さだめ
房江はあの日のできごとから、廊下を歩く音が聞こえる度に心が揺れた。
その音は哲夫ではないかと、仕事中も気になり始めた。
哲夫は背たけも高く好青年であり、置屋では主に帳簿を付けるなどの仕事をしていた。
芸者の多くは哲夫に憧れをいだいており、房江もその一人であった。
哲夫はその頃、二十歳であった。
しかし、哲夫には以前から、縁談の話があった。
置屋と親しくしている藩士の娘との、いわば家だけのつながりのための婚姻話だった。
哲夫はこの婚姻話を快く思っていなかった。
藩士の娘は美津子といった。
美津子と哲夫は、まだ会ったこともなかった。
そして、哲夫は以前から房江のことが気になっていた。
房江が置屋の片付けをしていると、哲夫は毎日のように、さり気なく顔を出していた。
房江も会う度に、恥ずかしげに目をそらしていた。
しかし、哲夫は決められた婚姻の話もあり、それ以上に話しかけることはできなかった。
房江も身分の違いを感じていたので、なおさらだった。
彼女にとって、哲夫は雲のような遠いあこがれの存在であった。
決して手に届くはずがないと思っていた。
ある日、房江が廊下を拭いていた時のことだった。
哲夫の部屋の奥から声が聞こえてきた。
「母上、私にはまだ縁談は早いです。もう一度考え直してもらえないでしょうか」
「何を言うの、あなたにとって、これ以上にええ話はないやろ。あなた、もしかして、誰か気になっている人でもいるんやないの?」
「いえ……」
「ほな、それで決まりやね」
「わかりました……」
「そうそう、それでええのや」
房江は抑えきれぬ想いを胸に、その場を離れた。
風鈴の音が静かに響いていた。
気がつくと頬から雫が浴衣に落ちた。




