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校正者のざれごとシリーズ

校正者のざれごと――ナッジ理論と健康診断

作者: 小山らいか
掲載日:2026/01/25

 私は、フリーランスの校正者をしている。

 先日、ついにおそれていたことが起こってしまった。それは健康診断の結果。指摘されたのは血圧で、基準よりちょっと(いや、結構)高い。いままでは基準を超えるようなことはなかったのに。予想外のことに動揺する。思い当たる点はただひとつ。お酒、ですね。

 夫に結果を伝えると、「ふうん、血圧高いんだ」と心なしか嬉しそうな反応。彼は以前からコレステロールなどいくつか指摘を受けている。同志を得た、ということか。

 高血圧で最も注意するべきは食塩の過剰摂取。日本人は他国と比べて食塩の摂取量が高いと言われているそうだ。日本人の食事摂取基準2025年版では、食塩は男性7.5g、女性6.5gが推奨されている。お酒飲みは濃い味のつまみなどが原因となって塩分の過剰摂取が問題になりがちだ。

 いま担当しているゲラ(校正紙)では、行動経済学について触れている。なかでも、ふだん健康にあまり関心のない人に望ましい食行動をとらせるためにはどうしたらいいか、ということが書かれていた。そこで登場するのが「ナッジ」の理論だ。

 ナッジ(nudge)とは、英語で「軽くつつく、そっと後押しする」という意味の言葉で、ナッジ理論は経済的な利益や罰則などを用いずに、人の行動を変える手法をさす。身近なところでは、スーパーなどで距離をとって並ぶことを促す足跡マークがある。コロナ禍ではソーシャルディスタンスが求められたが、足元にマークがあることで必要な距離の取り方がわかり、あまり混乱せずにそれまでの行動を変えることができた。

 ゲラに出てきた例はとある会社の社員食堂。健康診断で血圧が高い社員が多いことがわかった。社員たちにできるだけ減塩メニューの定食を選ばせたい。しかし、人気があるのはカレーやラーメンなど塩分の多いメニューだ。ここでナッジ理論を用いる。減塩メニューの定食を、ほかのメニューより優先的に提供する「時短」メニューとしたのだ。これにより、「減塩」に関心の薄い社員でも定食を選ぶ頻度が高くなったという。

 健康志向の高まりもあってか、最近私の所属している校正プロダクションでも健康に配慮した料理の本の依頼が多くなっている。嚥下機能に心配のある人向けのやわらかい食事の作り方や、脂質や糖質の量がすぐにわかるレシピなどを扱った本だ。

 校正で誤字・脱字を拾う際、基本的にはすべての文字に同じように意識を向けて読んでいく。しかし、同じジャンルの文章を何度も読んでいるうちにある種の傾向のようなものがわかってくる。この内容の文章ならこんな誤字が多い、など。健康・栄養に関する本であれば、「内臓(×内蔵)」「萎縮(×委縮)」「徐脈(×除脈)」といったところだ。ほかにも、いつも使い分けに迷うのは「速攻」「即効」「速効」の表記。広辞苑(第5版)では「速攻=すばやくせめたてること」「即効=薬などのききめが即時に現れること」「速効=ききめがはやいこと」とある。薬に関してはやっぱり「即効」だよね、などと思っていたら、「ルルアタック」は「速攻」を使っていた。公式HPを見ると、「速攻とは気になる症状に早めに対処すること」と注意書きがある。なるほど。あえてこの表記を使っているのね。言葉の使い分けは難しい。 

「予備軍」と「予備群」も気になる表記だ。「メタボ予備群」などという表記はよく見かける。しかし「予備群」という表記は広辞苑(第5版)、大辞林(第2版)ともに採用されていない。本来は「予備軍」なのだが、近年おもに医療分野では「予備群」という表記も使われるようになっており、厚生労働省HPでも生活習慣病やメタボリックシンドロームについて「予備群」を使っている。言葉は常に変化していて、必ずしも間違いとはいえないこともある。指摘するか迷うところだが、いまでは許容することが多い。

 ナッジ理論の考え方のひとつに「EAST」というのがある。「E=easy(簡単)」「A=attractive(魅力的)」「S=social(社会的)」「T=timelyタイミング」の頭文字だ。今回のゲラにあった社員食堂の例では「A=attractive」が用いられている。定食に「時短」という魅力を付加することで、強制することなくそっと選択を促している。

 ちなみに「S=social」というのは、人には社会性があり、まわりの多くの人が取っている行動を取りやすい、ということ。商品の説明の「約96%の人がまた使いたいと言っています」といった言葉もナッジのSに当てはまる。また、がん検診の受診率を上げるために、「受けますか?」ではなく「いつ受けますか?」と初めから選択肢を狭める方法もある。これはナッジの「E=easy」に当たり、受けるかどうかではなく「いつ」受けるかという方向に思考を向けさせることで、考える(迷う)手間を省いているのだという。

「ねえ、今日のおかず、ちょっと味薄くない?」

 夫が作ってくれたおかずが、今日は少し薄味だった。すると彼は、

「だって、血圧高いんでしょ」

 ニヤッと笑う。そうきたか。でも彼は、自分もお酒好きなので私に酒量を減らせとは言ってこない。ここは自ら減らすべきか。行動経済学でも使って。健康第一、だよね。

「美味しいビール、買っておいたよ」

 T=timelyなお誘い。いいねえ。すぐに嬉々として乗ってしまう。あれ、行動経済学はどこに? 知識はあるのに。全然、使えてないよね。


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