。
「さつきさん・・・」
・・・・・・でした。
「まったく、今日は君をびっくりさせようと玄関から普通に入ってきたのになぜ気付かん!」腕を組んでそっぽを向くさつきさん。
おかしなキレ方だった。
それは僕が問題集に没頭しすぎていたからだろう。いつのまにかとっくに今日のノルマを越えていた。
「これじゃあ8月に入るまでに全部終わっちゃうじゃないか!
「知るかっ!!」
問題集を畳み、そっと本棚にしまう。これから大事にしなければ。
「・・・・・・」
「ところでさつきさん、今日はどうしたんですか」
定型表現でそう聞くと、さつきさんは腕を組んだままむくれた。超可愛い。
「聞いてくれ、耕太。昨日あれから私は謝って靴も揃えたんだ。なのに、なのにだぞ、シャツを後ろ前で洗濯かごに入れただけでどうしてあれだけ怒る!」
「・・・・・・」
相変わらず。
「なにが『洗濯する方の気持ちになってね』だ。ふざけるな!脱ぐほうの気持ちになれ!」
「すがすがしい、すがすがしいよ、さつきさん!」
すがすがしいほどの逆ギレだった。
「大体前から気になってたんですけど、さつきさんって家事何もしないんですか?」
「馬鹿を言うな、私は、私はなあ、お腹いっぱいの・・・」
「料理を作ってるんですか!?」
それはうらやましい。今度僕にも作ってくれないだろうか。
「笑いを提供している!」
「知ってる!!」
僕もうお腹はちきれそうだもん。
ていうか旦那さんも家事をするのに邪魔だからわざと怒らせて僕の所に送り込んでるんじゃないだろうか。いや、知らないけど。
「でも洗濯する身としては裏返しの服はイラッとしますよ」
「なにぃ?やつの肩を持つのか!?耕太なんか絶交だ!」
「うそうそ、嘘ですさつきさん!洗濯する方がどうにかすればいいじゃないですか!なにをそんなことに目くじら立ててるんですか。馬鹿じゃないですか!」
「そうだろう!やつは偏屈だろう?」
「あぁ、苦労が見えるなぁ」
さつきさんと結婚するのも楽じゃないってことか。
「ていうか僕と絶交したら家出する時どうするんですか・・・?」恐る恐る聞いてみる。
どこかほかに身寄りがあるならその家を燃やさなければならないな。
「むっ・・・。うーん、うーんと、つむぎの部屋だ!」
「隣っ!?」
無理だよ、ちょっと部屋出て歩いたら会えちゃうよ!そんなんじゃ全然交わりを絶てないよ!
「くそう、謀ったな」
「謀ってない!」
その落とし穴は天然ものですよー。
「さて、今日のイベントはなんだ、耕太」さつきさんは急に話題を変える。これも慣れたものだ。
「僕の人生に何を期待してるんですか?」
イベント?何それ、おいしいの?
「君は夏休みの間に発酵するんじゃなかろうか・・・」
大豆が発行したら納豆になる。さて、ここで問題。僕が発酵したら何になるでしょう。
「腐乱死体だな」
「怖いよ!」
まずい。まずいまずいまずいまずい!何か、何かしなければ!
「携帯で誰か友達を呼べばいいんじゃないか?」
「ぐわっ!」
友達だと?携帯だと?何だそれは!
「いやいやだから、友達に電話して遊ぼうと言えばいいのではないか?」
「及川は家族旅行。春日井さんは夏期講習。はい、終了」
僕のアドレスに登録されている携帯番号。父さん、母さん。及川、絵美ちゃん。春日井さん、シュウ君の自宅電話。以上。
「・・・・・・ごめんな、耕太」
本気で謝られた。
「わかればいいんですよ。まあ、言っても春日井さんを遊びに誘うなんて大それたまね、僕にはできませんが」
「誘ってやればいいと思うがな」
「訴えられます、セクハラで」
「どんな冷血人間だ!?」
「なにを言っているんですかさつきさん。彼女は春日井若菜ですよ?」
「すごい説得の仕方だ!」さつきさんはむむ、と唸って目頭を押さえた。
「いや、でも、夏休みは長いんだ。毎日夏期講習というわけではないんだろう?ダメもとでやってみればいいんじゃないか?」
「ええまあ、8月の上旬でとりあえず終わるみたいな話でしたけど」
「よく知っているな、まさか・・・」さつきさんの目の下に少女漫画よろしくの縦線が入った。
「違う、違います!断固としてそれは違う!!」
まさか・・・の後は言われなくても察しがつく。
僕はストーカーではない!
「夏休み前に予定表が写メで送られてきたんです、なぜか」
春日井さんからのメールは大半どころか十中八九意味不明だ。あの最強パスワードを皮切りにたまにメールが送られてくるのだが、突っ込まないとその次の返信が来ず、突っ込むと点数が返ってくるという恐怖のルールが存在する。
「とんだ誘い受けだな・・・」
「え?何か言いました?」
「いいや、なんでもない。・・・そうか、腐れ!」
「結論はえー!!」
だが、ほかに選択肢はない。いいだろう、僕は腐る。腐男子になる。
「それはジャンルが違うぞ!君は不断死しろ!!」
「絶え間なく死につづけるんですかっ!?」
どんな状態だ?
「まあ、私だ」
「あ、えっと・・・」
返しづらい。僕はさつきさんのこの手の話が自虐なのか受け狙いなのか、それともさみしいのか、さつきさんとはもう4カ月近く一緒にいるというのに、全然判断ができない。それができるのはこの世でもあの世でもただ一人だけなのだろう。